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本の中で生きている。

歯が抜けたり砕けたりする夢ほど、目が覚めて夢で良かったと思うものはない。

よく聞くような何かに追いかけられたり殺されたりする悪夢は見たことがなくて、私の中の悪夢といえば歯が砕けてその破片を持って途方にくれる夢か、歯が全部抜けて絶望する夢だ。

悪夢にバリエーションがないっていうのは良いことなんだろうか。
殺されたり追いかけられたりっていうのは現実味がないけど、歯に関する夢って割と正夢になりそうな夢で、その現実味が怖い。
でも現実味がない夢ほど夢で見てみたい気もする。
悪夢を見てみたいっていうのもちょっとおかしな話だけれど。


今日読んだ本。

良い日々というものには、事欠かない。一方、良い人生のほうは稀である。生きた感覚の喜びにみちた良い日々の積み重ねというだけでの人生では、十分ではない。感覚的人生は、貪欲の生活である。欲するものは日々に増してゆくが、精神的生活なら、これはむしろ減じてゆく。時間はたっぷりあり、その道は甘美である。読書で費やした一日を、良い日という人がいるだろうか。だが、読書をして過ごした人生は、良い人生である。十年間、あるいは二十年間にもわたって、一日が次の日に酷似しているのは、とても良い日には思えない。

中山可穂さんの『感情教育』を読んだ。
前に読んだ『白い薔薇の淵まで』と同じで、私がこれまで経験してこなくて、これからも経験しないだろう恋愛が描かれていた。
でもそれだけじゃなくて、2人の主人公の生い立ちも家庭環境も感性も私の中にはないもので、どれも経験したことがないもので、なのにそれを全部追体験しているかのような苦しさがあった。
人物造形というのか人物描写というのか、それがとても巧みで立体的で、昔から知ってる人のように感じられたからだと思う。

言葉って小説ってすごい。よく俳優さんが「演じることを通して自分じゃない人間を、自分のものじゃない人生を生きることができる」というけど、小説を読むことでだって、それができる。

そう感じたことを、その次に読んだ『本を書く』の一節を読みながら思い出した。

「読書で費やした一日を、良い日という人がいるだろうか。だが、読書をして過ごした人生は、良い人生である。」というのは、私にとって本当のことだろうか。

私が『感情教育』を読むのに費やした一日は確かに良い日だった。自分ではない人間になって、自分の人生ではない人生を一日で生きたような感覚があって、とても贅沢な日だった。

その一方で読書をして過ごした人生は良い人生なんだろうか。

私の場合度を越して本を読んでいるような気がして、それは自分のではない人生ばかり生きていて、実感を伴う自分の足でしっかりと歩いてきた自分の人生を生きていない人生になってしまいそうな気がする。
そんな人生では、「生きた感覚の喜びにみちた良い日々の積み重ね」が、たぶんない。

来る日も来る日も前の日と同じように本ばかり読んでいる。
「十年間、あるいは二十年間にもわたって、一日が次の日に酷似しているのは、とても良い日には思えない」という一文にばっちりと当てはまってしまう。
ずっと本を読んでいるという点において、一日が次の日に酷似してしまっている。

ちゃんと自分の人生も生きなくちゃな、と思う頭の片隅で、そうして生きて経験を重ねれば、より本を楽しく豊かに読めるようになるかもしれない、などと思っている。

とにかく本ばかり読んで、本のことばかり考えてる。



『白い薔薇の淵まで』の感想はこちら↓

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