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Vol.36 右手の過去と左手の現在が交錯する時。

「怖い映画」が苦手で、「痛そうな描写」も苦手な私。
そんな私が公開日に劇場で観てきた映画が『毒娘』

どんなあらすじかと言いますと…
元・衣装デザイナーで専業主婦の萩乃は、夫の篤紘、夫の連れ子である萌花と、とある一戸建てに引っ越ししてくる。
穏やかな生活を送っていたが、ある日 赤い装束に身を包み、ハサミを握りしめた不気味な少女 ” ちーちゃん ” が現れる…』

※下記は予告編(1分24秒)です↓

冒頭、「典型的な ” 呪いの空き家 ” オープニング」で幕を開ける本作ですが、いざ物語が進むと いわゆるJホラー的なテイストとは異なる作風で、なかなか興味深い作品でした。

序盤では、急ごしらえの「幸せな家庭」に ” 微妙な危うさ ” が通奏低音の様に漂い、それが謎の少女 ” ちーちゃん ” の出現によって、そのバランスがどんどん崩壊する訳ですが、その過程で ” ちーちゃん ” が、 ” (準主役ともいえる存在の)萌花 ” にとって「開放をもたらす存在」、言い方を変えれば「物騒なドラえもん(注1)的存在」に見えるのが印象深い所。

そして、過去の ” 何か ” を想起させる「萌花の右手(の手袋)」。

一方、「幸せな家庭」に憧れていた主人公の萩乃が、徐々に追い詰められていく描写も本作の見どころ。
中盤、そんな萩乃の寂寥感に気づいた ” とあるキャラクター ” が「萩乃の左手に、そっと添える左手」。

つまるところ、 ” ちーちゃん ” という存在は一種のスパイス的な存在で、あくまでも『「 ” 過去の苦しみ ” の象徴」の右手を持つ萌花』と『「 ” 現在の苦しみ ” の象徴」の左手を持つ萩乃』が織りなす物語に感じました。
そんな二人が織りなした物語の終盤、萌花が萩乃をどう呼ぶか?…まだ未鑑賞の方には、その点に注目してほしい所です。

なお ” ちーちゃん ” に関しては、劇中で背景の説明はされますが「本当に、その説明を額面通り受け取っていいのか?」という、不気味さが残る辺り(説明がつかない辺り)は良いと思います(←注:ちなみに、前日譚がコミックで掲載されているみたいですが、私は未読です)。

ただ、そんな一方 終盤で『「○○だと思っていたら××だった」的なクドい展開』が頻出したのは さすがに閉口。その間、結構 重要なやり取りがあるのですが、お陰で物語の核となる部分が、ぼやけた様に感じたのが残念でした。

そんなマイナス点もありますが、ここしばらくの間 エンターテイメント映画で主流を占める(!?)「疑似家族モノ」へのカウンターともいえる一作。
決して、万人におすすめできる作品ではありませんが、一見の価値アリと思います。

では、今週も締めの『吃音短歌(注2)』

囚われて 言葉に吐けぬ 感情が 性根を蝕み ふと鏡見る

【注釈】

注1)ドラえもん

漫画家 藤子・F・不二雄の代表作。
何をやってもダメな小学生 ” 野比のび太 ” と、未来から送られてきたネコ型ロボット ” ドラえもん ” との日常を描いた作品。
ドラえもんが未来から持ってきた ” ひみつ道具 ” を、のび太が悪用(もしくは誤用)することでトラブルが起きるのが定番の展開。

注2)吃音短歌

筆者のハンディキャップでもある、吃音{きつおん}(注3)を題材にして詠んだ短歌。
この中では『「吃音」「どもり」の単語は使用しない』という自分ルールを適用中。

注3)吃音(きつおん)

かつては「吃り(どもり)」とも呼ばれた発話障害の一種。症状としては連発、伸発、難発があり、日本国内では人口の1%程度が吃音とのこと。



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