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ソ連のスポーツ 第1章

(参考画像?ないんだな、それが!)

 そもそも、ボリシェヴィキはスポーツ、というより「体育」に執心であった。1917年の革命よりも以前から、労働者の間で体育クラブを組織し、これを通じてイデオロギーの浸透にも役立てようとした。なにより体育は、新しい社会体制のもとで「新しい人間」を形成する大事な要素とされていたのである。
 こういった経緯もあり、ソ連初期の体育・スポーツは、とにかく軍事色、総動員色が強い。

ГТО

 1932年に創設された「GTO」(ГТО, Готов к Труду и Обороне)は、ソ連の代表的な体力検定制度である。「労働と国防に備えあり」を意味し、文字通り、軍事訓練であり、労働に適合することであった。GTOにも各種ランクがあるが、ランニング、水泳、ダンベル上げ、重量物運搬などの他、手榴弾投げ、ガスマスクを装着してのランニング、応急処置といった項目もあった。

 赤の広場のパレード
 祭典とパレードは、新国家と、新しい社会共同体、その構成員たる新しい国民を誇示する絶好の舞台である。革命から2年経た1919年には早くも、赤の広場で「体育パレード」が行われた。当初は各種記念日などに合わせて実施されていたが、30年代には毎年行われるようになり、開催地もモスクワとレニングラードのみだったのが、次第にソ連邦の各共和国の首都でも開催されるようになった。

 体育パレードのメインは行進とマスゲームで、その演出には当代一流の演出家や舞踏家が携わり、その中には巨匠イーゴリ・モイセーエフの名もある。

 1954年を最後に、独立した行事としての体育パレードは行われなくなり、その後は他の記念行事の一環になっていく。

 体育パレードの主目的は「健康的な生活」と「国防」であり、後者の軍事色も全く隠される事なく、運動とスポーツに邁進して国防の礎となる事が標語に謳われていた。

動画はこちら:
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%9F%D0%B0%D1%80%D0%B0%D0%B4+%D0%A4%D0%B8%D0%B7%D0%BA%D1%83%D0%BB%D1%8C%D1%82%D1%83%D1%80%D0%BD%D0%B8%D0%BA%D0%BE%D0%B2

オリンピックに参加

 第二次世界大戦後、ソ連のスポーツはようやく国際社会に進出するようになる。かつて、ロシア帝国としてオリンピック大会に参加していたが、ソ連としては1951年になってようやく国際オリンピック委員会に加盟し、1952年夏季(ヘルシンキ)、1956年冬季(コルチナ・ダンペッツオ)に、それぞれ初めて五輪に参加した。いずれの大会でもソ連代表は好成績をおさめ、「アメリカとのメダル競争」も意識されるようになっていく。

君、どこ住み?

 初参加となった1952年の五輪は、資本主義国の中では比較的ソ連と良好な関係にあったフィンランドで開催されたが、時代は冷戦真っただ中である。ソ連側は相当神経質だったようで、資本主義国の選手団と社会主義国の選手団を分けて居住させるよう要求。結局、選手村は2つ作られたが、それでもなお、ソ連は国内に独自の選手村を設置。ソ連選手団の多くはソ連国内の「選手村」で居住・トレーニングを行い、競技の際はヘルシンキに移動して数日滞在し、またソ連に戻るということを繰り返した。地理的な近さが、ソ連には幸いしたと言える。

 なお、同じ1952年冬季のオスロ五輪にソ連が参加しなかった理由としては、ノルウェーがNATO加盟国であること(フィンランドは非加盟)、ソ連領から遠く選手団の管理に難があること、充分にメダルが獲れるだけの準備ができていなかった事などが挙げられている。

 選手団の居住地問題は1956年の夏季メルボルン五輪でも尾を引いた。そもそも選手団を派遣するか否かがまず争点となり、派遣が決定した後も、選手の居住地の選考が難航した。当時は空路がまだ未整備だったため、選手団はウラジオストク経由で客船「グルジア号」に乗ってメルボルン入りする予定だった。このグルジア号に選手を居住させる案が最後まで検討されていたが、さすがに無茶ということで、最終的には選手村に居住させる事に落ち着く。

チェス

 え?と思われるかもしれないが、チェスは「頭脳スポーツ」として広く認知されているので、本項で紹介する。もちろん、ページを埋めるためでもある。

 古くからチェスはロシアの王侯貴族の嗜みであったが、ソ連期にはチェスの普及は国策にも支えられて競技人口を増やし、数多くの名プレーヤーを輩出した。頭脳スポーツで世界に冠することは、ソ連の体制の宣伝でもあった。

 1948年にミハイル・ボトヴィンニクが世界チャンピオンになると、以降はソ連全盛時代。チャンピオンの座はほぼソ連・ロシアのプレーヤーが独占する。また、女子チェス選手権でもソ連選手が栄冠を独占。特に、1962年から1991年までノナ・ガプリンダシュヴィリとマイヤ・チブルダニッゼの2人のグルジア人女性が君臨し、女子チェス界は長い「グルジア時代」となる。

 チェスの世界タイトルを独占していたことはソ連の名誉とされていた為、1972年にアメリカのボビー・フィッシャーが世界チャンピオンになった事はソ連に少なからぬショックをもたらした。1978には、世界チャンピオンにして「愛国者」のアナトリー・カルポフvs亡命者即ち「裏切者」のヴィクトル・コルチノイの対戦が大きな注目を集め、激闘の末にカルポフが勝利すると、ソ連のニュースはこれを大々的に報じた。
 1985年、ガルリ・カスパロフがカルポフを破って史上最年少の22歳で世界チャンピオンに輝き、ソ連崩壊後も続いた一時代を築く。

 次回は、市民が親しんだスポーツなども紹介していく予定。気長に待って頂きたい。

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