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完全には理解できないからこそ ~『他者といる技法』の紹介あるいは要約~

言うまでもないが、本には、いい本とそうでない本がある。たくさん読んでいると少しずつその差が分かってくる。

そして、いい本の中でもとびきりいいものがある。ハッとするというか、あっと言わされるというか。自分の考えに風を通してくれるような本に、たまーに出会う。

今回は、僕が最近読んだそんな一冊を紹介する。

社会学者・奥村隆氏の著『他者といる技法』。「他者といること」をテーマに、社会学の観点から考える一冊だ。”ともにいることの苦しみと希望”という帯の言葉が内容を的確に表している。

最初から最後まで読み応えがある本書だが、今回は最終章に絞って紹介する。第6章『理解の過小・理解の過剰 --- 他者といる技法のために』。この章が一番の読みどころだと思う。

僕なりの言葉でまとめてみる。ただの要約になってるかもしれないが…。


理解について

「理解」とは他者と共存するための技法だ。みんなよく知ってるし、実際にいつも行っている。その理解について、とある社会学者は「間接呈示」と言い表した。要は、自分の解釈によって他者を推測すること。それが理解だと。

ただ、理解は原理的に困難なものだ。考えてみれば分かるが、他者を100パーセント理解することなど不可能。と同時に、それを日々やすやすと行っているようにも思える。


理解の過小、理解の過剰

理解は常に不足しがちである。自分が「理解されない」、もしくは相手を「理解できない」苦しみを感じる。だから、もっと理解されたい、理解したいと望む。しかし、そういった考えは理解の一側面でしかない。

ひとつ想像してみよう。自分が完全に他者を理解できるとしたら?たちどころに恐ろしいと感じるだろう。何も隠すことができないし、相手の心が全て見えてしまう。そこには自由も私も存在し得ないことになる。つまり、完全な理解は苦しい

なのに、私たちは完全な理解を求めがちではないだろうか。皆、理解の素晴らしさ(理解が過小な状態)はよく知っているが、理解の苦しさ(理解が過剰な状態)には鈍感だ。いつ何時も、もっと分からないと…と思ってしまう。そうして理解の過剰による苦しみを増やしている。

私たちは、原理的に理解の過小の状態にいる。だけど、完全な理解を目標にしてしまい、それに比べて現実は理解が足りないと嘆いている。そりゃ完全な理解と比べたら、理解はいつも過小になる。

大事なのは、理解にはふたつの異なる基準があることを知ること。それは「完全な理解」と「適切な理解」だ。両者は全くことなるものだが、人はときに「完全な理解」が「適切な理解」だと取り違えてしまう


理解とは異なる技法

前述したように、他者には常に理解できない領域がある。そこで必要となるのは、理解とは異なる技法。すなわち、わかりあえないけど、一緒にいる技法だ。

具体的にそれがどんなものかは、これから探していくしかない。けど、あえて言うなら、他者はわからないという想定を出発点として、他者といることを模索すること。



「完全には理解できないからこそ、他者と共にいきていける」。僕自身、完全な理解を求めていたので(ほとんど無意識に)この内容にはハッとさせられた。

誰かといることは希望を生むこともあるが、同時に苦しみも生む。それらは相反するもののようにみえて、強固に結びついている。甘い部分だけを享受することなんてことはできない。他者といることの苦しみを抱かなきゃならない。

その際、「完全に分かり合えなくてもいい」と両者が思うことができれば、コミュニケーションはすこし前進するだろう。


名著です。

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