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雨に濡れず、雨とひとつになる生き方

「この雨のなか外に出て、濡れない極意を見せてみよ」そう言ったのは、禅僧・沢庵宗彭。それは徳川将軍家の剣術師範をつとめた柳生宗矩に向けての言葉だった。

屈指の剣豪として知られる宗矩が、初めて沢庵宗彭に会ったときのこととして語り継がれている。腕の立つ宗矩は降りしきる雨のなかに飛び出して、外剣で雨を滅多斬りにしてみせた。

戻ってきた宗矩が、「どうだ、これが俺の極意だ」というと、禅師はこともなげにこういい放ちます。「そんなに濡れていて、なにが極意じゃ」。

もちろん、宗矩はおもしろくない。「それなら和尚の極意を見せてくれ」と気色ばんだ。

おもむろに外に出た沢庵禅師を宗矩が目をこらして見つめていると、禅師は何をするでもない、ただ、じっと雨のなかに立っているのだった。

全身ずぶ濡れの沢庵禅師に向かって、宗矩はここぞとばかり切り込んだ。「なんだ、和尚だって濡れているじゃないか。それが極意とは笑止千万」。

そこで、禅師は静かにこう言った。 「まったく違う。おぬしは濡れまいとして、刀を振り回して雨に立ち向かった。だが、雨はそんなことはおかまいなしにおぬしを濡らしたわけじゃ。わしは雨を受け入れてただ立っていた。わしが雨に濡らされたと思うか? 違う、わしは雨とひとつになっただけじゃ。わかるか?」  

宗矩はこれで禅師のいわんとしたことが一瞬にして腑に落ち、剣を究めることになったのだという。

雨のなかにいて〝心を搔き乱して戦った〟宗矩と、〝心穏やかに佇んでいた〟沢庵禅師。

ここで、雨とひとつになるとは、単にあるがままを受け入れる受け身の姿勢ではないと考える。

ストア派哲学では、みずから「コントロールできること」と「コントロールできないこと」に分けて考え、それによって対応する極意を教えている。

興味のある方は、ぜひ拙著を参考にしてみていただきたい。





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