不可解なる宣告

13年ほど勤めあげた会社の役員共は、役に立たない阿呆の集団だったようだ。入社してからほとんど毎日のように出勤し、精一杯に働き、身を粉にして貢献してきた。誰よりも、とまでは言わないが、それでも十分すぎるぐらいの功労といえるだろう。そのおれに向かって、なんだ、奴らはこともあろうに精神病院へ行けとほざいたのだ。精神病院など、正気を失った狂人か、生気を失った廃人どもの巣窟ではないか、とどのつまり、奴らはおれのことを異常者だといっているのだ。ああ、腹が立つ。全くもって許しがたい、これは信頼に対する重大な裏切りである。友情や絆というものがこの世の全てなど浮ついたことは言わないが、人間として最低限守るべきラインというものがあるだろうに。それを全く無視して、ひょっとして人の心というものを持たないのではないか、ええ、それで人の上に立つ器といえるのかね。ああ嘆かわしい、怒りよりもむしろ同情の念すら湧き上がる程だ。ええ、それになんだ、あの不遜な態度は、人にものを伝えるときに何かを包み隠すような不穏な雰囲気。ああ、そう、この宣告は昨日の昼休憩に、急に専務に社長室へと呼び出されて、皆に聞こえぬような形でひっそりと与えられた。今に思えばそれもまた妙な所である、おれに向かって病院へ行けと命ずる、このことがなぜ周りの同僚たちに対して内密にされなければならないのか。もしや、上役は何か別の意図でも持っているのではないかね。思い返せば、朝から社長の様子もおかしかった、どこかはらはらとしたような様子で落ち着きがなく、何度か眉間に深くしわを寄せていたのを覚えている。

そうこう、今朝の忌々しい出来事へ思索を巡らしていると、ようやっと看護婦がおれの名前を呼んだ。まあこうなってはもう仕方のないことだ、とにかくいまは、どうにかおれが正常であることを奴らに知らしめねばなるまい。医者が正常だと診断すれば、おれは無罪放免、何事もない平穏な生活へと戻ることができるのだ。その為には医者の言うことにひるんではいけない、むしろ堂々と、おれの正当性を宣言し医療機関のお墨付きを頂いて颯爽と帰ってやるのだ。さあどこからでもかかってくるがいい、おれは完全無欠だ。決してなめられぬように、胸を張り、むんむんと殺気を放って勢いよくドアを開ける。するとなんだ、そこには眼鏡のヒョロヒョロが白衣を着こんで、ちょこんと椅子に座っているばかりだ。予想しえなかったこの展開におれは思わず閉口して、すっかり拍子抜けしてしまった。おい、どうしたんだ医者はどこだ、おれは一刻もはやく担当医に向かっておのれが正常性をプレゼンテーションしなければならんのだが、これは一体全体、どうなっているのだ。しばらく世話にはなっていなかったが、最近の病院は、こんな妙なことが起こるものなのか?んん、白衣のヒョロヒョロがなにか口を開いたぞ、なんだって?こいつが医者だと?ふざけているのか、医者というのはもっとしわがあってひげがあって、そこに知識と経験を蓄えた荘厳な男のことを指すのだ、だからこいつが医者であるはずがないだろう。ああ、そうか今理解した、どおりで役員共の様子がおかしかったわけだ。つまりこのヒョロヒョロはヤブ医者で、おそらく役員共と結託して私を嵌めようとしているのだろう。いいやそうに違いない、おおかた、会社はなにか勝手な不都合でおれを辞めさせたいといったところなのだ。しかし、日ごろのまじめさゆえにどうにもその算段が付かないから、いっそ異常者に仕立て上げて切り捨ててやればいい、そういう作戦なのだろう。ああ、やられた、ハナからおれが何を語ったところで無意味だったのだ。このヤブ医者はなんと言おうとも無理くり病名を付けて、実際に病人にしてしまう悪魔の医者だった。おれはいまから役員どもの悪意によって、いやおうなしに異常者の烙印を押されてしまうのだ。くそう、どこまでも性根の腐った連中だ、奴らに正義や良心といった人間臭い部分は望むべくもないらしい。

あのヒョロヒョロのヤブ医者はなんだなんだと長々質問をした挙句、やはりおれの予想通りに最後、不可解な病名を付けやがった。なんでも、パラノイアとかいって、特定の物事に対して妄想に取りつかれたようになる病気だという。なにを馬鹿をいうのか、おれの思考はいつも的確に現実を見据えているというのに。あの役員の馬鹿どもとは違って人には誠実に接するし、人を貶めるような愚行は絶対にしてこなかった。それに、そんなあやふやな定義なら、人間とはみながパラノイアだといえてしまうだろう。誰もが妄執に苛まれ、盲信し、そして妄言を吐くではないか。それなのにやつらは、あろうことかおれだけを異常な存在だといって、そうして社会からいいように爪はじきにしようとしているのだ。なんだ、おれがもしもそのパラノイアというやつだったとして、お前の方はどうなのだ、だいいち社会というのも妄想の産物ではないか、それを手に取ってみせた人間は今までに一人だっていないだろうに、頭の中だけに存在する空想世界に他ならない。そうだ、むしろそんな空想にふけってばかりの大衆こそがいかれている。そもそもおれは全くもって不思議でならない、奴らの張る正常、異常というレッテルはなんなのだ、それになんの価値があって、それはいったい何者が作った指標なのだ。異常者の烙印を押すこととはつまり、誰だか知らぬ輩が勝手に旗を立てて、「ここはおれの領地だ」とほざいているようなものではないか、じつにばからしい。

そうしてヤブ病院からの帰途、どうにも腹の虫がおさまらない、盛大な裏切りを受けたのだからそれは仕方のないことなのだが。それにもましてこの道中にはあの、忌まわしきオフィスが構えているのだ。考えるだけで虫唾が走るというのに、そのうちあれが嫌が応にも目に飛び込んでくる、そう思うといっとうに気分が悪くなる。ああいよいよ眩暈がしてきたぞ、どこかで一度休憩を取ろう、ああ、ちょうど燃料も残りが少ないようだ。そこのガソリンスタンドなんかがいいだろう。なんて考えていると、ふと、天啓ともいえるアイデアが下りてきたんだ。ははは、これはいい、おれながらに最高の考えではないか。実に愉快なその思いつきにより、瞬間おれの心は晴れ渡って、ついついこう口走ってしまう。

「ここに宣告しよう、これは天誅だ、ざまぁみやがれ」



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