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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(130)「命」の輝きとは、枠にはめられることのない自分自身の個性の輝き! 顕家父・北畠親房のイケオジぶりなどにも触れつつ、今週のおさらい 

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年10月28日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「総大将の家長が戦死する中 足利の主力武将達は皆鎌倉から脱出した

 この部分、古典『太平記』では次のように記されています。

 一日、おのおの身命を惜しまず戦ひける程に、一方の大将にて向かはれたる志和三郎、杉下にて討たれにければ、この陣よりいくさ破れて、寄手谷々に乱れ入る。寄手三方を囲んで、御方みかた一所に集まりしかば、討たるる者は多くして、戦ふ兵少し。かくては、始終叶ふべしとも見えざりければ、大将左馬頭を具足し奉つて、高、上杉、桃井以下いげの人々、思ひ思ひ心々(こころごころ)になつてぞ落ちられける。
 ※一日(いちにち)…終日。
 ※志和三郎(しわのさぶろう)…斯波家長のこと。
 ※杉下(すぎもと)…杉本。
 ※谷々(やつやつ)…鎌倉の町を構成する谷あいの地。
 ※大将左馬頭(さまのかみ)を具足(ぐそく)し奉つて…足利義詮をお連れして。
 ※心々…それぞれの心まかせに。

 『太平記』の別の本では、家長は「杉本の観音堂に於て腹切り玉ひ」となっています。

 討死か自害かの実際のところはわからないのですが(三浦半島の方に逃れた後にそこで切腹したという記録も残っているそうです)、第130話の冒頭で「一人の少年が全軍の責任を一身に背負って死を選ぶ それがこの時代」という部分と重なりますね。

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 「ううう… 家長… 我が戦えなどと言ったばかりに

 地にうずくまって泣く義詮……家長に利用されていた(いる)ので、本心から彼の死を悲しんでいるのだと思うとなんとも複雑な気持ちになります。一方、「どうか父君に嘆願書をお書きください」という上杉憲顕の神妙な顔つきは、利根川で泣き叫んだ家長よりもはるかに演技が達者な気がします。
 さて、実際に家長の遺族には以下のような配慮がなされたようです。

 同三月北朝除目で家長は陸奥守に任命され、ひきつづき奥羽両国支配にもかかわった。同年陸奥から再度の上洛軍を進める北畠顕家の鎌倉府攻撃をうけて、十二月二十五日家長は鎌倉杉本観音堂(一説に三浦半島)で自殺した。『武衛系図』によれば、享年十七。斯波一族から養子(詮経)を迎えてあとをつがせたといい、これが斯波郡高水寺城の斯波御所の系統であるという。奥州・羽州両探題の大崎・最上氏は家兼の子孫である。
 ※同…建武四年。
 ※斯波郡…家長の「父祖伝来の名字の地」が「陸奥国斯波郡」であった。現在の岩手県にある。

 以前、〝家長には十七歳で子供がいたんだ!?〟と驚いたのですが、実子ではなく養子によって家をつないだのですね(年齢的には、奥方や実子がいてもおかしくはないのが、「この時代」ではあると思うのですが……

斯波家長編では、北畠顕家を対置することで〝生きることの意味〟が
現代を生きる我々に向けて鋭く問われたと考えています。

 「家長もまた美しく輝き死んだのだ」「称えこそすれ惜しむ所などどこにあろうか

 『逃げ上手の若君』では、時行の前に何人もの個性豊かな「」が現れて、時行に影響を与えています。北畠顕家の前には、今回家長を破るに至った教えを授けた楠木正成がいます。正成は、思想&戦闘スタイル(?)的には時行と同様の「逃げ上手」なのですが、顕家はまったくそうではありません。帝の暗殺をくわだてた叔父・泰家を「てっきり助けては頂けないかと」と礼を述べる時行に対して、「典型的な小者の発想よ」と返して一蹴します。

 「たとえ産まれてすぐに死んだ赤子でも… 一生を懸命に生きた命には輝きがある

 こうした思想のもとに、顕家は家長を「称え」るのです。ただ、大事なのは、時行は顕家を真似る必要などまるでないということです。時行はあくまで、「…斯波家長も 生かして味方にする手段はあったでしょうか」という考えで良いのだと思います。ーーなぜならば、顕家と時行は別の個性だからです。そして、家長もまた。
 家長は、十七歳の自分自身を限界まで燃やすことを選んだ「」なのです。そして、顕家はそれをもっともよく理解し、家長のその「」に対して誰とも区別することなく「敬意」を表しているのです。
 家長の側から見ても、第129話で描かれた現代(未来)の家長(孫二郎)ではかなわなかった「」の燃焼が、南北朝時代には存在したのです。

 泰家を許すも許さないも、帝暗殺の発想から実行までに及んだ泰家の武士としての闘志と大胆な個性をそのまま認めて受け入れるというのが、後醍醐天皇と、その理想を支える顕家の思想&戦闘スタイルであり、気宇壮大の一言に尽きます。

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 後醍醐天皇と顕家と言えば、とうとう、顕家・父の北畠親房が登場しましたね。正直、近寄りがたいやや怖い人のイメージがあるのですが、顕家の父だけに目元は似ていてイケオジでしたね!

北畠親房(きたばたけちかふさ)
一二九三 - 一三五四
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。中院流村上源氏。従一位、大納言、准大臣、准三宮、永仁元年(一二九三)正月(日次は十三日・二十九日などの説がある)誕生。父師重、母は左少将隆重女。祖父師親の子となる。同年六月叙爵。正安二年(一三〇〇)、兵部権大輔に任官。左少将を経て、嘉元三年(一三〇五)、権左少弁に任ぜられて以来、朝儀への参仕多く、延慶元年(一三〇八)、十六歳で従三位に叙せられて、公卿の列に入る。この間、徳治二年(一三〇七)、左少弁を辞任したが、理由は冷泉頼俊が弁の官歴なく大蔵卿から右大弁に直任した異例に対して腹立の余りという。延慶三年、正三位、参議、翌応長元年(一三一一)には左中将を兼ね、左兵衛督、検非違使別当を歴任して権中納言に昇任、正和元年(一三一二)、従二位に叙せられた。同四年、祖父師親の死去にあい、服喪し、散位となるが、文保二年(一三一八)、後醍醐天皇の践祚後、権中納言に還任、翌元応元年(一三一九)、中納言、同二年には源氏第一の公卿の推さるべき淳和院別当に補せられた。後醍醐天皇の信任厚く、世良親王の養育を委ねられた。元亨三年(一三二三)、権大納言、奨学院別当、さらに按察使を兼ね、翌正中元年(一三二四)には父祖の極官を越えて大納言に進む。朝儀に参じて広学博覧の賢才といわれ、吉田定房・万里小路宣房とともに「後三房」と称された。元徳二年(一三三〇)、養育中の世良親王の死去に殉じて出家。法名宗玄(のち覚空)。時に三十八歳。その後三年余の消息が不明であるが、後醍醐天皇の建武新政府成立後の元弘三年(一三三三)十月、義良親王を奉じて陸奥国府に下向した長子顕家を後見、奥羽の経営に尽くした。建武二年(一三三五)、中先代の乱を契機として、足利尊氏が建武新政府に叛くや、顕家の上洛軍に先んじて入京、翌年正月、後醍醐天皇の近江坂本への行幸に供奉した。尊氏の西走後、顕家は再度奥州に赴いたが、親房は滞京した。同五月、尊氏の鎮西からの上洛により建武新政府が崩壊したが、親房は伊勢へ下って在地土豪の把握につとめ、同十二月、後醍醐天皇の吉野遷幸に始まる南朝の拠点を形成した。

 このあと、親房と結城宗広とで熱血なオジがらみ(?)が出てくるので、『逃げ上手の若君』でも取り上げてほしいです。

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 さて、先にもこのシリーズでも触れた話題なども再度紹介したりしながら、第130話をもう少し振り返ってみたいと思います。

 「親房 この時行の降伏文書を百部複製し 京の街中に貼って回れ

 「時行の降伏文書」は、以下の回で詳しく紹介しています。

 当時はコピー機などなく書き写すしかないので、「百部複製」は帝の権威・権力なしにはありえません。ちなみに、こんなことが本当にあったのかどうかはわかりません。しかしながら、『太平記』に詳しく書状の内容が残っているというのは、「時行の降伏文書」を帝以外にも手にしていた可能性があるということかもしれませんので、そう考えると面白いですね。
 そして、帝のこの策はおおいに「尊氏に一泡吹かせ」ることができた一方で、またしても関係のない人が殺されてしまうという事態が、〝デジャブ〟とともに起きてしまいました(涙)。

 尊氏の慈悲心に「ほっこり」してしまっているのを見透かされないように、枝毛ケアとネイルケアをしている高師直と佐々木道誉には笑いましたが、時行の話題が出た際に表情がひきつり、後処理も完璧なのが〝なんだかな~〟です。

 あと、北条泰家が生きていたという展開は嬉しいですね! 鈴木由美氏の『中先代の乱』では死亡説をとっていたので、『逃げ上手の若君』ではまだまだ暴れてほしいです!!

 『太平記』には、杉本での戦いに勝った顕家らが鎌倉に入ってからの世情を次のように記しています。 

 「かかりし後は、東国の勢、宮方に随ひ付く事雲霞うんかの如し。

 鎌倉では正宗が待っているとシイナが時行に伝えていました。二度目の鎌倉ではどのようなことが待ち受けているのか、目が離せません。

〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕


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