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偽りの注射と、廊下の残像

わたしは夢の中で、どこかの大きな病院の白い廊下を歩いていた。コツ、コツというハイヒールの音が他人事のように聴こえていた。

その廊下は明るくモダンで、どうやら"診察室"と呼ばれる部屋へと続いているらしかった。

わたしは数多くの部屋の中から、ある一室の扉の前に迷うことなく立った。
なぜか胸騒ぎがしたが、わたしが選べる扉はそう多くないような気がした。最悪の選択肢の中から、ましなものを見つける。そういう類のことなのだろう。

扉は木目調のスライド式で、清潔で他よりも良いものであるようだった。権威の気配がした。
わたしはこの先にいる、何らかの組織の長であるマッドサイエンティストにモルモットのように扱われ、暴力的な実験の犠牲になるんじゃないかという不安が思い浮かんだが、非現実的だと自分をなだめた。手をかけるとあっさりと扉は開いた。

中には、一人の白衣を着た五十歳くらいの女がいた。室内の調度品は、相変わらず質の良いものが配置されていた。しかし、そこには思想が感じられなかった。どこか空虚な感じがした。気のせいかもしれないけど。

「どうぞ」白衣の女は言った。どこか抑制的で演技的で、冷たい響きをはらんでいた。「どうも」と言って、わたしはしぶしぶ中に入った。

「今日はどうされましたか」
「そうですね……」

わたしは口ごもった。上手く言葉が出てこなかった。
そもそも、なぜこの病院に来たのかよくわからなかった。ここまでにわたしが考えたことといえば、一つの扉を選んだことくらいで、それも最悪の中からましなものを見つけるという動機だった。

そして発言をためらった理由はもう一つあった。この女は信頼できない。わたしは直感的にそう思っていた。でもこの時点で結論を下すのは早すぎるかな。

「どうしました? 話してくれないことにはこちらとしてもやりようがありませんが」白衣の女は言った。

少し悩んだ末、わたしにとってそれほど本質的でない部分の、病的だと思える何かをこの人に提供することにした。いかにもこの人が気に入りそうなものを選んで切り取った。それを加工して言葉にした。

「実は、頭痛がしたり、妙に肩が凝ったり、身体の至る所が全体的に調子が悪いんです」

わたしは言った。いかにも迷いとためらいをはらんだ発言だと自分の声を聞いて思った。

「それは大変でしたね」白衣の女は言った。いかにも職業的で、事務的な響きがあった。
「詳しく調べてみる必要がありそうです」仰々しい器具を取り出しながら言った。

「そうですか」わたしは警戒しながら言った。あれは何だ。やはりこの人は信頼できないという気がした。でも、わたしが神経質になりすぎているだけなのかもしれない。この場の真実を見極めたい。

女は器具の準備に手間取っているようだった。「少しだけお待ちください。最新の、海外製の素晴らしい器具なのです。間違いはないのです」そう言いつくろいながら、作業をしているようだった。
わたしは早くもここから避難する算段を考え始めていた。器具の性能は知らないが、少なくともこの人の取り扱いは信頼できない。

「時間がかかりそうなら、お手洗いをお借りしたいのですが」
「いえいえ、もう済みます! あなた、急ぎ過ぎちゃいけませんよ! 落ち着いてくださいね、ね」

怒気をはらんだ声で白衣の女は言った。どう見ても落ち着いていないのは向こうの方だった。

「すみません。我慢できなさそうなのでお手洗いを借りますね」
「すぐに済むと言っているでしょうが! そんなにこらえ性がないんですか!」
「いえ、そういうわけではないのですが……」

わたしは心にもないことを便宜上で言ってなだめたが、失礼な人だ。その言葉は、波を立てることを好まない日常的な習慣から出たものだった。処世術ではあるが、この場にはどうもそぐわない気もした。

「まあまあ、落ち着いてください。大丈夫ですよ。あなたは病気を治したいんですよね?」

一転して女は笑い顔になった。不自然な変わり身だ。それはひどく人工的で演技的で、そのことが誰でも容易に見て取れるいびつな表情だった。たぶんその表情の本質に気が付いていないのは、世界でこの女一人だろう。

「はあ……」
「あなたはまだ若い。そうですよね?」
「ええ、まあ……」
「じゃあもっといろんな経験を積んで、世界を広げたほうがいいと思います。あなたは視野が狭い。この病院の近くに川があります。そこで石を積むと良いですよ」
「そんな感じのことは今までに嫌というほどやってきましたよ……」
「足りないんじゃないですか? 不十分だから病院へときたんですよね?」
「違うと思います」

生理的な嫌悪を覚えさせる女の態度に、思わずきっぱりとわたしは否定した。同意を求められることで、この女と同化させられるかのような感覚から逃れたかったのだ。

「はぁぁ……」

それに対して白衣の女は、威圧的な、見せつけるような大げさなため息をついた。3年経っても時々思い出すくらいの、世界中のため息を合体させたかのような大仰なため息だった。
わたしはやっぱりこれも嫌いだったので、これは本質的には女自身が受け入れがたい事実を、逃げてきた現実を目の前に突き付けられた時の定型的な反応なんだと思っておくことにした。


そして一瞬の静寂が訪れた。時計の針の音が妙に大きく聞こえた。続いて誰かの怒号が、部屋の外から聞こえてきた。他の部屋でも、同じような会話が行われているのかもしれないと思った。
わたしは何気なく窓から外を見た。アスファルトの道と、雑草しか見えなかった。しかし、世界は陽光を受けて、素知らぬ顔で輝いているように見えた。少なくとも、見かけ上は。そしてこれが夢だということを思い出した。明晰夢ならどうでもいいか。早く覚めないかな。

「私は多くの人をいい方向へと導いてきました。実績があります」女はまた感情と笑い顔を作り直して、取り繕って言った。第2ラウンドだろうか。

「実績で人が治せるんですか? 時代遅れになっているんじゃないですか?」ここまで面従腹背で、悪意を持って人を騙そうとしている輩には容赦する必要はない。

「失礼な! やっぱりあなたは何もわかっていない!」第2ラウンドはあっさりと崩れ去った。白衣の女は続けて言った。
「病気だ! 経験不足だ! 石積みをやれ! 今すぐに!」
わたしの言葉は図星だったのだろうか。この人が日々苛まれている、声なき声の代弁をしてしまったかのような感触があった。

「だからさっきから聞いているじゃないですか。その"石積み"をやるべき理由とその根拠を。具体的な作用を」
「あなたは勘違いしてますよ!」
「答えてはいただけないのですね。話が逸れましたがお手洗いに行きたいので、生理的なものなので、失礼します」
「待ちなさい!」

白衣の女はわたしの腕をつかんで引き留めた。さすがにむっとしてわたしは言った。

「いい加減にして!」

白衣の女は勝ち誇ったような態度で言った。「ほら、やっぱり怒りっぽいじゃない。あなたは病気です。治していかれた方がいいのではないですか。さっきから言っているこの最新の器具を私が使えば、全てを見通すことが出来ます。私の言う通りにしないと、大変なことになりますよ?」

「全てを見通すだなんて、とんだ傲慢ですよ。あなたは何もわかっていない。自分の矮小な脳を通して他人を見て、他人を自分より低い位置に貶めようとしているだけだ。そして、脅迫めいた言葉で他人を無理やり操作しようとしている可哀想な病人だ」

汚らしいという美的評価の言葉とか、あるいはこれ以上正確に間違いを指摘するような言葉は、一応付け加えずに呑み込んでおいた。これ以上は言わない。この人はずっと間違い続けていてほしい。そのことによって、不幸であり続けてほしいという復讐の気持ちが湧いていた。

「偉そうに! あなたはどんな理論に基づいて判断しているというの? 何をやってきてどんな診療経験があるっていうの? 答えてみなさい! 小娘が!メイク濃いんだよ!」白衣の女は興奮し、理性をなくした様子で言った。

「確かに私は医者ではないですね。なのであなたを治してあげることは出来ません、ねえ、おばさん?」白衣の女に掴まれた腕を振り払った。
「消えろ! 異常者が!」そう言いながら、女は逃げるように足早に去っていった。部屋の中にはわたし一人になった。

これまでの喧騒から一転して、耳がキーンとなるような沈黙が訪れた。白衣の女はこの後、「自分は冷静で有能だったが、特別に異常な患者が来た」という話をだれかにするのかもしれないと思った。

この女のような人はきっと、自分の仕事を全うできないという不適格感に日常的に苛まれている。だから自分の支持率が100%でないと気が済まないのだろう。異論や疑いに対してあまりにも神経過敏になっている。簡単に理性を失って、異論を唱える者を病気だとして自分の中で低く、低く位置付けようとする。そうでないと現実が受け入れられないのだろう。わたしもこのメカニズムには気を付けないとな。


この部屋を去ろう。もうここに用はない。
少し気が抜けると、心と体に疲労を感じた。それを話す相手もいないけど、誰にも理解されないだろうから話したいとも思わなくなっていた。わたしも他人を敵視しすぎているのかな、あの人みたいに。でも本当にとんでもない悪党がはびこっているんだよ。誰もその話を信じてくれないけど。悪夢のような世界だ。


扉を開けて、白い廊下へ出た。そしてその廊下を見て、ここが病院だということを改めて思い出した。人を回復させるための施設だと思っていたが、どうやら実際は逆だったらしい。あまりにも自分の仕事を放棄して甘えている女が一人いただけだった。

「こっちは一応、患者なんだけどな……」

権威を盾に人をあざ笑って、それで人が回復するのだろうか。誰であろうと罪は罪。消して消えることはない。

ふと、気がついた。なるほど、患者として病院に来ていると思っていたが、どうやら医者はわたしのほうだったらしい。
ならば、このモダンで光のあふれる白い、偽りの廊下を取り換えたいと思った。もっと本質的な形にね。


きっと、こんな無意味で教訓はなく、試練めいた場面がこれからの人生で何度も待っているのだろうなと思うと、ひどくうんざりしてきた。なにしろ、この病院がどこで、なんでこんな場所にいるのかということすら、わたしはまだ知らない。

あの人、初犯じゃないだろ。誰にでもああいうことをやっているのかな。ヤブ医者なのかな。またそう思った。思わずにはいられなかった。

「ああ、これは……」突然閃いて、わたしは一人でつぶやいた。わかっていても、それでも、ぶつぶつとつぶやき続けた。とても長い間。逃れられなかった。

怒りと同時に、なんだか悲しくなってきた。


そこでわたしは目が覚めた。辺りはまだ暗い。時計を見ると、深夜3時だった。
焼き付いたように、白衣の女の言葉と、白い廊下が頭の中に残っていた。

これじゃあ裁かれなかった罪と、裁かれた冤罪じゃないか。夢の出来事を、現実の裁判所へと告訴したいような気分になっていた。


(終)


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