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夜と霧

最近寒くなってきました。北海道に住み始めて3回目の冬が来ようとしているけれど、寒さには全然慣れません。
こんな季節こそコーヒーを飲みながら部屋にこもってひたすら読書、そしてお正月も読書正月(読正月)にしたいということで、少し前に買って積読していた本を消化したいと思います。


夜と霧

ヴィクトールフランクルの「夜と霧」について読みました。「夜と霧」って題名は、なんかちょっと怖いような不思議な題名だと思っていたけど、収容所の人々の心情を表した言葉ではなくて、ナチスドイツの、知的労働に従事しているユダヤ人を闇のうちに葬り去る密令のことだったんですね。そして「夜と霧のうちに、次々とユダヤ人たちは消えていった」、と。
恐ろしい。

本の冒頭では収容所がどのような状況だったのかが一つ一つ丁寧に書かれていくのですが、これを夜中に読んでしまったもので、夢に出てきそうな恐ろしい内容にはじめはちょっと後悔しました。簡単にまとめておくと、ユダヤ人たちは貨物列車の中にぎゅうぎゅうに(座ることができないほど)詰め込まれ(当然トイレはできない)、生きた心地がしないままアウシュビッツ強制収容所に運ばれていき、そこで荷物をすべて没収され右か左に仕分けされる。右に行けばそのままガス室で死亡確定、左に行けば強制労働です。そしてこの時点ではまだ洋服は着ているようなのですが、そのあと裸にされ全身の毛をそられ、身ぐるみをはがされて時計や靴も没収されます。このとき簡素な服や靴を支給されるのですが、ドイツやポーランドの冬の極寒の中での強制労働に耐えられるわけもなく、与えられる食事は粗末でみんな骸骨になってしまい、挙句の果てには発疹チフスも流行して発症すれば生存率は5%を切るような状態だったとか。しかも毎日の「行進」では少し隊列が乱れただけで、ドイツ兵の長靴による蹴りが飛んでくるそうです。

私の高校時代、運動会で右手をピシッとあげながら「行進」するように指導された際にはユダヤ人のことを思い出して顔面蒼白になったものでしたが、そんな風に焦っていたのは私の友人にはいなくて冷や汗がたらたら流れたことを思い出しました。でも周囲に浮くのが怖くて微妙に手をあげるフリをしました。ちなみにこのパフォーマンスはすぐに取りやめになりました。高校の先生方がまともでよかったと思います(~_~;)。無知は恐ろしい。

一番心に残ったことを書き残しておくと、星の王子様同様、どんな極限の状態においても、「愛」は人間を社会へつないでおくアイデンティティを保持する最大の魔法だということでした。
愛の対象は仕事でもいいし、趣味でもいいし、家族でもパートナー、ペットでもいい。
愛する対象にかけた時間が、私にとってのそれを特別なものにし、それを大切にすることはひいては私自身のアイデンティティーを形成し、私を社会に埋もれない「何者か」にし、社会とつながれる自分にしていく。筆者のフランクルが生をつないでいられたのは、この愛、そして彼自身のアイデンティティを失わずに済んだからかもしれません。
彼は想像の中の妻に語り掛ければ、強制労働の時間ですらすぐに過ぎ去っていくように感じたそうです。この奥さんは、はじめの「仕分け」の時点でガス室に送られとうに亡くなっていたようですが、その知りようもない事実ですら二の次になるほど、愛に包まれる経験をしたそうです。

また、こんなことも書かれていました。生きる意味を問うのではなく、生きるということが自分に何を期待しているのかを考えることが重要なのだ、と。これは非常にアドラー的な考え方だと感じました。人生は常に何が起こるか分からないものです。今は仕事がうまくいってもいつかは苦しい時期が来るかもしれない。何を改善すべきか分からずもがき苦しみ、ついには未来に絶望してしまうこともあるかもしれない。それでも、前に進み続けられるとすればそれは、自分が今生きている意味を社会や宇宙に求める原因論の立場に立つではなく、自分が今生きているというその事実が、自分に何を期待しているのか..という目的論の視点に立って考えることが大事だということです。それはもしかしたら、本当に小さな日常の幸せかもしれません。例えば、ミスドのドーナツでも食べながら本を読むこととか…
何でもよい、自分が幸せを感じられるのならば、そして社会と調和する関係を築き共同体感覚を持てるなら、それは自分にとっての「善」なのですから。



ここまで読んでいただいて、どうもありがとうございました。
これからもたくさん読書して感想でも書こうと思います。



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