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大学3年、燃え尽き症候群

大学3回生(関西では大学の学年のことを回生と表現する)の頃、春学期の単位を必修除いてほぼ落とすという失態をやらかした。
原因は、何だろう、生来のサボり癖が顔を出したのかもしれないし、2年間続けたサークルを辞めたことによるある種の喪失感のせいかもしれない。何にせよ、あの当時、私は燃え尽きていた。

ちなみにサボり癖についてはこちら。


9時から始まる1限の授業に出ないのは当たり前。2限も寝過ごして出ないことが多かった。午後1番の3限の授業は、もはや気が向けば行く程度のものになっていた。夕方遅くからある5限や6限などもってのほか。
学期が始まって1ヶ月程度したら履修中止を申請できる期間があるのだが、それさえも面倒でしなかった。評価に出席が影響しない授業(期末レポート100%だったり、一発試験だったり)は、ワンチャンあるっしょと楽観視してさえいた。ちなみに履中しなかったせいでGPAは大いに下がった。

未来の自分に期待しすぎである。
でも、諦めたくなかったのだ。朝起きるのはだるいしごはん食べるのも面倒だしお風呂に入るのもしんどかった。今思えば、あれは抑うつ状態のようなものだったんじゃなかろうか。まあそれはさておいて。
しんどい中でも、単位は取らなきゃと思っていた。でも、新学期に、自分の興味のある授業を楽しみながら吟味して選択したはずなのに、何故か出席することができなかった。原因は今でも分からない。
周りからはどうしちゃったの、とかもはやレアキャラじゃん、とかよく言われた。そんなの私が聞きたかった。どうしちゃったの、私。

そんな私に寄り添ってくれたのは、生協の食堂。あと大学の隣にあるでかい庭。よくそこでたそがれていた。あとポケモンGOやった。
自炊さえ面倒だったあの頃は、昼も夜も食堂で食べることが多かった。安くて美味しい。たまにある日本各地のグルメフェアが楽しみだった。キャンパス限定のオムライスや、夜限定メニューの雑炊など、ちょっとした特別感を味わえるところも好きだった。
授業にも出ないのに大学に来て、友達と食事をして、食堂の閉店時間まで居座って。あの頃はあの頃で、しんどくても幸せな時間があった。食堂さん本当にありがとう。次に京都に行ったらまた食べに行くね。

ところで、講義ノート屋というものをご存知だろうか。
キャンパスとキャンパスを結ぶ細い路地に点々とある怪しい小さなお店。その実態は、特定の講義の内容を記述してあるノートを売る店だ。学生をバイトとして雇って、一学期15回分のノートを提供させ、売り上げによってはインセンティブを与えるのだ。そして私のような学生がその講義ノートを求めて店を訪れるのである。よくできた仕組みだ。
学期が始まる頃にはバイトが募集される講義の一覧を、試験期間前には講義ノートの販売表をよく見ていた。取った授業が被らなかったり、試験前日が定休日に当たったりして、結局ノートを買う側にも書く側にもなることはなかったが。
そんなわけで講義ノートにまで手を出そうとしてもうまくいかなかった私は、当然レポート作成や試験勉強に対してのやる気が突然湧いてくるわけでもなく。無事(?)ほとんどの科目を落とした。まあ20単位くらい大したことないでしょ、と思っていたのだが、この20単位はされど20単位だった。
燃え尽き症候群は小康状態を保ちながらも私の中に居座り続け、単位が足りないという事態は4回生の秋学期まで続いた。正直言って、就活にも支障が出た。4回の秋はもう興味じゃなくて単位取得率が高いものを選んで取っていた。試験期間を終えてからも、卒業できるかな?かな?と卒業予定者一覧が貼り出されるまで気が気じゃなかった。結果、無事4年間で卒業できたわけだが、本当にギリギリだった。大学生のみんな、単位は取れる時に取れるだけ取っておこうね!

さて、大学時代の燃え尽き期間を振り返ったわけだが、見事にもんどりを打っている。
もんどりを打つという表現は、好きな作家の森見登美彦氏から拝借した。
京都を舞台にした森見氏の作品はどれも素敵で京都の街を歩きたくなるが、特に新釈走れメロスは学生たちの荒唐無稽な生き様をコミカルに描いていて、自分の学生時代と重なる部分が多々あった。学生時代に読んでいたら、どんな気持ちだったのだろう。きっと今とはまた違ったことを感じて、聖地巡りなどしたかもしれない。
何はともあれ、もんどり打ってはいたけれどとてもとても楽しい大学生活だったと、改めて思った。


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