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離婚式 40

 城砦のような建物だと思った。
 コンクリート壁に囲まれた瀟洒なビル。
 身持ちの固い女のように、ゲートはあっても入り口ではない印象がある。ただ一見しては何の違和感もない。化粧をしても誘ってはいない、そんな距離感がある。
 新任の女教師にような、草木色のスーツでその前に立った。皐月の、まだ若葉のような涼やかで透明な色目。それで清潔さが匂いたてればいいと思った。
 髪は緩く流して、背で一本結びにしている。ナチュラルメイクで目元は控えめに、時計も派手ではないもの。大振りの翠革のバッグに、神崎のタブレットを収めている。ひさびさに女冥利に尽きる午前中だった。
 その真実は、毒蛇が媚びを売るようなんだけど。
 神崎の意識は沈澱しているが、外付けHDDのように知りたい情報は瞬時に呼び出せる。彼の遺言らしき文書さえ彼のデジタル印章で開封できる。それを苦々しげに窺う目があるけど、構わない。ボクの身体の真実は、彼も同期しているようだ。
 寧々の意識は明らかに拒絶している。
 無理もないな、同性として愛した相手が紛い者と知ったんですもの。意識の眼を向けると背を向ける。胎児のように固まっていくけど、それも構わない。
 この組織の真実を暴いて、やる。

 このビルは外観だけではなく、電磁防壁も鉄壁になってる。
 全ての情報管理はstand aloneであり、内部完結している。
 内側に侵入して、情報を強奪する他に選択肢がなかった。
 ゲートは指紋認証ではなく、目の虹彩と手首の静脈流検査で開いた。それで問題はないが、神崎の個人オフィス認証は、キーボードで8桁の暗証番号になってて、それは躊躇する事態だった。
 指紋をそこで取られるかもしれない。
 解錠して入室した途端に、ほっと安心した瞬間に外部ロックされて囚われてしまう危険性はある。
 その逡巡の背に声をかけられた。
「新人さん?」
 ええ、と振り返ってみると、皮脂がじわりと額に浮いた中年男の顔がある。背は高くなく、肩に引っ掛けたような上衣の着こなし。だらしなく開いた唇から黄色い前歯が見えている。
「そうなの、緊張しちゃって」
 左手持ちの鞄を重そうに傾けて、それで胸がもっと寄るはず。
「ここは初めて?」と全身に視線が泳いでいる。
「ええ、本日付けの転任ですの。不安だわ」
 軽く指を曲げて口元に寄せた。そう。その掌の隙間を故意に見せている。ここに握らせたいんでしょう。この口に含ませたいんでしょう。でもそれは愛でも恋でもないわ。
「ああ、それなら案内するよ。ここには職員専属のBistroがある。都内で店を出しても遜色ないシェフがいるよ。どれ転任祝いにご馳走させてくれよ」
 かかった、と確信した。

 
 
 


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