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『話の終わり』を三度読んだ

 リディア・デイヴィスの『話の終わり』は不思議な小説だ。何度も読み直す人もいれば、退屈だったと書いている人もいる。私は初めて読んだときこの小説に夢中になり、理解してくれそうな友人に熱狂的に薦めたが、ずいぶんたって彼女は『響かなかった』という感想を述べた。貸した本は戻ってこなかった。あるいは私が受け取ったことを忘れ、どこかへなくしてしまったのかもしれない。記憶を探るとそこだけがぼんやりとしているのが、この『話の終わり』という本に妙に似合っている。

 新書版の帯にはタオ・リンが「『話の終わり』を五度読んだ」と書いている。タオ・リンが誰か実は知らないが、親近感を覚えた。私はこれが三度目だ。先週末、池袋のジュンク堂で新書版の『話の終わり』を見つけ、迷わずレジまで持って行った。装丁は作品社から出たオリジナルの方が好きだけど、もう私の手元にはないのだから諦めるしかない。

 〈私〉はある時期に付き合っていた一回り年下の〈彼〉のことを、長い時間をかけて小説に書こうとしている。あらすじをまとめるとそれだけの話だ。それなのに私はなぜこんなにもこの小説が好きなのか。物語は〈彼〉を最後に見かけたときから始まっている。それから一年後、突然フランス語の詩を写した手紙を受け取ったこと。さらに一年がたち、〈彼〉が最後に住んでいた場所を訪れてみようとしたこと。そしてその町で熱い紅茶の苦みを感じたとき、この話は終わりを迎える。

 これが話の終わりであるようにそのときの私には思えたし、しばらくは小説の終わりでもあった――その紅茶の苦さには、はっきりと何かが終わったという感じがあった。その後、あいかわらずそれは話の終わりではあったものの、私はそれを小説の最初にもってきた。最後を最初に語らなければ、その後の部分を語れないような気がしたのだ。

リディア・デイヴィス『話の終わり』(白水Uブックス) 14頁

 始まりはある時点から見た過去だったはずなのに、読み進めるうち、〈私〉はだいぶ先の未来でヴィンセントと暮らし、夫の父親を介護し、そこに〈私〉がつづる日々の細々とした情景が割り込んでくる。最後が導入部分に置かれたことで、読み手は頭のどこかで話の終わりを終着とした、始まりから終わりのベクトルを意識するはずだ。しかし時間はそんな風に流れて行かない。今の〈私〉が不意に割り込み、過去の〈私〉と絶え間なくつながることで、いつしか読者は行きつ戻りつする〈私〉の思考の流れから抜け出せなくなってしまう。

 大学講師として授業を持ち、生計のために翻訳も手掛けている〈私〉は、小説の書き方も事細かに描写していく。記憶の淵からすくいあげたことをメモし、話の材料に使えること、使えないこと、全てのメモを箱に分類し、その中からどれを選び、どれを省くか考える。メモを入れた箱に自分でつけた〈使える材料〉と〈まだ使っていない材料〉のラベルの違いが急にわからなくなり、暗礁に乗り上げる。混乱を避け、読みやすくするために故意に順番を入れかえることもある。執筆する小説家の頭の中が読者と共有された結果、〈私〉が書き、読者の私が読んでいるこの文章と、〈私〉が書き方を説明しながら書いている小説の境目がわからなくなってくる。

 実際に訳者あとがきの中で、こういう構造は作者が意図したものであったことが語られている。『話の終わり』を翻訳した岸本佐知子さんは、この本には何人もの〈私〉が登場すると書いた。

 小説の中で実際に恋愛を体験している〈私〉と、それについて語っている〈私〉、その小説を書いている小説家の〈私〉、さらにはその枠組みのもう一つ外にいるはずの〈私〉――つまりはこの本の作者であるリディア・デイヴィス。読み手は幾重もの〈私〉の森の中に迷い込んで、いったいこれはフィクションなのかノンフィクションなのか、小説なのかエッセイなのか、自分がいったいどこに立ってこれを読んでいるのか、わからなくなってくる。

リディア・デイヴィス『話の終わり』 (白水Uブックス) 訳者あとがき 292頁

 日本語で『話の終わり』を読むと、さらにもう一人の存在を意識する。少なくとも私は、訳者である岸本佐知子さんを連想した場面が何度かあった。小説の中で何年も翻訳を続けている〈私〉、翻訳をすることが嫌ではない〈私〉、それは実際に小説を書きながら翻訳もするリディア・デイヴィスであると同時に、この本を訳している岸本さんの分身のようでもある。そういう感じ方を訳者は嫌うかもしれない。でもこれは翻訳という形で読むことができる私たちへのプレミアムだ。岸本さんも含めた五人の〈私〉は、原文で読むと違って見えるのだろうか。四度目の『話の終わり』は英語で読んでみるべきかもしれない。

 『話の終わり』が描く、到達しそうで決して到達しえない他者との距離は、掴もうとするとさらに遠くなっていく。どこまでいっても他者への理解は自分の意識の内でしかないという諦め。それでも他者との間には語りえない何かがあった。『話の終わり』からはそういう静かな境地も感じる。


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