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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(133)正室と側室たちとが「仲良くお家を盛り立てて…」なんて絶対無理!? 足利直冬登場であらためて考えさせられる家族の絆……(クジラの話題もあります!)

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年11月18日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 『逃げ上手の若君』第133話のタイトルは「恋愛1337」でした。〝この子はもしや…〟と思ったら、案の定、少年時代の足利直冬だったという衝撃の新キャラ初登場もあり、私個人は作品中に隠された重いテーマばかりが気になってしまいました。
 皆さんはどうだったでしょうか。人からもよく指摘されるのですが、私はどうも思考が暗いんですね(悲しいことに小さい頃から……)。
 だから今回、純粋にクスッと笑えたのは、南部師行の「ほわっ」だったりします。〝「ほわっ」って“What?” のことかあ! 常に草嚙んでるのもガムなんだきっと!!〟なんて想像して、ハリソン・フォードっぽい人の南部さんのキャラに面白みと親しみを感じるのです。
 でも、そのあたりもどうも自分の感覚が少し人とは違うのかなと悩んだりします。〝あれ、おもしろかったよね!〟という内容が、共感されないことが多いのです。でもこれは、自分だけの感覚だから、大事にしようと思います。
 そんなわけで、暗くて重いテーマでも、漫画という作品でそれを感じさずにテーマとして織り込みながら、エンターテイメントにまで昇華させる松井先生は、本当にすごい才能だなという思いを新たにするのでした。

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 さて、まずは、鎌倉の海に登場したクジラについて触れたいと思います(そこから!?)。

 クジラ漁が産業として発達していくのは、戦乱の中で海賊が生まれ、水軍の技術が発達する鎌倉・南北朝時代から室町時代末期にかけてです。南北朝の前後に鯨銛の原型が出来上がりました。南北朝時代に鯨銛の原型ができ、室町時代に銛の工夫がされました。そのため、これまで困難だったゴンドウクジラクラスの捕獲ができるようになってきました。
 出典:日本とクジラ(福岡市博物館)〔日本初くじら原料販売サイトくじらにく.com〕

 そもそも捕鯨自体は相当に歴史が古いようで、驚きです。

 人類が有史以前からクジラを捕獲して利用していたことは、世界各地の貝塚からの出土品や原始画などによりうかがうことができる。日本は世界のなかでもくじら肉の利用度が高く、古くから勇魚 (いさな) の名で魚として扱われてきた。『古事記』や『万葉集』に久治良、勇魚の字がみられる。和歌山県、高知県、長崎県、佐賀県などでは早くから食用とされていた。〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕

 日本人と鯨の歴史は古く、縄文時代の集落跡からも鯨骨が多数発掘されている。当時は、生きたまま湾内に迷いこんだ鯨や陸に乗り上げた「寄り鯨」を、天の恵みとして利用した。積極的に捕鯨を行なうようになったのは、漁業技術が発達した江戸時代初めの頃。最初に「突き捕り式」捕鯨を試みたとされるのは三河(愛知県)の師崎(もろざき)で、これを組織化し、日本初の捕鯨専業組織を誕生させたのが紀州(和歌山県)の太地(たいじ)である。〔日本の歳時記〕

 五年前には、由比ガ浜海岸に死んだシロナガスクジラが漂流したようです。

                         〔国立科学博物館〕 

 雫が、結城軍ではなく南部軍に鯨を献上したのは、結城宗広がヤバイ人だったからではなく、より遠方からの行軍だったからなのでしょう。
 冒頭で記したのとは違うのですが、ここにもひとつ重いテーマが隠されてもいます。古典『太平記』には、顕家軍の醜態が語られています。この後、正月八日に鎌倉を出て、五日かけて京に向けて進軍する場面です。

 元来もとより無道不造の夷どもなれば、路次ろし民屋みんおくを追捕し、神社仏閣をこぼちたり。すべてこの勢の打ち過ぎける跡、塵を払うて、海道二、三里が間には、家の一宇も残らず、草木の一本もなかりけり。
 ※無道不造(ぶとうふぞう)…無道は、人の道にそむくこと。不造は、いたらないこと。
 ※追捕(ついぶ)…奪い取ること。
 ※一宇(いちう)…一軒。

 〝盛り〟の表現がまさにてんこ盛りの『太平記』ですので、まず顕家軍が「五十万騎」の記載から疑ってかかるところながらも、当時の兵糧は現地調達(要するに〝略奪〟)が当然のことであるのです。それでも、〝こうあってほしい〟という理想を物語や漫画が描くことについて、私は悪いことだとは思いません。

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 さて、次は足利直冬です。亀田俊和氏の『観応の擾乱』では、足利直冬を次のように紹介しています。

 足利直冬は、嘉暦二年(一三二七)に誕生したと推定されている。母親は、越前局えちぜんのつぼねとされる。
 幼少期の直冬は、鎌倉の東勝寺で僧をしていた。元弘三年(一三三三)五月に鎌倉幕府が滅亡した際、得宗北条高時以下一〇〇〇人以上が自害した場所である。
 成長した直冬は還俗して上京し、尊氏に子として認知してもらおうとした。しかし、尊氏は絶対にこれを認めなかった。仕方なく直冬は、独清軒玄恵どくせいけんげんえ法印という僧侶の許で詫び住まいをして勉強を続けた。

 ※還俗(げんぞく)…一度、出家したものが、再び俗人にかえること。

 若干ネタバレ恐縮ですが、すでに作品中にその伏線は張ってあるようです。時行のセリフに注目してみましょう。

 「拒絶するならその程度の父 そんな男は無責任で身勝手な人格破綻者だ!」

 そのとおりです時行君、あなたもよく知っているそんな男が彼の父親です……。実際のところ、なぜ足利尊氏が「殺し合いを繰り広げる」ほどに直冬を毛嫌いして拒絶したかについてはわからないようです(直冬の側が憎悪の感情を持つのは納得なのですが)。
 少年直冬は、尊氏や義詮とは違ってタレ目ではなくツリ目で、率直な性格も含めてどちらかというと直義似なのにも、歴史的な事実からは松井先生のキャラ作りに唸らされましたし、今から足利兄弟と直冬をめぐる展開に期待しかありません。

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「嫡子」の髪型がモロに義詮!?
(「正室」の髪の毛がストレート、「側室」の髪の毛がカールなのも印象的です。
※当時、カールした髪型はそれだけで女性のNG要素だとも。)

 さて、先には時行の言に乗じて尊氏のことを悪く言った私ですが、ひとつだけ理解できる点もあります。「母が身分の低い側室」が生んだ長男であって、年下でも正室の子である嫡男の義詮とは差を付けなければ、両者をめぐって争いが生じるという考えをもっての直冬の処遇であれば、それは致し方ないだろうということです(ただ、結果的にはとんでもない争いの引き金となり、以降、十五代に至るまで〝足利家に家族の絆とかあるんかい?〟という悲しみを私は感じてしまいます……)。
 直冬が、自分の置かれている立場を告白したところで、伏し目がちの亜也子が描かれます(雫が表情の見えない頭だけというのも、また憎い演出です)。

 「まず私たちが若様と結ばれて そのあと来た正室のひとと仲良くお家を盛り立てて…

 そんなこと、本当に可能なのでしょうか。……あ、当時なら、十二歳ならば結婚には十分な年齢ですので、問題はそこではありません。

 (ちなみですが、雫がなぜ「ちぎる」でうろたえているかと言うと、「生き餌」のゴカイか何かの「にゅる」「うにょ」で気持ち悪いからではないと思われます。古語の「ちぎる」〔=契る〕には、「愛を誓う」そして「夫婦の関係を結ぶ」という意味があるのです。亜也子はその意味で、明確にこの語を使っていますね。)

 時行はああいう性格ですので、本当に「正室も側室も関係なく大事な家族」を実践できるのかもしれませんが、妻たちの側はどうでしょうか。そして、それぞれの子に対する母たちの思いと、直冬のように子ども自身の気持ちはどうでしょうか。
 前近代の、もしかしたら現代においてすら、男女の問題と子に対する愛情の問題は、争いの原因となっています。それも、個々の感情と利害関係に端を発して、多くの人々を巻き込むのです。恋愛感情は、冒頭で触れた「作品中に隠された重いテーマ」ではないかと私が考えるゆえんです。
 どうやら、雫は執事としての立場があることからも、自分の気持ちとは別にそれを理解しているようですが、亜也子はどこまでも自分に正直です(それがまた、女の子らしい魅力と言えば魅力です)。

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 「未来が不安でに安全資産おかねに目がくらんでた

 雫は、人生の価値や意味を決める非常に重要なことを語っています。私はかつて、アメリカのミリオネラー(億万長者)が、インタビュアーの〝今、幸せですか?〟といった問いに、〝これがそうじゃないのか?〟と言って、豪華なクルージングや贅沢品を〝楽しんで〟いる様子をカメラの前に披露したTV番組を強烈に覚えています。私は、彼が視線を泳がせてそう答えているのを見逃しませんでした。ーーこれが、本当に幸福な人の表情なのだろうか? お金で買えるものなどたかが知れているのではないか?
 北畠顕家がなぜいつもキラキラしているのか? 彼には常に〝今この時〟がすべてであるという、強烈な生命の燃焼があります。それは、思いが未来にばかりいって不安な雫、過去への執着が自身の可能性を阻んでしまう斯波家長らとの決定的な違いです(その巧みな描き分けが、『逃げ上手の若君』の作品としての完成度の高さだなとも感じます)。
 
 「|父様《とおさま》は なぜ私にこんな力を
 
 雫の父である諏訪頼重も、きっと未来の不安に悩まされることが多々あったと思うのです(自分の最期も見えたかもしれませんし……)。それでも、松井先生が描いた彼の穏やかな最期で、その生をまっとうしたことが私たち読者にも伺い知ることができます。
 そして、このことについても期せずして(?)時行が、その答えを教えてくれています。

 「育ての父から愛と志を

 頼重にたとえどのような未来が見えていたとしても、〝今この時〟を信じることができたのは、自らの中に「愛と志」があったからではないでしょうか。

 (最近、北条氏と諏訪氏の関係を調べることがあり、記録類から残された事実からも、両者の絆が思った以上に強いのではないかということを知りました。前近代には、疑似的な家族のシステムが私たちの想像以上に機能していたのは事実ですし、その中でも〝特に〟かなと感じました。)

 時行はそうではなくても、正室と側室たちとの間で「仲良く」なんてことはあり得ないと、先に私はそう述べたのですが、中先代の乱や湊川の戦いについて、私たちが〝こうあってくれたらいいな……〟と思い描く以上の〝書き換え〟を鮮やかにしてのけた松井先生ですから、〝もしかしたら〟という気がしてくるのが不思議です。
 〝そんなの無理だ〟という思考法をやめられたらいいなと思う、過去にこだわるし未来が不安な私です。

〔『太平記』(岩波文庫)、亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)を参照しています。〕


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