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須賀敦子の背中を追う 4.

トリエステ

この街に来ると、何故かいつも地の果てに来たような気分になります。最初に来た時は、「初めてトリエステに来たから、こんなふうに感じるんだ」と思いました。しかし、二度目に来た時も、やはり同じように感じました。「ああ、また私はこんなに遠くまで、はるばるやって来たのだ」と。

もちろん、トリエステの先にも「地」は続きます。山を東に越えればスロベニア、南に下ればクロアチアです。それでもなお、私がここに地の果てを感じるのは、ハプスブルク帝国の時代から周縁に位置し続けてきたという、この街が背負った歴史に拠るものなのかもしれません。

須賀敦子の背中を追う旅。去年3月中旬、私たちはヴェネツィアの空港を経由して列車でトリエステに向かいました。
冬、飛行機に乗ってアルプスの北からイタリアへ向けて飛んだことがある方なら、よくご存知だと思います。アルプスまでは分厚い雲の絨毯が文字通りビッチリ隙間なく目下に敷き詰められていますが、アルプスに差し掛かるとこの絨毯は次第に薄くなり、切れ間が見え始め、飛行機がロンバルディア平原に差し掛かると地表を臨むことができます。明るい日差しが燦々と降り注ぐ大地。これを見た瞬間、私はいつも「ああ、イタリアにやって来た」と実感するのです。3月、まだドイツには冬がドッシリと根を下ろしていましたが、トリエステに到着した夕方、そこには春の気配がゆらゆらと漂っていました。イタリア統一広場(Piazza Unità d'Italia)の先から、Molo Audace(勇者の埠頭)が真っ直ぐにアドリア海に伸びています。ここに多くの人たちが腰を下ろし、海に沈んでゆく夕日を眺めていました。

たとえどんな遠い道のりでも、乗物にはたよらないで、歩こう。それがその日、自分に課していた少ないルールのひとつだった。サバがいつも歩いていたように、私もただ歩いてみたい。

須賀敦子『トリエステの坂道(須賀敦子コレクション)』白水社, 2001年

須賀敦子がトリエステでサバの背中を追ったように、私もトリエステで須賀敦子の背中を追ってみよう、どんなに遠い道のりでも、乗物にはたよらないで。そう思ってトリエステにやって来ました。そして、私はこの地でもうひとつ、自分の身に感じてみたいものがあったのです。それはボーラ(Bora)。トリエステに北、または北東から吹き下ろす強風です。須賀敦子の夫であるペッピーノが「きみなんか、ひとたまりもない。吹っとばされるよ」とおかしそうに言ったというその強い風に、私も吹かれてみたい。そう思っていました。しかし、ボーラが吹くのは一般に冬だと言われています。
「今回は、ボーラは無理だよね、やっぱり」
この上なく穏やかで美しい夕暮れのアドリア海を見ながら、思わず口からこぼれたのは、そんなうらめしげな言葉でした。

それでも、寒くもなく暑くもない春の穏やかな日差しの下、ぶらぶらと街歩きするのは楽しいことでした。須賀敦子の本から書き取ったメモを片手に、《ふたつの世界の書店》の前まで行き、固く閉じられた扉の前でガッカリしたり、《ヴェルムットのトリノふうカフェ》(現在はAntico Caffè Torineseという名に変わっています)をドア越しにのぞいて、雰囲気がかなり変わっている様子にブツブツ文句を言ったりしながら、私たちは飽きることなく、時間を忘れてトリエステの街を歩きまわりました。

ところが、到着後の翌々日、突然天気が崩れます。午前中、ザーッと強い雨が降りました。午後になるとその強い雨はパッタリ止みました。そして、その後、風が吹き始めました。強い強い北風でした。

その日、私たちは雨が止んだのを見計らって、高台にあるサン・ジュスト城(Castello di San Giusto)に行きました。城壁の上からトリエステ旧市街を眺めてみたかったからです。しかし、高台は平地にも増して猛烈な風が吹き荒れており、真っ直ぐ立っていることすら出来ません。私たちは這う這うの体で城から逃げ出しました。冬に吹いているわけではないから、この風は厳密な意味ではボーラとは言えないかもしれません。しかし、私にとって、あの突風はまさしくボーラでした。高台からイタリア統一広場に向かって坂道を下りる時、文字どおり吹っとばされそうになった私は、道の両側に建つ建物の壁についている手すりのありがたさを身に染みて感じました。そうして断固として思ったのです。
「もう二度と、ボーラをこの身に感じてみたいなどと思わない。」

その後も気温はどんどん下り、私たちが叔母が待つフィレンツェに向かう日は、とうとう雪が降り出しました。視界が遮られるくらいの激しい雪です。私には、もう一つトリエステで目に焼き付けておきたいものがあったのに。

翌朝、湾を大きくカーブしてヴェネツィアにむかう列車の窓から、海のむこうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがたに、自分がミラノで暮らしていたころ、あまりにも一枚岩的な文化に耐えられなくなると、リナーテ空港の雑踏に異国の音をもとめに行った自分のそれを重ねてみた。

須賀敦子『トリエステの坂道(須賀敦子コレクション)』白水社, 2001年

ヨーロッパの列車は、発車準備が整うと音もなく静かに走り出します。私たちが乗ったヴェネツィア行きの列車も静かに、しかし突然走り出しました。ホームを出ると列車はすぐさま海岸線に沿って緩やかな弧を描き始めます。窓に額を押し付けるようにして外を眺めてみたけれど、トリエステの街はすぐに白い雪に包まれてしまい、須賀敦子が見た「海の向こうに遠ざかるトリエステ」を、私は見ることができませんでした。

イタリアにありながら異国を生きつづけるトリエステ。

どんなにドイツ語を勉強し続けても、ドイツに溶け込もう、ドイツを理解しようと努力しても、私はドイツ人にはなれません。この先何十年ここで生活したとしても、きっと私は異邦人であり続けるのでしょう。それでもトリエステがあるがままの姿で今も存在しているように、私も何も変わる必要はない。自分が今まで背負ってきたものを、この先もそのまま背負い続けていけば良い。異質なものは異質なものとして、それを拒否するのでもなく、そこから逃げるのでもなく、自分の心の片隅に別の場所をつくり、そこへそっと置いておけば良い。すべてを消化し自分のものにする必要はない。
白い雪の中に消えてしまったトリエステの方向をいつまでも目で追いながら、私はそんなことを考えていました。

後記

「イタリアで好きな街は」と聞かれたら、私はヴェネツィア、シエナ、そしてトリエステと答えます(この12年でもはや「里」のようになってしまった義理叔母の住むフィレンツェは、また別扱いです)。そして、トリエステは須賀敦子の背中が一番濃く見えた場所でもありました。それは、ペッピーノが警告した強風に煽られながら坂道を登ったり、《ふたつの世界の書店》の前(たぶん須賀敦子が実際立った場所)に立ってみたり、「湾を大きくカーブしてヴェネツィアにむかう列車の窓から、海のむこうに遠ざかるトリエステを眺め」たからかもしれません(実際は、降り頻る雪に遮られ、はっきりとその姿を見ることはできませんでしたが)。しかし、何よりも、何処にも属さないという姿を未だに保ちながら、そこに存在し続けるトリエステという街に、須賀敦子と同じように自分の姿を重ねているからかもしれません。

(この記事は、2019年7月1日にブログに投稿した記事に大幅に写真を追加し、後記を書き加えた上で、転載したものです。)