見出し画像

大嫌いだった自分の顔は今も大嫌いだけど、愛してる。


▶はじめに


はじめまして、あやかです。


読んでいる人の多くは、この半年間ツイートをみてくれている、Twitterのフォロワーさんかもしれません。こんにちは。


突然ですが、わたしの顔には生まれ持った痣があります。

生まれつきで顔の左半面が青黒いあざに覆われていました。あざは左目の白目の部分にもあります。


あざがあるからどうとか、ないから良いという話をするつもりはありません。

このnoteは、私と同じ境遇にある人だけでなく、自分に自信がない人、なにをやってもうまくいかない人、希望が持てない人、人生も、将来もあきらめようとしている人に、ほんの少しでも希望を持ってもらいたいという思いから書いています。

そして、こういう人がいるんだということを広く知ってもらうことで、普通の人も普通じゃない人もお互いを尊重しあえる世の中になり、あざやコンプレックスに悩む人の心が軽くなればと願っています。

人生をあきらめていた。


人前に立つのが嫌いだった。
注目されるのが嫌いだった。
恥ずかしがり屋で、人と目を合わすのもできなかった。
初対面で自分から話しかけるなんて絶対にできなかった。

それは全部、私の顔に理由があった。

私の顔にはあざがある。


生まれつき、太田母斑(おおたぼはん)

と呼ばれる青黒い痣を顔に持って生まれた。


生まれた直後にはわからなかったり、

成長とともに痣が濃くなる人、

範囲が広がっていく人もいたり、

成人になってから肌に現れる人もいる。

場所も顔が多いが、体にだけある人もいる。

私のあざは、顔の左頬全域と、左目の眼球にも及ぶ。

わたしはとにかく自分が嫌いだった。


黒い。青い。人と違う。普通じゃない。怖い。可愛くない。
写真なんて絶対写りたくない。
毎日鏡を見ることさえ嫌で仕方ないのに、普通の肌の子たちと並んで写真なんかとれるわけがない。


すべての幸せをあきらめていた。

普通になれない悲しみから抜け出せなかった。


小学校にあがり、いつも校庭にでて外で太陽の光ばかり浴びていた。

―今、もしも戻れるなら絶対やめさせるのだが―

左顔ばかり好んで日焼けした。

日焼けの黒さで、あざを隠せるんじゃないかと本気で思っていたのだ。



おかげで1年を通して風の日も雨の日も雪の日も必ず外で遊んでいた。

一緒に校庭を駆け巡って遊んでいた友達にこの場を借りてお礼をいいたい。


ありがとう。


このころ誰よりも必死だったのは、“普通であること”。


男子に交じって蹴りあいの喧嘩のようなことをしてみたり、

休み時間は毎回ボールを追いかけて走り回ったり、

授業中は寝るか漫画書いてるかのどちらか。



年中半袖短パン。それが小学校の時のトレードマークだった。
元気、強い、笑顔でいること。

笑顔を意識していたのは、左目の白目部分にある痣が笑うと隠れるから。


あざなんて気にしないよって何回も言われた。

あんまりわからないよって。

「なんで黒いの?」「調子悪いの?」「疲れてる?」「大丈夫?」「焦げパンみたいだね。」


でもみんなは“普通”側の人間なんだ。

普通じゃない側の気持ちはわかるわけがない。


理解しようとしても、限界がある。

だから、人に弱みを見せたくなかった。

常に元気で笑っている。それがわたしの鎧。

傷つけられないための防具。



小学校のころ、学校を休んだことがない。
今では信じられないかもしれないが、インフルエンザになっても通っていた。(やっちゃだめだよ。笑)


それぐらい学校が好きだった。

正しく言うと、休んだ時にやった授業とか、

友達との話題についていけないとか、

その日得られたはずの“普通の生活”が

手にできない怖さにおびえていたのかもしれない。


人並みに育ち、生活する日々。
友達と遊ぶのが当たり前の生活。

誰かとつながっていたかったんだと思う。
1日でも途切れてしまうと友達でいられなくなるのではないかと。
(もちろんそんなことはあり得ないのだが。)


まだ、小学校ではガラケーすら持っていない時代。


それでもたかが小学校。暗くなる時間にはみんな家に帰る。

家は、お父さんとお母さんと5つ歳の離れたお兄ちゃん、そして私の4人家族で、ごく普通のありきたりな家庭だった。

両親は共働きでお父さんは毎晩遅かった。19時まではお母さんが帰ってこない。

私が小学2年の時、お兄ちゃんは中学生。部活で遅くまで帰らない。

早い時間に家に帰ってもだれもいないから、

友達の門限に合わせて外や家で遊び、そのあとは帰宅して一人でTVゲームする。

今の世の中みたいに、YouTubeとか、スマホが普及していない時代だったから、RPGを攻略しまくるのが日課。ゲームに没頭した。

両親もゲームやらせておけばいいと思っていたと思う。
スーパーファミコンからWiiの時代まで、最新ゲームはすべて網羅した。


5つ上の兄。普通で生まれた側の人。

当時は、兄がうらやましかった。

小さいころから負けず嫌いで、「お兄ちゃんには勝ちたい」とよく張り合っていたものだ。
いつも口論しては勝てないから手を出す私に、兄はやり返すことなく、耐えてくれた。
いつも、優しかった。




中学にあがると、部活に明け暮れるようになる。
バスケットボールとの出会い。

小学校の夏休みにスラムダンクをずっと見ていて、バスケ部にあこがれて入部。

部活のない日も近くのバスケットゴールがある公園で練習した。

部活では校庭10周のランニング、筋トレ。

雨の日は階段の上り下りを10周。毎日。


自由練習の時は、ひたすらシューティングした。

ドリブルは得意じゃなかった。(切り込む勇気がなかった)

身長も高いわけではなく、瞬発力やフィジカルが強いわけじゃなかったから、一人でできるもの。

それがシュート練習だった。


一日に何回も、何本もシュートした。

気づけば、どの位置からでも外さないシューターになっていた。


でも他の能力だと中の下ぐらい。総合で中の上だったかな。

ある日、一軍VS二軍の練習試合をした。

一軍には小学校からバスケをやっていたミニバスの上位者しかいない一段も二段も上手な5人。
だれも5人を追い抜くことは決してなかったが、その日の試合は、二軍が圧勝した。


毎日のシュート練習で培ったシュートの感覚が私にスポットを当ててくれたんだと思う。

パスをもらえばすぐシュート。

どこから打っても、何回打っても、入った。


たった数分の出来事だった。

絶対的な一軍に二軍が勝てた唯一の試合になった。

それからユニフォームも9番をもらった。(バスケでは4番から始まる)
一軍5人の次の6番目の証。

嬉しかった。
やればやった分だけ報われるんだと体感した。


中学時代は、バスケの記憶しかない。

好きな人もいたけど、ずっと片思いして終わってしまった。


これ以上うまくなれない壁にぶつかっていた私は、バスケで走る日々に飽き、高校は、バドミントン部に入った。


この3年も部活動一筋で終わることになる。


高校の部活は、中学の時とは比べ物にならないぐらい走った。

こちらも初心者で入部したから、1年生は11人いる中でスタートは8番目くらい。下から数えたほうが早かった。

4人の経験者と他7人の未経験者ではレベルが違いすぎて、お遊びでも戦えないぐらい、はるか遠い存在だった。

朝練は7時30分開始だけど6時から体育館に通い、

準備し、サーブの練習をした。みんなが来る頃には汗だくだった。

この時のバドミントン部の顧問の先生には伝えきれないほど感謝している。


実力の乏しかった私にバドミントンの楽しさを教えてくれ、エースに起用してくれた。


忘れはしない、高校2年の春の大会。団体戦。


ダブルス、シングルス、ダブルスで戦い、2勝した方がトーナメントを進んでいく。

夢の県大会出場。埼玉県は屈指の県大常連校も多く、県大に行けるだけでもかなり頑張っている方だったと思う。


県大会1回戦。

団体戦メンバーの7人のみが体感できたあの空気感。

ダブルスの二人が負けた。
シングルスの私がここで負けたら敗退となってしまう。

試合の内容はほとんど覚えていないけれど、

二階から届く大きい歓声。


私の名前が連呼される。熱い声援に背中を押される感覚。

力がみなぎってくる。

気づけば試合は終わっていた。



最後相手が泣きながら握手を求めてくるまで勝ったのがわからなかったほど、あっという間の試合だった。


未経験でも県大会に出場できた。

このことは、かなり自信になったと思う。


そこから努力したが、

3年の最後の試合もそこそこの結果も残せず、
結局それ以上の実力にあがることができなかった。


それでも、私の一生の宝物

あまり過去の栄光にすがるのはよくないが、確実にこの経験が私の自信につながっている。

なんで、ここまでただのノリと勢いで入った部活に、

中学3年と高校3年で6年。

多感で繊細な時間のすべて、青春のすべてを費やせたのか。


それは私が部活でしか自分を満たせなかったからかもしれない。



―女性の命ともいわれる顔にあざがある―


このあざと向き合い、戦い、寄り添い、受け入れて生きてきた。


小・中・高と、あこがれや恋はしたこともあったが、結ばれることはなかった。

噂によれば、両思いだったこともあったらしいが、実らなかった。


私はとても臆病だった。顔に自信がなかったから。

生まれたときから、人とは違うんだ。
―私と付き合っても誰も幸せになれない。と自分を封じ込めてた―


今思えば、
―ばかやろう。好きって言っとけばよかったのに―
と思うこともたくさんあった。

それでも当時は、傷つきたくないという気持ちから、自分を守ることで精一杯だった。



私はいわゆる“ゆとり”世代だが、

幼少期はまだ「人と違うこと」になれていない人が多かったと思う。


幼稚園でも小学校でも人と違う言動をする子は先生から怒られたりしていたのと一緒で、人と違う子は排除される世界だった。


世の中には、生まれつきの痣のためにいじめを受けたり、人から避けられたりする人がいる。


幸いなことにわたしは、友達に恵まれた。

幼少期から仲の良い友達とは喧嘩こそしたことはあったが、失うことはなかった。


仲良しの友達にハブられたり、仲間外れにされる人も多いなかで、

あざというハンデを背負いながら、

部活に没頭する中で得られた経験の数々は、

色あせることなく私の生きていく軸にもなっている。



生まれつき、顔の半分が青黒い女の子。

お世辞にも可愛いとは言えない。



太田母斑は、一般に知られている疾患だ。

子を持つ母親ならご存知の方も多い。

普段の日常生活を送る上でも特に支障はなく、ごく普通の生活を送ることができる。

ただ肌の色が異常なだけなのだ。

病気というと何かが悪いとか、元気じゃないイメージだが、太田母斑はそういう病の類ではない。



これまでの人生―たった26年だが―

あざ持ちの人と街中で少なからず出会ってきた。

いろんな人がいる。

おじさんやおばさん。

同世代の人。

子供。

赤ちゃん。

治療せずに真っ黒のままの人もいれば、

化粧で隠せるレベルの人、

ブログなどで公開治療している人、

治療するか悩んでいる人、など。


男性か女性かでも悩む部類が変わってくる。

あざでなくても、あなたの悩みはどんなものだろうか。







まぶしく。つよく。


18歳、高校を卒業するとき、私は、早く”大人”になりたかった。


4年間大学生活を送ったところで今の延長線上でしかない。

学生生活=青春=恋という思いもあったので、学校に通うことに価値を生み出せなかったこともあるかもしれない。


とにかく何かを変えたかった。


だけど高卒で働く勇気もなかったから、短大に進むことにした。


短大の2年という長くもあり短い期間。


部活一筋の私が引退して化粧するようになって、

あざ用ファンデーションを使い、必死であざを隠す毎日

色の違いさえ隠せれば“普通”になれる。

当時わたしにとってあざ用ファンデーションは欠かせないものだった。

18歳までのわたしの夢は、片時も変わることはなく、「ふつう」になることだった。

今思えば、ふつうってなんだよと思う。けれど、一般的な女子としてあたりまえの反応、恋愛がしたいといった「ふつうに恋をして、ふつうに仕事して、ふつうに結婚して、家庭に入る」という昔の女性の在り方を生きたかったのかもしれない。それがわたしには叶わないとあきらめていたから。



ある日、ネットを検索していると、見つけた一人のブログ。

むさぼるように読んだ。

太田母斑の治療日記。


その人の症状は、

わたしのように眼球にはあざがなくとも、

わたしより濃くて広い範囲で、しかも両サイドからみてもわかってしまう。



その人は30歳で、結婚していた。






泣いた。






―顔にあざがあっても、受け入れてくれる人がいる―




しかも、その人の治療後の顔が、あざの跡形もなくきれいさっぱりだったのが衝撃だった。



―――このあざ、消えるの?―――



まさに光が差し込んできたようだった。

今まで、自分の未来は暗かった。


どうせ幸せになれない”と何度涙を流したことか。

ずっと悩んできたそれが、“普通”になれるかもしれないなんて。



そもそもあざがあるからって不幸なわけじゃないのにね。

大人になるとわかるけど、子供の時はそれがすべてだったんだ。



太田母斑の治療法というと、

私の幼いころはドライアイスで治療するやり方が主流で

あざのない部分まで肌を傷つけたりするリスクも大きかった。

短大の時、レーザー治療が主流になっていて、肌を必要以上に傷めないことがわかった。痛みも少ない。


学生でお金がなかったから、

親に頭を下げて、費用をだしてもらって、なんとか治療を開始した。







初回のレーザー治療


まぶたにも照射するため、目の中に液体のカバーをいれて、膜を張り、レーザーから眼球を守る、ドキドキだった。
失明したらどうしようとか、治らなかったらどうしようとか、不安だった。


レーザー照射は、バチン、バチン、と輪ゴムで顔面をひたすら叩かれている感覚

これが結構痛い。


ヒトの皮膚の焼けるにおい。
気持ち悪い。くさい。


つらかった。
本当に。


特にまぶたと小鼻あたりが痛い。骨の近くが痛い。

つまり、つらい。(笑)



ひたすら我慢して、終わったら

目のカバーを取り除いて、ゆっくりと目を開ける。

最初は見えないんだよね。

「え、失明した?」って焦るけど、

だんだん慣れてきて、見える。



視界が広がる。


よかった。

と一安心もつかの間で、自分の肌のあられもない姿に驚愕する。

そりゃそうだ。

やけどなんて比じゃないレベルで肌を焼いたのだから。


血みどろの、いろんなものが入り混じった皮膚から流れ出る組織液。
焼けた肌のくささ。麻酔が効いてても効いてなくてもする鈍痛。


紫外線は浴びちゃだめですよって言われた真夏のある日。

顔面半分ガーゼで覆い、駅まで全力ダッシュ。

誰にも見てほしくなかった。


毎日軟膏を塗りながら、耐える。

外に出れないし(外出NGなわけではない)

紫外線対策と半分顔隠して歩くのがめんどくさいし、

メンタル的にきつい。


毎日お風呂の後の鏡を見ることがドキドキである。

少しずつ、少しずつ、通常通りの肌へと戻っていく。


かさぶたができて、自分ではがさずに自然とはがれるのを待って。


1週間で、だいたいかさぶたがきれいにはがれる。



ぶっちゃけ、毎日毎日写真撮って経過観測してたけど、

初回の変化はそこまでなかった



まず肌がピンク色のが出現してきて、

おお!ピンク!ってなって。(笑)

今までの自分の肌に戻っていく。

2週間もすれば元通り。

「気持ち程度?んー。この我慢の末に、こんだけ?」って感じ。


正直、釣り合わないと思った。

時間もお金もかけて、こんなつらいのに、全然変わらん。


最初はそんなもんらしい。あきらめなかった。


肌のターンオーバーの関係で3ヶ月に1度しかレーザーは受けられない。




2回目のレーザー

私の人生が確かに変わった瞬間


初回と同様、痛み含め生活の面でもメンタルケアしながら、

ひたすら肌の経過を待った。

レーザー終わって3週間後。



朝、起きていつもの通り顔を洗う。


顔をあげて鏡を見たとき、一瞬、目を疑った。




―え?、、、、あざが、薄くなってる!!!!!!―


嬉しかった。
純粋に。


今まで、自分の顔が嫌いで嫌いで仕方なかった。

なんでこんな顔で生まれたんだろう。って。

死にたいと思ったこともあった。

つらかった。

いつも強がっていた。


いつしか、だれにも弱みを見せられないガンコちゃんになっていた。


恋愛はしてこなかった。

部活が終わって打ち込めるものもなかった。

自信がほしかった。



”普通”であることに憧れて、やっとここまで来たんだ。




4回のレーザー。約1年半。

就職活動をしながらレーザー照射をしたこともある。

真昼間の外に出たときの、太陽のにおい。大好きだから外出できないときがつらかった。


短大2年目の11月。内定をもらった頃には、

わたしの頬はいわゆる“普通”になっていた

わたしは最初に伝えた通り、左眼球にもあざがある。

青黒い。写輪眼みたいになっている。(他に例えが見つからない)


でも、笑うとあまりわからないから、初対面の人で気づく人は少なくなった。

全力で笑うことで、あざがあることに気づかれない



昔はよく初対面の人に言われた。

「大丈夫ですか?」


私はいたって元気だ。

体調も悪くない。

でも顔が黒かった(暗く見えた?)から、みんな心配した。

それが本当に嫌だった。なにも気にせず接してほしかった。


いちいち「生まれつきなんです」って説明もたくさんしてきたし、うんざりしていた。


たまに「ああ、ちょっと疲れてて・・・」と言ったりしたが、

その質問、やめてくれといつも思ってた。

それがもう、なくなったんだ。





五体満足で、両目が見えて、幸せだなあって感じる。

普段の生活をなんとなく生きてると、

あたりまえのことがあたりまえすぎて何も感じれない


でも、不自由だったり、怪我したり、

そういう時に、

生きてるってだけで、すごいことなんだな~って思う。



障がいをもって生まれた人や、自分では歩けない人、

病院で寝たきりの人生の人だっている。


わたしは、歩けるし、走れるし、なんだって一人で自由にできる。


幸せじゃんって。



「普通でいれること」ってなんてありがたいんだろうって思った。


当時、眼球のレーザー治療は例外で、そもそも目自体にレーザーなんて考えただけでも無理。治療するなんて選択肢はなかった。

目のレーザー治療もできるそうだとどこかできいたが、実際に治療できる病院は日本にはないかもしれない。いずれは医療技術の発達で、目も完治できるようになるかもしれない。



だけど、わたしはこの左目のあざとともに生きている。

あざによるすべてのいままでの記憶を、忘れないためでもあるんだ。

時々、わたしの目に気づいて心配してくれる人がいて、

必ずその時は笑い飛ばす。「昨日寝不足で。疲れてるのかも!」






20年間抱えてきた頬のあざもきれいさっぱり消えたわけじゃない。

左目の涙袋のあたり、目尻の近くは、あざなのか、しみなのかがまだ残っている。

ちなみに、一般的には成人を迎えた後のレーザーは効きにくいそうだ。

いつしか本当に治療したいと思う日が来るかもしれない。その時はまた手術を受けようと思う。



18歳から19歳にかけて一番青春の時代(?)を

レーザー治療で費やしたけど、まったく後悔はない

やってよかった。本当に。





あざがあって、苦しんでいる人、

太田母斑のことならわたしが話し相手になるし。

もちろんそれ以外のあざ持ちや、自分に自信が持てない人。


なにかで悩んでいる人。


何かに挑戦したいけど臆病な人。



あなたのまわりに、相談できる人はいる?


わたしはいなかったよ。

(いや、正確には言えなかっただけ。強がりだからね)



―どうせ私の気持ちは理解できないでしょ―

そう思ってた。


もしかしたら話を聞いてくれる友達がいるかもしれない。
もしかしたら、何か解決策があるかもしれない。

絶対解決するとは言わないけど、一歩でいい。


なんでもいい。


踏み出して。


生きてさえいれば、いろんなことができるんだよ

あきらめないでください。


大自然に囲まれて植物や動物にエネルギーをもらったり、

世界を旅してそこでしか、あなたにしか、得られない経験をしたり、

勉強に励んでみたり、バイトや仕事に明け暮れたり。

スポーツに命かけてたり。趣味に没頭したり。

誰かと恋愛におぼれてみたり。



可能性って0じゃないんだ。



人よりも、あなたは自分の能力が低いと思っているかもしれない。

そんなことはない。

比べるなら昨日の自分と比べて、成長する行動を取ろう。


普段したことなかったこと、やってみたいこと、やってみよう。



退屈な毎日に彩りが生まれるから。


あなたが生きている今日は、他のだれにも歩めないあなただけの今日なんだ。




わたしはこれからもこの目のあざとともに生きていく。

あざ自体はすべて取り除くことはあるかもしれない。

でも、あざが教えてくれたすべてのことに感謝している。


ずっと、わたしはこのあざが私の人生を照らしてくれると思う。


わたしにしか感じられないこと。
わたしにしか伝えられないこと。
わたしだからこそ、体験してきたこと。


わたしは伝え続ける。





誰かに言われた何気ない一言って、

心には、記憶には、すべて残っている。

鮮明に覚えている。


言った側は覚えていないが、言われた側は一生覚えている。




あなたが発する言葉も、誰かを傷つけているかもしれない。

誰かの勇気になっているかもしれない。



よく考えて、目の前にいる人のことを大事にしよう。



言葉も行動も、今やっている言動が未来を創っていく。









▶おわりに


なぜ文章にして、残そうと思ったのか。


私は本を読むのが好きです。

学生時代、図書館でたくさんの本を借り、

社会人になっても漫画や小説、自己啓発、ビジネス書まで

週に1冊、かならず読んでいます。

本は、自分の価値観を壊してくれ、新たな知識をもたらしてくれる。


このnoteの内容がいつしか本になって困っているだれかのもとに届いてくれたら嬉しいな。


最後まで読んでくださったあなたにも、

コンプレックスがあるのでしょうか。

「あざ」は形こそ違え、

誰にでも当てはまることでもあると思います


過去に思い出したくもない黒歴史があるとか、

今現在なにかに苦しんでいる人、

これから起こりうる問題におびえている人、

さまざまいらっしゃると思います。


太田母斑というあざのことをもっとたくさんの方に知ってもらい、

身近にいる太田母斑の人の気持ちに理解が広まること、

「普通」の人の理解があることで救われる人がたくさんいると信じています。


現代は、「普通」ではない人々にとって少しずつ理解ができてきた時代です。


あなたの心のドアさえ開いてしまえば、


少しだけ気を張らずに生きれるのではないでしょうか。


今後もあざの治療についてや、人生のなかで勇気をもらった出来事などを更新していく予定です。

もしよければ「スキ」してもらえると嬉しいです。ひとりでも多くの自信を持ちたい人に届いてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?