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ACT.14『名残残して』

瓦町から

 瓦町まで琴平線で引き返した。赤い電車関係のイベントは全て終了したが、個人的に関西から見守っていて気になった事がまだ残っていたモノで今回は関西帰郷前に触れてから帰る事にした。
 「ことでん」では先に瓦町〜琴電志度にて系統分離を実施した志度線にて車掌を削減したワンマン運転を実施する運びとなり、自分が前回行った時には既に志度線でワンマン運転が実施されていた。
 しかし、このワンマン運転の波は志度線だけに停止せず「高松築港〜長尾」での長尾線でも実施が決定してしまったのだった。
 志度線では車掌時代に何度か乗車経験があったものの、長尾線は高校時代に乗車経験が一度あったのみでそれ以来からっきしだった。今回はそんな長尾線に全線ではないが少し乗車し、変化を体感して見る事にする。
 京急時代の全盛期、片開きドアとそこに流れる乗客のショットから今回の記事はスタートする。

幕回し時に見えた準急幕との組合せ。

長尾線小変化

 長尾線の小変化…としてこの車両で少し使用するが、やはり特徴に枚挙されてしまうのはこの「ワンマン」札が入ってしまった事ではないかと思う。
 当初は「仮置き」の状態だったらしく実質は居候状態だったこの札も、正式運転開始時には正式な位置に居座ってしまった。
 特に長尾線の主力である「京急」車についてはその効果がかなり絶大に効いており、黒一色の統一イメージだった種別・運番表示のヶ所に「緑色」が残る少々「違和感」というか「しこり」というか…表現に困るものが残ってしまった。
 個人的に京急1000形のアイデンティティを愛していた人間としては非常に「惜しい」ではないが、長尾線詣をしなかった事をここまで悔やんだ事はなかった。昭和の時代に多くの鉄道ファンたちが挙ってカメラを回して沿線に立っていたように、ボクらも日々記録を残していく事に関しての大事さを痛感してしまう。
 しかし、こうして京急車にこの表示が半固定されている(何かの運用変更で外されるかも)状態だと、往年の京急快特時代を想起させ個人的には何となくのポジティブシンキングが出来ると今は感じている。

ワンマン札挿入以前の長尾線。車掌の添乗に注目して頂きたい。写真は2019年頃に撮影している。

 さて。長尾線の「ワンマン札」事情はこの辺にしておこう。電車は動き出した。
 そういや長尾線沿線に繰り出していくのは「うどん屋」への早朝食事以来だ。片原町での重複区間を除外するとかなり長い期間この分岐を体感していない。電車は狭い商店の入り組んだ場所や開放的な宅地街を走り出していった。
 京急時代の生活と比較すれば、薄れた生活なのかもしれない。しかし、今の1300形にはこの生活の方がむしろ似合っている感覚すら存在した。ガタゴトガタゴト…ペースは琴平線と少し違えど、何となく京急車という共通点だけで安心感のある旅路を過ごす事が出来たと思う。
 しかし唯一の気掛かりや変化などを述べていくとすれば、やはり
「片開き京急扉が運転士の手によって操作されている」
事であろうか。
 そういえばこの電車たちの後輩である現在の1000形や後輩の600形などが活躍する東京の都心でも、ワンマン化などが叫ばれ始める時代になってきた。そんな後輩たちよりも先にワンマンの時代を事情は異なれど体感してしまった彼らは、何かひと廻り体感してしまった存在なのかもしれない。
 そういえば、「ことでん 車掌」については大学時代の会社説明会で「契約社員」と聞いた事があり、ワンマン化へと踏み切った今の状態が何か切なくも見えてしまうのだった。
 電車はそんな自分の塞ぎ込みつつも風通しの効いた心情と住民の生活を乗せ、走っている。何処で下車しようか、そろそろ見切っておかなくてはいけない。個人的にはJRが近い駅にしようという計画では動いていたので、地図アプリを眺め始めた。

ひと足先に、手を振って

 慣れない自動放送の案内が駅の名を告げた。
「この駅にしよう」
と決心し、電車を降りる事にした。
 下車したのは「木太東口」駅だ。島式の行違いが可能になっている曲線になった駅である。駅の構造といえば、この島式ホームに構内の踏切を持つ「地方私鉄」さながらの駅という感覚だった。
 まずは自分の下車した電車をどう記録するか悩んだが、シンプル無難に記録して引き上げた。何となく「ワンマン」になった状態としての記録開始には似合った編成切りかもしれない。
 しかし、この駅もそうだが長尾線の絵になるような駅たちを見ていると改めて自分が長尾線詣をしなかった事が悔やまれる。つい何年か。ついX年か前には旧型電車の営業まで行っていた路線だった…と考えるとこの路線での撮影はかなり捗っただろう。
 せめて現在の譲渡車両勢力が崩壊しないウチには撮影を行って悔いのないようにしておきたいと改めて駅の構造を見回し思ったのだった。
 時刻表を確認する。
「JRの駅に向かうか」
と何とか歩むが、コレも何かと無策だと気付いたのは到着してからの祭りになってしまうのをこの時の自分は全く信じていなかった。
 関西に帰郷した自分から戻って助言できるなら、
「この駅で待っている方が良い」
とすら言いたくなる位なのは明白すぎた。

あぁお許しください、旅の神様

 「木太東口」の駅を出発して15〜20分の行脚だろうか。JR高徳線、「木太町」駅に到着した。
 バス旅で太川陽介氏が時刻表を鞄で隠す要領で駅の時刻表から目を伏せ、怖いものを見る感覚で時刻表に対面する。
「高松行き 19時33分」
う〜ん。18時台は入れ違いだったのかとっくに出発したのか?
 結局来ない列車を待っても仕方ないし、開き直って板野・徳島方面の列車を待ってみた。
 すると、こちらはすぐやって来た。しかし何か気配が違う。
「あれ?なんかこのライト…」
やはりその直感は当たった。全国的に見ても珍重され、四国の鉄道ファンには神と聖的に仰がれている噂の対象、「キハ40」の充当便だったのだ。
「瓦町から長尾線に乗車して木太町からキハ40なんてやっぱ鉄オタだねぇ」
なんて言われそうだが、決して「偶然」に引いた結果がコレである。自分でも笑うしかなかった上に、
「なんで気分じゃあ無いのに」
と何かを仰ぐ気持ちにしかなれなかった。何を信仰したら良いのだろう。

 自分としても本来は「何処にいくか決めていない」短時間の乗車でこの普通列車に当たったため、進む方向は決めても下車先は決定していない。
 結局「原形エンジン!!」と評判の高いキハ47がいる事に気付いたので(というかキハ40もでは)そちらに乗車した。長距離乗客には申し訳ないが、トイレ付近にちょこんと座って時間をやり過ごしていた。
 列車自体は「徳島」行きだったので、このまま切符を使って明日が連休なら徳島に向かった上でフェリー帰郷もしたかったがそうは日程が許さなかった。結局、今の自分に出来る事といえば下から伝う伸びやかな鼓動を聴いているだけだ。何と癒されるのだろう…というか、昭和な音なんだろう。

 自分が着席した「キハ47形」のトイレ付近区画である。
 この日は1人の鉄道ファンも同乗し、車内スナップの撮影に励んでいたがそれと自分は対照的な態度だった。
 この席付近も自分が立ってしまうと空く車内が目立つくらいには乗客の動線があまりなく、長距離での乗り通し以外にはあまり必要としない場所かもしれない。
 全国にはまだ「キハ40」の仲間が走り、一部は本来の仕事である「普通列車」の仕事を今も淡々とこなしている。その彼らも更新を受けたり、内部更新や機関更新で変速機や加速ショックの重さが変化したり…と少しづつ小さく歩んでいるのが見てわかる。
 しかし、四国の徳島に残った国鉄運用。(ここでは「キハ40形列」)非常に昭和を残し、御世辞を抜きにしても「古の生活感」がしっかりと空気に昇華され残っているように感じられる。
 そして、この乗車でもそうだったが車内を振り向いてもしっかりとその時代に合わせた生活が車内に息吹いているのはこの車両が残した賜物ではないかと感じてしまう。決して良い噂はないこの形式ではあるが、軌跡をしっかりと残り踏み締め頑張っていただきたい。

 結局、自分の優柔不断さも相まって「屋島」で下車してしまった。
 何か弱気だったと今は思わなくもないが、ある意味では賢明な判断だったと思う。もうすぐ沈んでしまう西陽を背に、キハ40は徳島への足踏みをしている処だ。
 ここでも、県民の生活は続いている。自分が行きの「マリンライナー 」で見かけていたように、車掌が中間からドア操作を行って切符を回収している。
「しまった、無人駅か…」
 この駅が無人だった(時間帯?)だったのを薄らと忘れていた。そのまま列車を幾つか撮影する。こういった時、車掌の操作を伴う列車の恩恵というのは非常に旅の記録をする者からすると様々な角度から眺められる為ありがたい。

 今回の旅路でも何度か(と言っても2回だけ)登場している、中間運転台を使用しての扉開閉操作だ。実際はココに簡易運転台が存在している…といった理由ではなく、連結時に挟まれた運転台横の車掌スペースをそのまま活用している形態での乗務・駅務作業となっている。
 この場合は発車直前での撮影だったため、ホーム安全確認と切符回収をこの場所から見る事が出来た。が、街中でのワンマン乗降や車掌の八面六臂の移動に慣れていないと非常に戸惑う乗務形態でもあるかもしれない。改札付近での回収が主であるから良いものの、車掌の位置を細めに把握して列車を利用するのは自分には難しい話だと思ったし、コレについていけない自分の「不出来さ」さえ思ってしまった。
 西陽に照らされた凛々しい鉄道員の姿を映して、屋島の駅と列車の記録を幾つか開始する事にした。
 それにしても列車の走り出しと言えば良いのだろうか。少々鈍く、というか杖を付く。手をモノに寄りかけて立ち上がる感じの渋い加速がまた素晴らしい。今でこそこの加速は四国に残されるのみとなったが、昭和の晩年には全国でこんな光景を眺められたと思うとまさに旅人としての日本も「繰り出し甲斐」があるものだ。

 既に板野・徳島方面はとっぷり夜に浸かっている。列車は重い腰を上げ、志度へと歩み始めたところだ。
 照らす街明かりやホームの調度。コレらを引き立てるのには国鉄車だろうがJR車だろうが自分の技量が全て…と考えている自分だが、やはり国鉄の車両で見送ると特別な箔が付くように感じられる。
 鈍い音や少し篭った排気の音を嗅ぎながら、
「また志度より先にも足を列車で辿りたいものだ」
と少し冒険家のような決意を辿ると同時に、キハ40形列を「我が家」のようにして帰省している徳島県から羽ばたいた友人を思い出した。元気にしているだろうか。
 屋島から先は高松方面の時刻を待たなかった。結局、「ことでん」志度線での引き返しを決意したので時刻表を探る。まぁまぁ時刻のリミットが接近しているではないか。小走りに早歩きに。

残照、ウィンザーイエロー

 琴電屋島の駅に到着する為には、複雑な道を辿らなければならなかった。
 しかし、駅付近には様々なチェーン店やローカルの飲食店等も点在している。移動していると、香川県の車での移動ライフラインを垣間見た気分にもなるので少々オススメだけはしておきたい。
 とさて。琴電屋島に到着した。JRの屋島同様、配線の複雑さが妙味な駅である。車両の幕コマには「琴電屋島」の幕コマが挿入されているので、それに準じた折返し設備などだろうか…と毎回勘繰っているが実際に折返している電車や折返し設定の電車などは見た事がない。
 駅到着とほぼ同時に、踏切が鳴った。瓦町行きの電車が到着するようである。
 しばらくすると軽くもゴゴゴ…と鉄が擦れる音を立てて、志度線ラインカラーの電車が入線した。名古屋市営地下鉄の車両である。
 そして琴電屋島はホーム構造が非常に狭く、地下鉄車両の小柄な規格ではどうも乗車が難儀してしまう。駅でもホームの傾斜を啓発していた。
 しばらくして、志度方面の電車もやって来た。この駅で行き違うようである。
 この路線は先の再編によって既にワンマン化がなされており、既に運転士が扉扱いを行っている。小柄な電車が、宵闇の街を高松市街へ走ろうとしていた。扉が閉まる。

写真は2022年夏訪問時にフィルムアプリで撮影。鉄道と昭和の大衆文化について考える大事な語り部でもある駅舎だ。

 今回は焦ってそのまま電車に乗車してしまう結末で琴電屋島をさる事になったが、この琴電屋島駅。実は非常に歴史上大事な足跡を残した駅なのである。
 それが、平成21年の近代産業遺産登録だ。
 この琴電屋島駅は昭和4年に建築された。
 その時代は屋島登山鉄道の開業時代に遡り、現在のチェーン店やドライブ休憩スポット…のようになる以前。屋島地区が香川県に於いてリゾート地として栄えていた頃に遡る。そして、この琴電屋島駅は
「昭和初期の大衆文化を反映した貴重な遺産」
としてその功績を語り続け、時代が進んで屋島ケーブルが廃線になり。リゾートも撤退…と時代を過ぎてもこうして鉄道が栄え、高松口に1つの自然遊戯施設があった事を今に駅舎を構えて語っている大事な語り部だ。
 機会があれば。志度線での電車旅で余裕がある時などでは是非、この「琴電屋島」駅に下車をしてみていただきたい。昭和レトロ…を語る以前。鉄道、電車の存在が如何に尊く。交通産業とはどれだけ大事なものだったのかを語る大事なモノでもある。

写真は長尾線用の名古屋市営車。ワンマン対応となっている。

 さて。志度線の旅は順調に…?とそれどころではなく、車窓も何も見えない。更には携帯すら触って何も考えていなかった為、この区間での話が何もない。
 志度線に因んだ話、として志度線で活躍している現在の主力車両。名古屋市営地下鉄の仲間についてココでは触れていく事にしよう。
 志度線・長尾線・琴平線。それぞれの路線全てに現在も所属している電車がいる。
 それが、写真で掲載している「名古屋市営地下鉄」の電車だ。写真は長尾線でワンマン運転を行っている現在は600形と形式を改めた電車で、名古屋市営地下鉄では東山線に所属。250形として活躍していた。
 「ことでん」では現在。名城線・東山線での活躍経歴があった電車を30両近く名古屋市営地下鉄から導入しており、志度線で休車状態に近くなった車両を除外しては殆どが現役で稼働している。
 名古屋ではつい最近まで「市営交通100周年」の催しが市を挙げて挙行されていたが、その際には「海の向こうでも活躍する電車」としてアルゼンチン・ブエノスアイレスと共にこの四国・高松が紹介された。名古屋からすれば海の向こうではあるが、それはどうなんだ。
 …とさて。ここで写真も思い出しつつ、皆さんに振り返って頂きたい。鉄道に勘のある方。または昭和の交通を愛しいていた方。そしてごく僅かな鋭いお方なら分かるはず。
 現在、「ことでん」で活躍している名古屋市営での電車はかつて…?名古屋市営地下鉄の名城線と東山線を走っていましたよね?そして、その双方の路線にはあるものがない。そう。今からそれを確認してみよう。

現在の名古屋市営地下鉄東山線のエース・N1000形

 現在の名古屋市営地下鉄は東山線の電車だ。
 さて。この電車はあるものを「持っていない」。
 そう。「パンタグラフ」だ。
「パンタグラフなしで何処で給電して走っているのか?」
という、N◯Kの長期休暇によくありそうな子ども向けの科学電話相談のような質問が浮かんだ方も居るかもしれない。
 この電車。現在の「ことでん」で活躍する名古屋市営の仲間も「かつて」は電車の線路下にある、「サイドレール(サードレール)というヶ所から電気を集電(給電)して走行する。
 この集電(給電)方法は、3つ目の線路の様に見える事から「第三軌条方式」と呼ばれ列記とした「鉄道の集電方式」に数えられている。
 この集電方法は、地下鉄で用いられた集電方式だ。主に地下鉄の初期に建設されたグループではこの工法・集電方法が採用されており、日本初の地下鉄である東京・「銀座線」もこの集電方式で建設された。
 筆者の身近…で第三軌条初期の工法を体感・見学できるのは大阪・「御堂筋線」が主である。
 そしてこの工法では、
「トンネルを大きく作らなくて良い」
という利点などから車両も小さめに設計する事が可能になった。その為、車両自体も少し現在の線路(転職先の「ことでん」に出してみると)に送ってみたりすると少し小さめに感じる。
 先ほど、琴電屋島からの乗車で車両を「小さい」と感じたのもその影響からだった。

写真は2020年に撮影。ワンマン化前の志度線だが、800形も現在は半分仕事を失った状態になっている

 「ことでん」の電車事情に戻していこう。
 写真は3年前に撮影した「元・東山線」の電車だ。写真では判読が難しい状態になっているが、屋根上には地下鉄時代に装備できなかった冷房。そして四国の線路を走る為の「パンタグラフ」に地下鉄時代とは環境の異なる「バラスト」と呼ばれる「石」が多く敷かれた線路を走る状況に適合する為の台車。
 これらを現在の「名古屋市営地下鉄」からの移籍車は多く備えている。
 では、これらの「調度品」について。適合していく為の部品についてはどのようにして装備されていったのか。その過程とは実に恐ろしいモノだった。

京王のパンタグラフと泉北高速の冷房機器。撮影は2022年夏の訪問にて。

 現在の「ことでん」で活躍する「名古屋市営地下鉄」の車両での変化部分を「拡大して」映した記録だ。
 パンタグラフと冷房機器の搭載が追加された…事は先述の事ではあるが、それらの機器を「ことでん 」はどのようにして調達したのか。この自転車操業っぷりには驚くばかりだった。
 まず、架線が張られた場所への移籍(転職)に伴って設置されたパンタグラフは、京王6000系と同じものを装備した。(廃車発生品の可能性もある)実質、型番が同じ…という状況ではあったが一先ず、「名古屋の電車に京王の部品が装着された状態」に。
 そして、冷房機器については何と泉北高速鉄道100系の廃車発生品である三菱製の空調機器を使用している。
 台車については名古屋市営地下鉄で使用していた台車の集電装置から「集電靴」と呼ばれる第三軌条集電で必要とする装置を解除するだけでどうにか留まる事が出来たが、
「パンタグラフは京王。冷房は泉北高速」
とこの時点で鉄道模型のジャンク品をかき集めて操業に漕ぎ着けた感覚が非常に凄い。
 そして、一部の冷房機器には京王6000系の廃車発生品。また、「ことでん」での転職時と時を同じくして廃車が発生していた小田急3100形・NSEの冷房機器も名古屋市営車の冷房化の為にドッキングされてしまった。
「冷房機器だけで3種類もの鉄道会社が存在している」
例も非常に稀有な例ではあるが、ココに地方私鉄の自転車操業で走り抜く苦労と努力。そして決死の生命を感じ取ることが出来ると思う。
 他社や他私鉄、そして他の工場ではもっと大胆な工事や継ぎ接ぎの実績を残しているが、「ことでん」でのこの成績も抜きん出ていると言って遜色はないのではないだろうか。
 なお、「名古屋市営地下鉄」の車両を「ことでん 」へと譲渡改造するこれらの行程は東京都・八王子市の「京王重機・北野事業所」にて行われた。
 一部の車両についてはこれらの工程に追加して中間車からの先頭車改造という「トンデモ」な通過点まで経ているが、それらについては調査を進行させていくと脳がショートしてしまいそうになるため一旦打ち切りとした。

名残を感じて

 そんな事を思いながら。名古屋市営地下鉄車両の魔のような経歴を考えながらも乗車してしまうのが、「ことでん」の志度線というものだ。
 これらの事は自分が大学生の時に所属していた鉄研の先輩から教授頂いたモノでもあり、その当時は大学に進学した自分でもかなりの驚愕を感じたのを忘れていない。「冷房機器は泉北」というのはこの時期に知っていたが、それでも忘れられない出来事になった。
 さて、電車は今橋のガレージの様に窮屈な車庫を掠めて瓦町に到着した。レトロ電車が引退してしまった今、小柄な車両たちがその脇を固めている姿は何となくいつの時間通過しても「旧型車の聖地」と仰がれた頃の志度線に思いを寄せる事が出来る。
 瓦町で電車を下車して、高松築港へ向かう。かつては乗換なしのスイッチバックにて向かう事が出来た高松築港も、今やこの駅での乗換えが「必須」となってしまった。名残を残した記念撮影とまた戻ってこの路線を記録するという誓いを立て、人の移動時間をカメラの設定に充てる。
 設定後に記録した写真がこの1枚だ。
 個人的には何となく良かったというか、何も考えない記念写真にしては良いものが残った気がする。人もいないし、ブレていないし、電車らしさも残っている。欲を言えば…と角度をもっと拘りたかったがそれは京都に帰って蓋を開けてからだった。

市営交通100周年を記念して行われた写真展。その中には現在も海を越えて活躍する市営地下鉄を!と歴史の残照が車内に掲載され、名古屋市民にその懐かしい姿を見せていた。

 最後。志度線は瓦町を去る前にこの記録を掲載しておく事にしよう。
 志度線で現在主力となっている名古屋市営車のかつての故郷である名城線にて撮影したものだ。
 現在この車内広告は終了してしまったが、名古屋市営地下鉄での「市営交通100周年」記念事業にて「黄電復活」プロジェクトとして走行した懐かしの名城線の車内で撮影した車内広告である。
 この顔を見て、先ほどの「ことでん」での写真を眺めてみると。香川県に転職し、東海から四国へと渡って第2の暮らしをしている事が少しは名残として感じられるかもしれない。
 車両の雰囲気や設備については現代の電車そのままで復活した100周年記念の「黄電」だったが、感染症対策として窓を開放して地下線内を走行するその姿は何となく往年の「非冷房」だった時期を垣間見る事が出来、個人的には目的違えど何か昭和の交通の一部を見た気分にさせられたものだった。理由は今と昔でかなり変化してしまい、「笑えない」モノになっている気がしないでもないが。
 この写真を名古屋で見て、自分は「高松で活躍するあの電車」が直感で浮かんだ。
 「ちなみに」情報として書き加えるが、アルゼンチン・ブエノスアイレスの地下鉄集電方式は「第三軌条」となっておりココまでの改造をせずとも走行が可能な設計になっている。「ことでん」だからこその特殊改造、物々しい姿での余生であり、その変貌ぶりは現代になってみるまで分からないものが感じられた。

瀬戸去り際に

 瓦町での長い通路を渡った先には、長尾線の電車が入線してきた。この電車で高松築港を目指す。いつもと同じ重複区間だ。
 この区間では証言だと「車掌が添乗する」との情報があったが、そういったシーンは結局見なかった。もう慣れているのか、重複区間のワンマン化も完了したのか。結局長尾線は全てが車掌抜きで完結しているようだった。
 高松築港に到着した。こんな夜の時間まで高松の真ん中に降りなかった経験ははじめてかもしれない。「敢えて」踏まないようにしていた感覚はあったが、こうして踏んでしまうと「仕方ないな」感に襲われる。
 写真をこうして残し、JRの駅へ向かった。
 関係ないかもしれない話だが、「ことでん」に乗った瞬間。高松築港から「ことでん」の旅が始まると感じる瞬間に、この「BOOKOFFの広告の柱の砲列を見た瞬間」がカウントされるのではないだろうか。個人差はありそうだが。


 遂に帰る…というか、もう帰らないとマズい時間にまでなっていた。かなり浸っていた。
 この時、懐かしの知人に出会い再会を喜び様々な話を酌み交わした。話していると懐かしい思い出や、自分の知らない四国の鉄道の変化した一面を感じて切なくなったと同時に2000系晩年期に築いた関係の尊さなども感じる。言葉には出来ないというか素直に感想化出来ないような時間だった。

 普通の四国7000形の幕…に見えたが、再会を喜んだ知人によると
「北伊予の幕コマが新たに入ったらしい」
と教えてもらった。
 そして、午前過ぎに乗車した6000形電車と同じく「ナンバリング」を入れた新幕になっている
「なんでこっちは幕やねん!!」
と笑いながらもやり過ごしていたが、結局そうして過ごし語らった時間は何かと少年というよりか自分の力が凝った部分を適度に抜かれた優しさを感じる。あとは他にも「快速」の単幕などもあるそうだ。

 発車のかなり寸前になってこの幕がようやく出現した。
「見辛っっ!!」
と知人同様に笑っていた。
 こんなギッチギチに「快速+(愛称名)」で理解が届くのだろうか。非常に不安だが、会社が決めたのだから仕方ない。あとは乗って車内放送聞いたあなたの自己責任ですよ、とでも言いたげな位の小ささだ。
 さて、この記録をした所で快速・マリンライナーに乗車して岡山に自分は戻った。瀬戸大橋も音しかしない夜景点々バラバラな光景…で、車中ではずっとマンガを読んでいた。
 帰宅時にと乗車した姫路行きは姫路へと戻る最中に事故を起こし、結局のとこ新快速に繋がったは良きモノの「嵯峨野線での帰宅不可」になり、タクシーを拾って母親からの着払い運賃で事なきを得た。
 今を思えば「帰宅時が散々」だった気はするが、無茶な反転などするモノではない。
 そして今回も、だが志度線での乗車パートがあまりにも少なかったため、過去写真を適量使用して補填させて頂いた。
 前回も言いました。四国の皆さん、ありがとうございます。そして今回は高松琴平電鉄さん。赤い電車復活に尽力された皆さん。ありがとうございました。

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