見出し画像

#10 ニーシュ、歴史の地層を訪ねて【後編】

セルビア、ベオグラード在住の詩人・翻訳家、山崎佳代子さんの連載。歴史や詩、そして山崎さんの出会う人々とともに、ドナウの支流をたどる小さな旅。今回の舞台は2つの世界大戦で傷をおった土地ニーシュめぐるエッセイの後篇です。

****


小さな空、弱い光

 ニシャバ川は、ニーシュの中央を流れていく。川の北にチェガルの丘が町を見下ろし、町は南へ広がる。

画像1

ニシャバ川


 ニーシュについて書きたいと、詩人スターナに相談すると、「歴史に詳しい人を紹介するわ。いらっしゃい」と言う。夏の午后、旅に出た。バスで夕暮れのニーシュに着くと、スターナの息子、アレクサが待っていた。穏やかな青年は画家だ。旧市街の職人横丁に宿をとり、スターナ夫妻の家に向かう。静かな通りにある家は、旧い煉瓦塀に囲まれ、庭に夏の花々が咲き、モミが枝を拡げる。夫スロボダンの祖父はヘルツェゴビナの出身、12歳でハンガリーに渡り、火酒の蒸留装置の製造技術を学び、ニーシュで工場を興して成功した人。父はユーゴスラビア王国の軍人で、社会主義時代に苦労した。家族を守ってきた大きな館だ。
 木の階段を下ると、半地下の居間の壁に、祖父と父の写真。油彩はアレクサの作品だ。テーブルにスターナの手料理が並ぶ。シーマとゴルダナ夫妻も一緒。シーマはニーシュ市文化財保護委員会に勤め、遺跡調査も行った人。トマトのサラダの絶妙な味、黒ワイン。スジュックという腸詰のグリルが香ばしい。旧き友のように話が弾む。
 シーマが語る。「ニーシュに、スラブ人が定住をはじめるのは7世紀、当時はビザンチン帝国(東ローマ帝国)の領土だ。9世紀末にブルガリア帝国のシメオンがこの町を治めるが、ふたたびビザンチン帝国が奪回し軍事基地となる。1183年、ニーシュはセルビア首長ステファン・ネマニャの版図に入った。だが1448年、オスマン帝国が町を征服、セルビアは自由を失う」食事をしながら、メモをとる。バルカンの歴史は複雑だ。
 「17世紀から18世紀の初頭、オスマン帝国とオーストリアは、ニーシュをめぐり何度も争う。セルビア人は、オーストリア側につく。1689年、大トルコ戦争のとき、オーストリアはオスマン帝国を抑えて入城。だが翌年、オスマン帝国はニーシュを奪回、1719年から4年かけて要塞を築く。長さ2100メートル、高さ8メートル、厚さ3メートル、バルカン一番の堅固な城壁、南にスタンボル門、北にベオグラード門ができた。1737年は、オーストリア軍がニーシュを占領。だが和平条約により、ニーシュはオスマン帝国の町となる。その後、オスマン帝国はセルビア人の弾圧を強め、1804年にはセルビアの村長7人をはじめ聖職者らの首を斬る。これを機にセルビア人は蜂起、カラジョルジェが指揮をとった……」宿に着くと零時。シーマの話をノートに整理。歴史の闇に沈むように、深く眠る。

チェガルの丘
 朝から暑い日。町から東へ4キロメートル、曲りくねった田舎道を車で走る。農家の生垣に夕顔が揺れ、庭で鶏が遊ぶ。じきにカメニツァ村のチェガルに着く。丘に記念搭があった。黒々とした大砲は、蜂起で使われたもの。ここがチェガルの戦いの舞台だ。18世紀末から19世紀初頭にかけて、西欧で民族ロマン主義が生まれ、セルビアでもオスマン帝国からの独立の機運が高まっていた。

画像9

              チェガルの丘の大砲

 夏風に、大樹がそよぐ。木陰のベンチに手織りの絨毯を敷き、土産物や観光案内書を並べ、村の夫婦が簡易コンロでコーヒーを沸かしていた。白い長髪の男は、セロミル。1988年から家族で搭の番をしている、と言う。家族ボランティアか。案内書の裏表紙は彼の大きな顔写真、ナルシストだ。コーヒーで私たちをもてなし、大きな鍵で扉を開き、搭に案内してくれた。木製の狭い螺旋階段を上り展望台に立つと、ニーシュが一望に見渡せる。

画像7

チェガルの丘から町を望む


 シーマが語る。「1804年2月15日、オラシャッツ村で、カラジョルジェを長として第一次蜂起が始まる。9月にはロシア帝国の支持を得て、勇気づけられたセルビアの蜂起軍は、町や村を次々に解放、ニーシュへ近づく。
 1809年4月28日、蜂起軍はニーシュの北の山に約1万2000人の兵士を集め、7つの部隊に分かれ、1か月間、塹壕を掘る。だが、部隊の間に不和が生じていた。最前線のチェガルは、レサバ地方の長、ステヴァン・シンジェリッチの部隊が陣をとった。5月31日、オスマン帝国軍は、蜂起軍の部隊を個別に襲撃、トルコ兵がチェガルになだれ込み激戦となるが、援軍は来ない。ほかに術はなく、シンジェリッチは、弾薬樽に銃を打ち込んだ。自爆、日本風にいえば神風だ。その瞬間、セルビア兵もトルコ兵も爆死。オスマン帝国軍は大きな打撃を受ける。シンジェリッチらの犠牲で、他のセルビアの部隊は救われた……」

画像10

シンジェリッチの像


 見下ろすと、スターナたちが和やかに野原を歩いている。緑が眩しい。螺旋階段を下りて、外に出た。アレクサが、搭の写真を撮っている。搭を見上げ、スロボダンが言った。「数年の蜂起の努力も虚しく、この戦いで戦局は悪化した。1812年はナポレオンのロシア遠征の年、セルビアからロシア軍は撤退。翌年、蜂起の指導者カラジョルジェらもオーストリアへ亡命した……」シーマが続ける。「第二次蜂起はね、ミロシュ・オブレノビッチ公が指揮し、オスマン帝国内にセルビア独立公国が成立。息子のミランはトルコ・セルビア戦争で勝利し、1878年にニーシュを解放した。この年に、セルビア王国がベルリン会議で承認される……」森で鳥が歌う。アトリだろう。
 観光案内に、記念搭は1927年建造、オスマン帝国からのニーシュ解放50周年を記念、ロシアの建築家ユリアン・デュポン設計とある。どこか中世の聖堂を想わせ、入口がロゼッタに飾られていた。
 石段に立ち、シーマは語る。「この戦いに、オスマン帝国の高官フルシード・パシャは激怒、セルビア兵の首を斬って持参せよと命令を出す。生首ひとつに25グロッシュの褒賞金が出た。チェガルで戦死したセルビア兵の生首は、頭の皮を剥がされ木綿を詰められ、まずイスタンブールに送られる。町の革職人が作業をした。生首は集められ、見せしめのために「骸骨の搭」が造られる。オスマン帝国の末期、混乱期だ……」
 観光案内書を買うとセロミルは喜び、「カヨへ、セルビアの聖地の愛好家より心をこめて、セロミル・マルコビッチ」と署名。スターみたい。そろそろお腹が空いた。「これから、お昼ご飯よ」とスターナが微笑む。
 でこぼこ道を車で行くと、松林に店があり、窓から炭焼きの煙が漂う。「カメニツァの頂」は、木と石の素朴な料理店だ。旧い竈、土器の食器、赤と白のギンガムチェックのカーテン。テラスに席をとり、火酒で乾杯。ウシュティプツィという唐辛子入りの肉団子、セルビア・サラダ、ワイン……。蜂起の指導者の名をつけたカラジョルジェ・カツもある。豚肉でカイマックという生クリームを巻いた棒状のカツ、別名は乙女の夢だ。陽気に語り合い、御馳走の皿がゆっくり空になっていく。大人ははしゃぎ、アレクサは静かだ。平日だが満席、休日は家族連れで賑わう。陽光がテラスに溢れ、町が見渡せ、ニシャバが流れていく……。食事が終わると、「さあ、次は「骸骨の搭」だ」とスロボダンが言う。坂道を下った。

骸骨の搭
 ニシャバ川を渡って東へ走ると、八角形の屋根の聖堂がある。「骸骨の搭」は聖堂の中だ。木陰に車を停めた。搭の前をガブロバッツ川が流れる。全長11キロメートル、ガブロビツァ山(標高902メートル)から流れ出し、ニシャバ川に流れこむ。川幅は狭いが水は豊かで、春は氾濫する。木橋を渡ると、学芸員の女性が待っていた。スターナの知人だ。「橋の袂がオスマン帝国の検問所、川は町の境界でした」と彼女。「聖堂はディミトリエ・レーコの設計、セルビアの有名な建築家だ。建てられたのは1892年」と、シーマ。入口のロゼッタに赤、緑、黄色の円形のガラスがはめ込まれ、モダンな印象だ。
 聖堂に入ると、朽ちかけた骸骨の搭があり、漆喰の湿った臭いが鼻をつく。塗り込まれた骸骨たちの虚ろな眼、口から声が消されている。学芸員が語る。「1788年から1791年までのオーストリア・トルコ戦争で、セルビア人はオーストリア側につきます。オスマン帝国が勝利しましたが、蜂起に有利な条件が生まれた。まずセルビアに多くの武器が残る。2つの帝国が通商条約を結び交易が盛んになると、貿易で財を築いたセルビアの商人が、経済、政治の人脈を形成して、独立運動に結びつく……」。

画像6

骸骨の搭


 搭の骸骨は、チェガルで戦死したセルビア兵のもの。搭は高さ4,5メートル、土台は縦4,15メートル、横4メートル。4つの面それぞれに、縦17個、横14個の骸骨が並べられた。やがて風雪にさらされ、骸骨の数は減る。父、夫、息子を葬ろうと持ち出す者、骸骨の粉が病に効くといって盗む者……。1846年、セルビア初のリセー(ベオグラード大学の前身)のイシドル・ストヤノビッチ教授は、952個の骸骨が搭に埋められていると記録。今は59個が残る……」薄闇に、骸骨が呼吸する……。「蜂起に参加した言語学者ヴーク・カラジッチは、セルビア側の戦死者は3000人、トルコ兵も合わせると4000人と記しています……」

画像8

漆喰に埋められた骸骨


 スターナが、壁の銅板を指さした。ラマルチーヌの言葉がセルビア語とフランス語で記されている。「搭の最初の記述は、ロマン主義を代表するフランスの詩人、ラマルチーヌの「東洋紀行」にある。1833年、イスタンブールへの旅で、ニーシュに立ち寄ったの」と彼女……。掲示板に、ラマルチーヌの旅行記の一節がある。「猛暑だ。1 マイルほど先、平野に白い塔がそびえ、  パロス島の大理石のごとく輝いている。……搭に着くと、旅に疲れて、壁にもたれ、微睡む。眼を覚ますと、白く輝くものは骸骨だと知った。骸骨に残る髪の毛が、微風になびく。強く冷たい風が山から吹き、数多くの虚ろな頭、顔、骸骨に流れ込み、もの悲しく寂しい口笛が鳴り響いた」と記され、搭の傍でトルコ人の子が朽ちた骸骨の欠片で遊ぶ様子も記されていた……。
 骸骨の搭の精密なスケッチの複製が展示されている。オーストリアの考古学者、旅行家のフェリックス・カニッツ(1829-1904)の著書、ドイツ語の三巻本『セルビア』(1904)からの転載。黒雲の下に平原が広がり、寒々と骸骨の搭が立つ。
 聖堂を出ると、陽ざしが強い。ゴルダナが胸像を指さす。「これがシンジェリッチね」。口髭の英雄は、精悍で孤独だ。傍らに生涯が記されている。「レサバ地方の長、グロボバッツ村生まれ……。1804年からカラジョルジェとともにセルビア蜂起に参加。チェグルの戦いまで5年間も、森で戦いの日々を送ったのだね……」と、スロボダン。ニシャバ川を渡り、北西へ。赤十字強制収容所に向かう。

赤十字強制収容所
 自動車道の名は「2月12日通り」、1942年の強制収容所からの受刑者大脱走にちなむ。道と並んで鉄道線路が走り、左手は工業地帯で煙草工場もある。じきに、赤十字強制収容所記念館に着いた。灰色の高い塀、花壇に日日草が光る。灼熱の太陽の下、運動場のような空間の前に、旧い大きな煉瓦の建物があり、壁が崩れかけていた。巨大なロール状の鉄条網、見張りの搭……。1967年に重要文化財に指定され、外国からの観光客も多い。入り口で入場券を求めた。ゴルダナが、喉が渇いたわ、と言う。スターナは、ハンカチで汗をぬぐっている。アレクサが、売店で飲み物を買ってきた。冷水のビンが、手のひらに気持ちいい。建物に入る。蒸すわねえ、とゴルダナ。空調もなく、窓が開け放されている。

画像3

赤十字強制収容所 尋問室


 「建物は、1930年にユーゴスラビア王国軍の騎兵隊倉庫として建てられた。1941年4月8日、ナチス・ドイツ軍はニーシュを空襲して占領。9月にここを強制収容所に改装する。1.4ヘクタールの敷地に、本館のほか3つの補助の建物と4つの見張り小屋、サーチライトのある2つの搭がある。1999年のNATOの空爆で、一部が損傷した。記念館は、当時の姿を再現している」とシーマ。2004年の修復は、彼の設計による。
 収容所は、ニーシュのゲシュタポ長官ハインリッヒ・ブラントが設立。1944年9月までに総計約3万人を収容、1万人が処刑されたと推定される。セルビアの有識者、資産家、共産党員、パルチザン、チェトニック(王党派)、ユダヤ人、ロマ人(ジプシー)、学生や生徒、子供もいた……。場所が空くと、また満員になった。1942年2月12日、受刑者らは大脱走を決行。ヨーロッパ初のナチスの収容所からの大脱走だ。42名が殺され、105名がヴィニック山へ逃亡。ナチスは5日後に報復として、ブバニで800余名を処刑。「首つり台を前に、ある男が拳を空にあげ、来るべき自由を高らかに謳った。ブバニの記念碑は、この話をもとにした」とシーマ。
 1階に4つの大部屋、11、12、 13、14と扉に番号がある。床は藁が敷かれ、ベッドもシーツもなく、家畜のように受刑者らは眠った。番号なしの小さい一室は拷問室、もう一室は司令官室だ。展示物に、沈黙する。いびつな飯盒、青の水玉模様のコップ、歪んだスプーン……。ワンピース、靴、縞模様のパジャマ、裸の人形、ダビデの星の腕章……。受刑者から奪われた懐中時計は、別々の時間を指す。持ち主の多くは、トラックでブバニへ送られ、処刑され焼却された。ノルウェー、マトハウゼン、ダッハウ、アウシュビッツへ移送された者もあった。展示物に、5つの骸骨がある。深い傷がある。琥珀色だから、善人だったろう。

画像4

赤十字強制収容所 受刑者の懐中時計

画像5

ジェリミル・ジェリニックの毛糸の靴下

 壁を受刑者の白黒写真が埋め尽くす。シーマ、ゴルダナ、スターナ、スロボダンは、写真の中に知り合いの親族を見つけては、「ああ、あの人が」と声を発している。明るい笑顔の娘、凛々しい軍服姿の若者、風格ある人、謙虚な人、父母、兄弟姉妹の家族写真、澄んだ光の瞳……。三歳の坊やが泣き叫ぶ写真は、ユダヤ人のサーシャ・ゴールドシュタイン。手編みの毛糸の服と帽子……。
 木の広い階段を二階に上がると、さらに暑い。展示物の白衣は、ユダヤ人の医師ベリザル・ピアーデの遺品。ワニ皮の鞄、薬のビン、注射器……。自身の処刑の日まで受刑者の治療に当たった。ウィーン大学卒業、白髪の紳士、水玉模様の蝶ネクタイ、もの静かな眼……。
 車輪の大きな乳母車があった。スターナが語る。「映画監督ジェリミル・ジルニックは、ここで生まれたの。共産党員の母ミリツァとパルチザンの父コンラッドは処刑された……」
 階段を上り屋根裏部屋に出ると、熱せられた空気にむせかえる。北向きに20の独房が並ぶ。鉄の檻の中で光は遮断。斜めの天井の小さな丸穴から見える空だけが、世界との繋がり。床に鉄条網が敷かれ、人が横たわれぬ独房もある。壁に刻まれた名前や伝言、親族の生没年。「私、ここは見られない……」と、スターナは去った。
 階段を下りて、外に出る。建物の前のベンチに、スターナが坐っている。スターナの母は、少女時代に解放戦線に参加した。誰もが、無口になっていた。
 夕焼けに空が染まり、スターナの家で一息つく。アレクサは庭に蝋燭をいくつも灯すと、どこかへ出かけていった。弱い光の波……。その夜は、シーマ夫妻の家で夕食。肉の炭焼きが皿に盛られ、琥珀色のワインがグラスに揺れる。焼パプリカはゴルダナが母から伝授、魂に沁みる味だった。満天の星空。夜気は、ゆっくり冷えていった。

撮影:アレクサ・スコチャイッチ Aleksa Skočajić


▼ 植物学者だった父の存在を胸に、娘はしずかに海を見つめるーー。山崎佳代子さん10年ぶり、待望新詩集です。こちらも是非御覧ください。


山崎佳代子(詩人・翻訳家)
1956年生まれ、静岡市出身。1979年、サラエボ大学に留学。1981年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?