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(感想)「ここ」と「どこか」

4月8日にバス・ドゥヴォス監督の映画『Here』を観て、4月12日に同監督の『ゴースト・トロピック』を観た。16ミリフィルムで撮影された映像は少し淡く、いくらかしっとりめに、だけどもしっかりと、そこにいる人々とそこにある物達を映し出していると感じた。

より美しく撮ろうとして撮ったわけではない、対象物のそのものをそのままに撮ろうとしたような映像は丁寧で、じっくり観ても、ぼんやり観ても、いいものだと思えるのではないか。しかし、淡々と進んでいく場面に、つい構えずに観てしまうといけないのだと、先に観た『Here』で思った。「え、それどういうこと」と思ったことが、先にちゃんと語られていたのであった。映像、言葉、音、それらに載せられている意味を感じ取ることで興味深さが増すことは言うまでもない。この映画に限らずだが。

先に観た『Here』から書く。舞台はベルギー・ブリュッセル。高層ビルの建築現場で仕事をしているシュテファンは、バカンスを前にしている。冷蔵庫を開けてしまうため、ありものの野菜でスープを作り、それを友人達に分けにいく。手土産のスープに喜ぶ人々。ある時、彼は雨に降られて入った中華料理店でシュシュと出会う。後日、シュテファンは森で、苔を採取しているシュシュと再会する。彼女は苔の研究者だったのだ。

苔の世界を顕微鏡で覗き、拡大してみることによって、微細なものの中に含まれている豊穣さが感じ取れる。その苔の世界が楽園かどうかはわからない。人がいるこの世界も楽園かどうかはわからない。でも、それぞれが今いる「ここ」で動いて、時に誰かと出会って、また何かを少し動かしていく。ただその繰り返しといってしまえばそうなのかもしれないが、それだけのことがとても大事なことのように思える。それこそが素晴らしいことだとは言わない。良いも悪いもないことなのかもしれないから。

寝付きが悪い様子も見せていたシュテファンは、今の自分にどこか落ち着けないような気持ちを持っていたのではないか。でも、今いる「ここ」が彼の現在地であり、どこかに行くにしても、きっとここに帰ってくるのだ。シュシュとの出会いは、シュテファンがここに戻ってくる理由を少し変えたのではあるのかもしれない。

『ゴースト・トロピック』も、ブリュッセルを舞台にしている。清掃の仕事を終え、地下鉄で帰るハディージャ。つい眠ってしまい、終点の駅まで行ってしまう。ショッピングセンターの警備員に頼んで何とかたどり着いたATMでも、残高不足でお金をおろせない。夜行バスも運行中止。彼女は夜の街を歩いて帰ることになる。道すがら彼女が出会うのは、ホームレスとその飼い犬、空き家に不法に滞在している青年、コンビニの女性店員。夜の街を歩く自分の娘を見かけ、その後、救急病院のスタッフに接する。

街は深夜でも動いてはいるが、灯りでは照らしきれない闇が彼女を包んでいる。彼女の不安さをわかっているかのように、街は静かに、まだ眠りにつけないでいる人々を見守っているようだ。さまざまな人々と出会い、会話を交わしたり、会話を交わせもしないまま別れたり。同じ街にいるというだけの、ほんの少しの関わりあい。数限りない小さな出会いと別れによって人は、今の自分で、今を生きているのだろう。

アパートに帰ったハディージャは部屋で横になるが、部屋がまだ暗いうちから起きて、出かけていく。明るくなっていく部屋に、娘は帰ってこない。夜まで働く母と、朝まで遊ぶ娘とのすれ違いは、さまざまな人々が生活する中で関係性を結び続けることの難しさを表現しているのであろうか。しかし、ただ娘を責めるだけのエピソードでもないようが気がして、ラストは何か不思議な印象を受けたのだった。タイトルにある「ゴースト」が気になるというと、短絡的過ぎるだろうか。

あと、どうやら「犬が無事」なのは映画にとって大事なことらしい。


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