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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(95)「狂犬」三浦時明は自らの心に問う…嘘のない泰家のピュアさがおキレイすぎる直義の「理」に勝利する!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年2月3日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「哀れ(君が)

北条泰家に本気で哀れまれてひるむ三浦時明…すでに〝破壊〟されている!?

 『逃げ上手の若君』第95話にして、出たか、……キレイな泰家。
 「哀れ」が額に登場したのは第49話以来ですが、この際は「西園寺公宗様の下男として雇って頂けるお約束なんですぅ」と、涙と鼻水にまみれて関所を通過せんとする〝本気度〟が表れてのものでした。
 前回のこのシリーズで私は、

 泰家と言えば、諏訪に到着した時に、美人巫女三人組を見て額に「やるぞ」と出てしまい弧次郎が憤慨していましたが(第47話参照)、友人がこの場面を見て〝泰家さんはこれじゃ恋愛や女性関係も大変そう…〟と言っていたのを思い出します。果たして、どうでしょうか。

と問題提起(?)させてただきましたが、この顔と額の文字で迫られたら、女性もイチコロだったかもしれません。そのくらい、自分に正直というのは大事なことなのです。
 「影の薄い」諏訪時継が、一般的にはネガティブとされるその特性を受け入れ、自らのスペックとしているように、額に気持ちが表れてしまう泰家は、とことん自分に正直になることで、ハンデとしか思われない自己の特性を最強の武器にしてしまっているのです。


 「泰家が顔に出る時は嘘は無い

 「哀れ(君が)」「まあおちつけ〔白ヌキ〕」「楽しい」「よき」と、次々と展開する泰家の〝本心〟に対する三浦時明のリアクションがいちいち笑えますが、それだけ時明の気持ちが揺さぶられているのがわかります。

 前回私が「おキレイ」としたのは直義の「理」でしたが、実は〝正直〟〝素直〟にまさるピュアなものはないということを、これまでこのシリーズで何度もくり返してきました。汚れなき子どもが「縁起物」であるという解説が『逃げ上手の若君』でも何度かなされてきたと思いますが、糞味噌なオッサンであっても、正直であることは子どもの持つ神聖さと変わらないというのが、当時の日本人の考え方でした。
 もしかしたら、「おキレイすぎる」直義は、感情というものがどういうものであるのかよくわからないタイプの人なのかもしれません(私は、心理占星術の鑑定などもしているのですが、人によっては「理」が過ぎて「感情」が皆無みたいな方があり、まさに『逃げ上手の若君』の直義みたいな雰囲気です)。ーー正しいけれども、いつの間にか他者との間に大きな溝ができているというか……私は直義の才については魅力を感じているので、直義を弁護するとすれば、部下になるのはありかなと思っています。自分の気持ち次第でひいきしたりはしないですからね!
 そうは言うものの、もし泰家の部下や恋人であったならば、人生は毎日が変化に満ちて「楽しい」のは間違いないと思うのです。そして、時明の選択は、混迷する時代における生の意味を考える点では、見逃せないあり方だと考えます。


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 横須賀市の公式HPに、「三浦一族研究」

というページがあり、その中の「三浦一族関係年表」に以下のようにあります。

建武二年|1335|7・23|三浦介時継、鎌倉に迫る北条時行に従う。軍中に三浦若狭判官時明あり(中先代の乱)。

 また、『日本歴史地名大系』の「鶴岡八幡宮」の項目には、

建武二年(一三三五)七月二五日に北条高時の子時行が鎌倉幕府の復活をはかって鎌倉に攻め入った際(中先代の乱)、八月一五日、部下の三浦時明は所願成就を祈って上総国「市東(ママ)郡」内の年貢用途五〇貫文を当宮に寄進した(「三浦時明寄進状」県史三)

とあり、足利一門に交じって関東庇番の役に付いていた時明は、北条時行側へ寝返ったことがわかります。
 井出沢であんなにも鮮やかに戦局を覆したかは、私にはわからないのですが、またしても松井先生の描くストーリーの巧みさに驚かされるのです。

三浦一族については、八郎登場時にこちらでも簡単に触れています。


 また、時明が「八郎は「北条様への忠義を貫く」と聞かないから追放した」とある部分もすこし調べて、考察してみたいと思います。
 戦乱の世では、親兄弟をはじめとする一族が敵味方となって戦ったことが『平家物語』を読んでもわかりますし、かつての大河ドラマ『平清盛』でも、それがとても衝撃的に描かれていたのを覚えています。
 私がこのシリーズでしばしば取り上げている一遍も、伊予の豪族である河野氏の出身で、承久の乱の時に当主であった一遍の祖父が上皇方についたことで一族は没落しました。しかし、出家していた一遍の父親が家督を引き継ぎます。それにより、幕府方に付いた一遍の父の兄弟との争いは絶えなかったのですが、いずれにせよ、全滅は避けられているのですね。
 大河ドラマ『平清盛』では、叔父である平忠正が、保元の乱で自ら清盛と袂を別って崇徳上皇側に付いて斬首されました。また、清盛の異母弟である頼盛は、平家の都落ちから離脱し、平家滅亡後も頼朝に厚遇されています(頼盛の母が、平治の乱の際に頼朝が命を助けてもらった池禅尼(いけのぜんに)だからだとか、ある時期から清盛との仲が悪くなっていたとかいった説があるようですが、ドラマでは裏切りの汚名を着せられても、一族の生き残りとなるという選択をしていたかと記憶しています)。
 これを見れば、意図的であれ、偶然であれ、一族が分かれて誰かが生き延びるという可能性を考えた中で、厳しい選択が個々にも迫られたということなのでしょう。だから、兄弟がそれぞれに違うスタンスでいくというのは、源平の戦い以来のことで、南北朝時代では当たり前だったとも聞いたことがあります。
 
 「奴のように愚直な男は三浦家にとって災いになる 狡くなくてはこの乱世は生き抜んのだ!」と血相を変えて泰家に〝嚙みついた〟時明ですが、「先祖の代の裏切りと狼藉が原因で」「忌み嫌われ」、「裏切るほど信用を失う負の連鎖」を思い起こし、自らの心に問う時明は何に気づいたのでしょうか。

 鎌倉右府の将軍家に、正月朔日、大名ども参りたりけるに、三浦介義村もとより候ひて、大侍の座上に候ひけり。
 その後、千葉介胤綱参りたりける、いまだ若者にて侍りけるに、多くの人を分け過ぎて、座上せめたる義村がなほ上にゐてけり。義村、しかるべくも思はで、憤りたる気色にて、「下総犬は臥しどを知らぬぞとよ」と言ひたりけるに、胤綱、少しも気色変はらで、とりあへず、「三浦犬は友を食らふなり」と言ひたりけり。
 輪田左衛門が合戦の時のことを思ひて言へるなり。ゆゆしく、とりあへずは言へりける。
〔『古今著聞集』〕
 ※鎌倉右府の将軍家…源実朝。
 ※三浦介義村…三浦義村。
 ※千葉介胤綱…千葉胤綱。
 ※輪田左衛門…和田義盛。
 ※ゆゆしく…ここでは、怖いもの知らずにもくらいの意味か。
 ※とりあへず…すぐ。急に。たちどころに。

 これは、作品内にも、本郷和人先生の『解説上手の若君』にもあった「三浦犬は友を食らふなり」の古文本文です。
 若造の千葉胤綱が、自分たちを差し置いて上座に座ったのを見て、〝千葉犬は自分の寝床もわかんねえんだな(上座に座ってんじゃねえぞ)〟と三浦義村が怒りをあらわにしたら、千葉の方は〝三浦犬は共喰いしてるじゃねえか(身内を裏切った卑怯者がうるせえぞ)〟と、売り言葉に買い言葉で即座に返したというのですね。 ※友食=共食。和田は三浦の一族。
 ーーいやあ、関東の御家人を代表する三浦と千葉、どちらもガラ悪いですね。直義も、時明のこと「狂犬」呼ばわりするわけです。

 私たちは今、過去として、歴史として、天下がどう変化したかがわかっているので、〝後醍醐天皇に味方していれば…〟とか〝足利方に付いていれば…〟とか〝北条時行軍に加勢していれば…〟とかいう選択に悩む必要はありません。しかし、もし同時代を生きる人間であったらどうでしょうか。ぎりぎりの選択と決断をして日々生きるしかないですよね。
 三浦義村や時明も、裏切りが好きだったわけではなく、苦渋の決断の連続であったと信じたいです。誰も、一族が滅びるなんて選択はしたくはありませんから。
 しかし一方で、選択の先の未来が誰にもわからなかったとしたら、自分の気持ちに正直になることというのが、実際には最善の選択であるという考え方はできないでしょうか。〝当たりくじ〟がないかもしれない選択肢と、あの時あの選択をしていたらという無数の後悔の中で、常に自分は自分であり(一族が一族であり)、生(一族の存在意義)を全うするためには、「理」を逸脱した「狂」に頼るしかないのかもしれませんーー「狂犬」は「狂犬」として生きる意地を、時明は直義に見せつけたのです。

 「苦痛 恐怖 悲惨 戦の本質は永劫変わらぬ

 自力救済の社会では逃れられない運命の中で、「愚直」であることも愚かなことではなく、「楽しさ」を求めることは不謹慎ではなく、「やましさ」に向き合うことも弱さではないと、松井先生はそのメッセージを泰家と時明・八郎兄弟に託したのかもしれません。


〔今井雅晴編『一遍辞典』(東京堂出版)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。また、『古今著聞集』については、「やたがらすナビ」の「日本古典文学電子テキスト」を使用させていただきました。〕

 

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