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閑話休題(9)―私の黒歴史

久しぶりの閑話休題です。今回の閑話休題は少し毛色を変えて、「私の黒歴史」について。

30代、40代以降の皆さんなら分かるかもしれませんが、人は誰でも、他人には知られたくない黒歴史というものを持っているものです。かくいう私もその一人。今回は私の今から思い出しても恥ずかしい「黒歴史」について語ってみたいと思います。

最初に前置きしておきますが、突っ込みどころが満載です。「なにやってるんだお前」と思われるかもしれませんが、「何も知らない若造の、若気の至り」だということで、お許しください。法律違反すれすれの表現も出てきます。何ぶん「遠い昔のこと」としてお聞きください。

◇◇

中国に留学していた●十年前の2月、私は広東語の学習のため、深センの大学から広州の大学に引っ越してきました。広州の大学に移った後、これを機会に「雲南に旅行に行こうかな」ということで、雲南省への一人旅を決め、広州発昆明行きの特急列車に乗りました。

当時は当然ながら高速列車などなかった時代。昆明まで2泊3日の旅だったわけですが、私が乗った軟臥のコンパートメントに台湾人のおっさん2人が乗り込んできました。

同じコンパートメントに全く見知らぬ人と一緒になるというのは、当時の中国の列車の旅ではよくあるケースで、すぐに彼らとも意気投合してお話をするようになりました。

聞くと台湾人の1人は昆明で商売をやっている人、もう一人は台湾で「●●時報」の記者をやっていた人で、退職して昆明に遊びに来たということで、彼ら2人も旅の中でたまたま一緒になったとのことでした。

2晩3日同室ですから、自然と距離は縮まります。彼らからは日本のいろんなことを聞かれました。また、政治好きな台湾人ですから、台湾の政治、日本の政治、両岸の政治も語りました。元記者の人は中国文学に精通している人で、「君の名前の文字を入れて、对联を作ってあげるよ」と言われて、即興で对联を作ってもらったりしました。

そうこうしているうちに、列車は昆明につきました。昆明に到着した後も、「一緒に観光をしよう」ということで3人で観光をしたりしました。その夜ホテルの部屋で、元記者の人がこう切り出しました。

「今台湾で塾を開く準備をしているんだ。そこで日本語を教えられる人を探しているんだよね。君も来るかい?」

中国での留学生活も最終年の2年目に入ろうとしていた当時。私自身も「留学が終わったらどうしようかなぁ。日本で就職するか、中国で仕事を見つけるか」と漠然と思っていたところでした。日本語教師になりたいとも思っていましたし、「台湾で観光もできるし、日本語教師の経験も積めるし、バイトもできるし一石三鳥じゃん!!」と舞い上がり、「やりたいです!」と答えました。

そんな話で盛り上がる一方、昆明でビジネスをやっているというもう一人の台湾の人は冷静で、元記者の彼がいないときに私にこうささやきました。

「君はまだ社会経験が浅い。もっとしっかりとした仕事を見つけるべきだよ」

ビジネスマンの彼のそのアドバイスには「そうですね」と二つ返事をしました。

そうこうしているうちに、台湾人の2人とは昆明でお別れ。元記者の彼は「じゃあ、まっているよ」という言葉と台湾の連絡先を残して去りました。

そのあと私は雲南での旅行を終え、広州の大学に戻りました。広州での留学生活については以前の「閑話休題」の記事を見ていただければと思います。

広州の留学生活では後に私の妻となる彼女との出会いもあり、一言で言えば「順風満帆」でした。留学生活も終わりに近づき、就職活動も考えなければならなかったのですが、どこか「台湾にいけばいいや」という甘い考えがあったような気がします。

そうこうしているうちに7月になりました。自分の手持ちの資金を見てみると、日本に帰る航空券を買えるお金はあるものの、台湾にわたるお金は往復あるかどうか。でも「まあいいや。台湾で稼げればいいし」と楽観的な考えで、荷物を中国に残したまま、香港経由で台湾に渡航しました。

◇◇

元記者の彼の指示で、私は7月中旬の某日に台湾の高雄空港に降り立ちました。前回旅行していたときと同じように気さくな雰囲気で、空港で出迎えた彼は私をワゴン車に乗せて、屏東県の某鎮(あえて伏せさせてください)にある彼の自宅へと向かいました。

彼の自宅は彼の学習塾の教室の隣にありました。彼は「まだ塾は開講したばかりなんだ。これから生徒は増えていくから」と説明しました。

普通ならここまで聞いて、「あれ?」と思うんでしょうが、社会経験の浅い私は「ああそうなのね」と何の考えもなく受け入れていたのでした。こうして、私は彼の自宅兼塾に居候する生活を始めました。

それから数日、元記者の彼は、私を連れて高雄の夜市にいったり、海につれていたりして台湾観光に連れて行ってくれました。

そんなある日、私は彼に「日本語はいつ教えるの?」と聞きました。そうすると彼から驚きの言葉が。

「生徒はまだいないから、君が生徒を集めてきなさい。そうだな。。中国語は一切話さないこと。日本語のみで語り掛けて、日本語に興味がある人がいたら、連れてきて」

要するに日本語教室などできてもいなかった状態だったのです。その日から某鎮中を自転車で駆け巡り、見知らぬ人にかたっぱしから日本語で話しかける毎日が始まりました。

でも当然ながら営業トークも、営業経験も全くないいわゆる「変な日本人」である私に、日本語を教わりたいなんて人など出てくるわけがありません。

その間、親からも心配する電話がかかってきていました。また、中国の彼女(のちの私の妻)も心配しているということで定期的に電話をかけたりもしました。やはりみな心配している様子。生徒になってくれる人は1人も現れず、時間だけが無駄に過ぎ、お金もたまらない毎日が続きました。

そんな私でしたが町では、「日本人なんているがはずがない某鎮に変な日本人がいる」ということで、ちょっとした噂になっていたようです。しかも狭い某鎮ですから、同じような人に何回も会うというケースはあり、わざわざ町を歩いている私を見に来てくれた人がいたりもしました。

そんな中で、日本人の私に興味を持ってくれている高校生の女の子がいました。なんでも日本に興味があるということ。

当時台湾で流行っていた珍珠奶茶を飲みながら、その女の子を含む2,3人の子たちといろいろお話をしましたし、自分の境遇もお話しをしました。そうするとその子は、「それ、絶対騙されているんだよ。だめだよそれ。日本に帰った方がいい」と強く言われました。

その時おりしも前日、親からの3回目の電話で親からも強く「帰りなさい」と言われていました。

でも数週間の滞在で既に香港に帰るお金は無くなっており、留まって日本語を教えるバイトができるまで、今の生活を続けるしかありませんでした。その旨伝えると、「お母さんに何とかできるか聞いてみる」とその子は答えました。

後日その女の子は、元記者の彼が不在の時、私が滞在している塾にやってきました。話を聞いたところ、お母さんも「それは大変ね!!」と驚き、「かわいそうだから、香港までの航空券代出してあげるから、帰りなさい」と話したと言います。

さらに、「お金は、次回台湾に遊びに来てくれた時に返してくれればいいから」とのことでした。私はその彼女のお母さんに感謝するとともに、台湾の人達の思いやりをひしひしと感じたのでした。

その日のうちに彼女と台湾を去る日を決めました。また、彼女と彼女の家族の全面的なバックアップの下で空港まで行くということで作戦を綿密に練りました。

打ち合わせをして去る際、高校生の彼女は私に「これあげる」と何かを渡しました。見ると「周华健」の「爱相随」アルバムのカセットでした。彼女は笑顔を見せながら、「『周华健』の歌、好きって言っていたので。今日は台湾の七夕なんです」と私に教えてくれました。

◇◇

決行の日。元記者の彼が寝静まっている中、私は気づかれないようにスーツケースを推して外に出ました。外には女子高生の彼女と、お母さんがいました。すぐに車に乗り、彼女の家に行きました。

その後の記憶はあまり残っていないのですが、彼女の両親は時計屋を営んでいて、飛行機のフライトまでまだ時間があるということで、時計屋の店内で待っていた記憶があります。待っているとき、家族の人が取り出したのは「日本に関係があるビデオ」ということでなぜか「火垂るの墓」。「火垂るの墓」をみんなで一緒に見ました。

その後、家族が運転する車で高雄空港に行き、香港行きのフライトに乗り込み、無事台湾を脱出したのでした。

◇◇

あの時航空券代を貸してくれた彼女のご両親、そして彼女には感謝しかありません。数年後に台湾を訪問したのですが、仕事の出張で台北や台中に行けたぐらいで、その後は台湾(南部)には行けていません。いつか、航空券代を返しに某鎮を訪問したいと思っています。

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