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[中編小説] 寄生獣

とりあえず自分が長編小説を書けるかテストしてみた作品。結果は73,025文字。誤字脱字のチェックすら一切していないのでご容赦。
(しかし習作作品にしても、「寄生獣」以上のタイトルが思い浮かばない…)
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増えた花嫁
.一月四日
..1

 午後三時を過ぎた頃に、声をかけられた。
「森さん、一時間ほどお時間だいじょうぶでしょうか?」
「うん、いいよ」
「ありがとうございます。それでは今からだと急だから、四時からーー」
「今すぐでも大丈夫だよ」
 僕は即答した。
「助かります! それじゃすぐに会議室を予約します!」
 判断が速い。相変わらずの見事さに、思わず感心してしまう。
 ちなみに声をかけた来た女性は水越麻里さんで、四歳児と二歳児の母親だ。『助かる』というのは、おそらく子供のお迎えが楽になるという意味だろう。
 そういう僕は、森卓也という。二人とも中堅電機メーカーの企画部門に所属している。真性の〈オッサン〉である。そして今日は一月四日で、一年の仕事始めの日だった。
 僕は本部内の業務環境の整備を仰せつかっている関係で、仕事始めの日を休むことは好ましくない。長期の休みが続くと、連休中にパスワードの有効期限が切れてしまったとか、ウィルス対策がアップデートされていない状態で詐欺メールのURLを踏んでしまったとか、ともかくトラブルが起こりがちだ。
 隣の部署は情報システム部だけれども、そちらもアレコレとトラブル相談が舞い込んで大変だったらしい。最近はメールのヘッダー情報を解析できないような者も増えており、その分だけ僕たちに負担がかかるようになっているという寸法だ。『一年の計は元旦にあり』と言われるけれども、僕としては『一年で最も大変なのは初仕事日にあり』と言いたい。
 そんなことを考えているうちに、準備ができたようだ。
「森さん、第三会議室を確保しました。五分後くらいで良いでしょうか」
「全然オッケーです。手洗いに寄ってから、会議室へ行くようにします」
 そう言うと、僕はイスから立ち上がって、事務室から廊下へと出た。

 会議室にいるのは、水越さんと僕の二人だけだった。予想通りである。
「すいません、初日からお忙しいところを」
「いや、もう一段落したから、大丈夫ですよ」
 そう言うと僕は、来る途中で煎れたコーヒーを手に取った。いやコーヒーという液体を手に持つことは出来ないから、正確にはコーヒーカップを手に取ったという状態だ。
 そのまま黙って、彼女の出方を待つ。
 即断即決する子だと思っていたけれども、僕の認識が間違っていたらしい。なにやら頭の中を整理しているようだ。
 こういう時は、じっと待つに限る。下手にあせらない方がよい。
 そして一分くらい経過した頃だろうか。
「実は……」
 と、彼女にしては珍しく、ゆっくりと話し始めた。
「江島さんと連絡が取れないんです。予定表には記入がないし、緊急連絡先で登録されている番号に電話をかけても、留守録になるだけなんです。森さん、どうしたら良いか分かりますか?」
「うーん……」
 江島さんとは、江島はるなさんのことだ。入社二年目で、水越さんが上司となる。
 と、いっても彼女が上司となったのは最近のことで、今までは川島さんが上司だった。議事録の書き方から指導する必要があると嘆いていた。川島さんは営業職から社内転職したばかりで、『工場の議事録』というものに慣れていない。そもそも本人の希望によって社内転職したけれども、あまり理詰めな仕事が得意ではない。やむを得ないことだった。
 しかし今回は、厳しくいうと『無断欠勤』に該当してしまう。若い頃に無断欠勤した同僚は、寮へ連絡して確認したら、血を吐いて倒れていた。廊下を歩いている最中に、いきなり血を吐いたヤツもいる。一人暮らしで連絡が取れない場合、用心するに越したことはない。普通ならば、とっくに上司の上司――つまり課長に報告しても悪くない状況だったりする。
 しかし彼女の場合は……。
 実は水越さんと僕だけが知っているのだけれども、めでたいことに、彼女には彼氏ができた。半年前にはマッチングアプリで彼氏捜しをしていたので、確実だろう。シャーロック・ホームズにご登場願うまでもない。
 いや待て。彼氏がいたとしても、『乗り換え目当て』でマッチングアプリを使っていた可能性は否定できないか……
 ともかく、現時点で彼女が一人でいない可能性も考慮する必要があるということだ。いたずらに騒ぎ立てると、本人と上司たちの評価が下がる。つまり……なかなか微妙な判断を要求されるという訳だ。
 うーむ……悩ましい。
 ちなみに彼女と最後に会ったのは、おそらく僕だ。その時の彼女は、いつもより濃い目のアイシャドウをしていた。服装もオシャレだった。女性がデートする時の標準装備といっても良い。
 さてはてどうしたものか……。
「うーん……、上司に断りなく、予定表にも記入がないのであれば、課長に報告するしかないかなあ。最後の出社日には休みを取ることを考えているというくらいにして――」
「そうですね」
 水越さんは、浮かぬ顔でうなずいた。
「仕方なさそうだね」
「ですね。人事部から実家連絡先が知らされて、そちらへ連絡……すると、実家にご心配をおかけすることになりますね」
「そこは水越さんならば、ご両親を心配させずに確認することができると思うよ。これを機会に彼氏の存在がばれてしまったら、まあ止むを得ないということで」
「やっぱりそうなるかな……。ありがとうございました。あとは自分で考えることにします!」
 僕は黙ってうなずいた。
 ここら変が彼女の偉いところで、最終判断はちゃんと自分でやる。しかしこの時の僕らは、『念のための確認』が予想外の方向へ突き進むとは、全く予想していなかった。

..2

「森さん、妙な雲行きになりましたよ」
 水越さんから再び江島さんのことを聞いたのは、翌日の夕方近い頃だった。彼女向けの急な仕事は僕が代行することになっているので、念のために状況説明を受けたというのに近いのかもしれない。
 子育てしながら仕事をするのは、大変なのだ。
「昨日も今日も、実家のご両親とさえも連絡が取れなかったそうです」
「あらら」
 小学生時代に読んだ本には、名探偵荒馬荘介という登場人物がいたように記憶している。それがなぜか、唐突に脳裏に浮かんできた。
 このまま華麗にスルー……できないな。
 ちなみに今年の一月四日は木曜日で、一月五日は金曜日だ。今日まで休んで、週明けの月曜日を仕事始めとする者も多い。たとえば社長も月曜日から仕事を始める予定になっている。どうして僕ごとき下っ端が知っているのかは謎かもしれないけれども、それは内緒だ。
 それはともかく、家族揃って仲良く旅行というのも、可能性としてはゼロではない。だから警察に届け出るには、あまりに時期尚早だ。
 と、なると、残された手は一つになる。
「帰りがけに、彼女の家に立ち寄って行くことにするよ」

 そんな訳で午後六時十分頃、僕は彼女の家に到着した。
 まさに『家』だ。
 なぜなら彼女は、おしゃれなワンルームマンションに住んでいた。たぶん僕の住んでいるマンションと同じくらいの広さ……いや、それはこの際、どーでも良い。
 問題はオートロック式のマンションであり、残念ながら部屋まで行くことはできないということだ。もちろんインターホンで呼び出してみたけれども、返事はなかった。管理人室は暗くなっており、そちらに何かを尋ねることもできなかった。
 そうなると、やることは一つだ。
 オシャレなマンションの、オシャレなエントランスの脇にある、目立たない通路へ入っていく。すぐに通路は突き当たりになり、お目当てのものが見つかった。
 郵便ポストだ。
 めざすは303号室……、ふむ……。どうやら長期間留守にしているらしい。けっこうな郵便物が溜まっている。
 今日できることは、ここまでかな。
 僕はマンションから出て少し距離を取ると、道路の脇に立って、水越さんに報告メッセージを送った。
 そして駅へ向かって歩き始めた。

 いよいよ会社として悩ましい事態となったのは、三連休が明けた一月九日のことだった。
 江島さんは職場に姿を現さなかった。もちろん在宅勤務で自宅からリモートログインしている訳でもない。
 今はリモート勤務環境が整備されたので、自宅からログインしているかどうかは一目で分かるようになっている。もちろん僕も例外ではなく、しばらくパソコンを操作しないと、操作してしていないことまで一目で分かるようになっている。世知辛い時代になったものだ。
 ……いや、そんなことを語っている場合ではなかった。
 驚いたことに、相変わらず実家とも連絡が取れなかったのだ。
 これって、もしかすると……、ひょっとすると……、世間的にいう『失踪』というヤツだろうか。
 僕も水越さんから相談されていたことは部長も知っていたので、正式に勤務時間中に自宅マンションへと派遣された。
「あ、303号室の江島さんですか……」
 社員証を見せて郵便ポストを確認させて貰ったけれども、先日よりも溜まった郵便物が増えているだけだった。案内されて部屋の前まで行ったけれども、室内に人のいる気配は感じられなかった。目を凝らして見ると……。
 ドアの把手にホコリが溜まりつつある……。
「ありがとうございます。助かりました。この感じだと、ご実家の方にいるみたいですね。そちらへ連絡してみることにします」
「そうですか。お役に立てて何よりです」
 管理人さんに余計な心配をさせないよう、実家とは連絡が取れていないことを口にせず、僕はマンションを出た。そしてすぐに前回と同じ道路脇に立ち止まり、会社へ電話をかけた。
「あ、部長。五分ほどお時間を頂戴して宜しいでしょうか」
「はい、大丈夫です。何か分かりましたか?」
「自宅には長期間に渡って戻っていないことが分かりました。把手にホコリが溜まっていました」
「そうですか……、ありがとうございました」
「警察には人事部門から届け出ることになることになるんでしょうかね?」
 部長はそこまで考えていなかったらしい。素直に感謝されてしまった。
「ありがとうございます。さっそく人事へ連絡を取ることにします」
「それでは私は、ここでお役御免ということで」
「おつかれさまでした」
「部長こそ、おつかれさまです」
 そういうと僕は電話を切った。
 そして会社には向かわず、皆には知らせず、彼女の実家へと向かったのだった。

 彼女の実家は、埼玉県のはずれにあった。
 神奈川県の横浜市に僕たちの職場はあって、彼女は隣の川崎市に住んでいた。
 そこから実家に至る道は、電車にして二時間ほど必要とした。
 もちろん会社としては、わざわざ自宅訪問する必要性はない。悲しいことに、電車賃は自己負担である。ただしリモート勤務制度が整っているおかげで、さも自宅に戻って仕事をしている『フリ』ができるのは、大変にありがたいことだった。
 実家の最寄り駅から実家までは、徒歩で二十分ほど必要とした。その間もスマホ片手にアレコレと仕事していたのだから、我ながら社畜である。
 しかし社畜には社畜の意地がある。
 あ、いや、それは関係はないか。これは純粋な個人的関心……、よくいえば心配心……、悪くいえば野次馬根性での訪問だった。
 いや、悪く言わなくても野次馬根性か。ちなみにどうやって実家住所のデータを入手したかは機密事項だ。『女には七つの秘密』があるという諺がある……かもしれないが、男だって単純馬鹿では……あるな。
 ともかく僕は、昨今のインターネット地図情報のおかげで、迷うことなく実家を発見できた。で……。
 目の前に広がった光景は、予想通りだった。
 特に目立ったところのない、普通の二階建ての一戸建て住宅だ。太陽の光に、窓ガラスが反射している。ガレージにはオシャレな外車が駐車されていた。
 これは明らかにヤバそうだ……。
 足取りが少し重くなる……、いや慎重になる。
 いきなり住宅から怪物が飛び出し、取って食われるようなことはないと分かっている。
 それでもすぐに逃げ出せるように、心の中で身構えている自分がいた。

 慎重に近づいてみて、悪い予感は当たっていることが分かった。
 一家全員が長期間の留守をしている。
 雨戸が閉まっていないことに、イヤな予感は増大する。
 郵便ポストには新聞類が溜まっていた。クリスマスの飾りこそないものの、正月飾りが飾られている。
 念のために手袋をはめて、心の中で『はい、ごめんなさいねー』と言いながら、一番古い日付の新聞をチェックする。十二月二十九日……会社が休暇に入った翌日の日付だ。
 偶然だろうか?
 それはともかく、計画的な留守ならば、雨戸は閉めるし、新聞は一時的に休止するだろう。もしくは近所の人に、郵便物を受け取るように依頼しておくはずだ。
 そうしないと泥棒に、『狙ってください』と言っているようなものかもしれない。
 中途半端な防御はよろしく……、いや、そんなことを言っている場合じゃない!
 あることに気づいて、僕は自分の顔色が青くなるのが分かった。心臓がドキドキするとは、こういうことを言うのだろうか。

 できるだけ平静を装って、江島さんの実家から距離を取る。
 五百メートルほど離れたところで、電話を取り出す。
「あ、もしもし、部長ですか。お忙しいところを申し訳ありません。江島さんのことで報告事項が増えました。ええ……」

 そして僕は江島さんの実家を去った。
 テレビで一家殺害のニュースが流れたのは、二日後のことだった。

.あらわれたご令嬢

..1

 ニュースとなったのが二日後となったことには、特に異論はない。おそらく会社から警察に迅速に連絡はいったものの、警察が周辺住宅に聞き込みをした上で令状を取り、江島さん実家に立ち入り調査するまでに時間を要したのだろう。
 ところで納得がいかないのは、僕が任意の事情聴取を受けたことだ。それも長時間に渡って。下手すると二十四時間くらいは消費されてしまったのではないだろうか。
 さらに面白くないのは、警察があまり好意的ではなかったことだ。本来ならば事件の早期発見に貢献したことを賞賛されることを期待したいのに、『名探偵気取りで迂闊に首を突っ込んでほしくない』と、いったトーンで対応されてしまった。
 たしかに仕事でも、余計なことに首を突っ込んでは墓穴を掘るのが常日頃の僕というものだ。けれども、面と向かって言われるのは面白くない。最近は子供にも口答えをされてしまい、現代人らしくストレスに苦しむ日々を過ごしているというのに。
 いや僕がストレスというと、皆さんが腹を抱えて笑い出すけれども、繊細で臆病で小心者である自分をオブラートにより、何十どころか何百にも包んでいる本人としては心外である。
 とりあえず容疑者扱いされなかっただけで、現場猫のように『ヨシッ!』とするしかないだろうか。
 新聞のように毎日ではなく、週刊マンガはおろか隔週レベルでしか顔を合わせることがない。だから男性であっても、化粧の変化に気付いたって変ではないだろう。そもそも、おそらくにはなるけれども、意中の男性から少しでも好意的に認識されたいという思いから生じた本気メイクだ。我が家のお嬢様もちょうどメイク修行を始めたところだし、そもそも僕の観察力は特定事象には強い。
 業務スケジュールだって、上司方向だけでなくて、部内方向のチェックもマメにやっている。最近はITシステムの進化により、簡単に全員分を画面表示できるようになっている。技術者であれば、そのくらいのことは誰でも……それなりに経験を積んでいれば……同期トップで技術者試験に合格した者であれば、まあ不思議はないだろう。
 わざわざ心配して実家まで野次馬……もとい、偵察に行ったのだって、移動中は仕事できたからだ。それに僕は運動不足解消のため、一日あたり一万歩を歩くように心がけている。だから全く時間のロスということにならない。
 ちなみに高校時代の悪友の一人は、一日あたり一万五千歩だ。それに比べると可愛いものだ。
 せっかく捜査協力する気になっていたのに……、仕方ないから警察を当てにしないで事件解決するか? いやまあ、こういう部分が敬遠されたのかもしれない。ここは大人しく反省することにしよう。

 ところで警察が江島邸へ立ち入り調査して判明したのは、ご両親と弟さんが惨殺されていたということだ。背後から刃物で切られていたそうで、彼女が犯人ならば難しいことではないだろう。僕だって家族には背中を見せる。そこを疲れたら、森卓也の命を奪うことなど、チョロイもんだ。
 殺害された時期は僕が推定した通りで、二週間近く前……つまり十二月二十九日前後となる。台所にある食器の利用状況から、彼女が帰省した後に事件発生となったと推定される。
 そして肝心なことだけれども、彼女の遺体は見つかっていない。と、いうか、血液の付着した服が脱ぎ捨てられていたので、単純に見れば彼女が犯人となる。
 たしかに僕の知っていることと交換条件に現場状況を教えて貰うことにしたら、そりゃ警察としては好ましくない存在と認定するかもしれないな。しかし僕も調査と分析を専門に仕事してきた職人であり、どうしても情報収集と分析をやめることができない。
 小説家が小説を書くようなもの……、いやそれよりも根源的に、人間が息をするようなものかもしれない。
 それにしても百六十センチメートルを超える身長で、「力仕事は任せてください」と豪語していたにせよ、見事に急所を突いている。事前に入念に調べていなければ、そんな真似は難しそうだ。それと不思議なのは、もしも殺意があったのならば、寝ているところを襲えば良かったという気もする。
 つまり江島はるなが一家惨殺の犯人であるならば、緻密な準備や計算と、いきあたりばったりの行動という、きわめてアンバランスな犯行となる。そうそう、金銭は特に失われていないとのことであり、誰かに貢ぐとか、金目当ての犯行ではないらしい。
 僕だったらば犯行動機は何にせよ、自分が犯人で手配されることが確実ということならば、できるだけ金銭は持ち出すことだろう。いくら入社二年目の若者だからといって、そのくらいの知恵は働くだろう。
『まともな思考力が残っていれば』だけれども。
 あれ、もしかして僕、犯行を示唆した等で疑われている?
 そういえば警察で事情聴取の際に言われたな。「森さんは、江島はるなさんと最後に会った人たちの一人なんですよ」と。
 ともかく警察も、感心するほどアレコレと質問してきた。
 たしかに考えてみれば、部内では元上司に続いて二番目くらいに接して来ただろうか。なにしろ彼女の元上司も、彼女自身もコンピュータに関しては素人に近いから、どうしても僕がお世話をせざるを得なかった。
 最後に会った一人でもあるしな。
 警察が確認したところでは、会社のスケジュール管理システムで確認した限り、僕が職場へ出社した日が年内の最終出社日となっていた。その日の職場には部長職以上を除くと、彼女と僕しかいなかった。たしかにそうなると、あれこれ質問したくなるのかもしれない。
 ただし今のご時世は職場にいてもパソコンと睨めっこして過ごすのが一般的であり、あんまり会話は交わしていない。無口な人ならば、一言も会話しないこともある。ただし僕は他人に話しかけるのが習性の生物のようで、絶対に挨拶以上の会話を交わそうとする。だから化粧の変化にも気が付いた訳だ。
 ただし今の僕は昼飯を食べない人となっており、食堂には行っていない。そして彼女は終日、打ち合わせで忙しいようだった。だからそんなに近況を確認はできていない。せいぜい入社してから二年後に待ち構えている新人発表会の予定を教えてもらった程度だ。
警察から、「森さん、何でも構いません。気付いたことを教えて下さい」と言われても、「顔色はいつも通りに見えました」と返事することが出来た程度だ。
 ちなみにこれをバラすと怒られるけれども、かつて水越さんは顔色真っ青になったことがある。我が家のお嬢さんにしても、二学期は体調不良で壮絶に休みを取る日が多かった。
 そういう意味では昼休みもちゃんと食堂方面に消え去って行ったし、食欲は問題なかったようだ。強いて言えば、いつにも増して『元気そう』という印象があった。欠点として見ると『脳天気』となってしまうのだけれども、特に悩みごとは持ってなさそうに見えた。
 そもそも配属当初の「おはようございます!」は、超絶的に元気が良かった。それを考えると、自分なりにペースを掴んできたのかと安心した程だ。
 僕も彼女の変化に気付いたのは年明けだ。
 先に述べたようにストーカーではないので、部内全員のスケジュールを同時にチェックしている。そのため十二月の段階では一月分の予定は全く把握できていなかった。
 そして年明け一月四日に、空白スケジュールに気がついた。
 なんとなく四日と五日は休暇を取る者が多かったので、彼女も単純に予定を入れ忘れただけだと思っていた。もしくは地震の生じた石川県近辺の出身で、急遽休みを取ることになった、とか。
 ところがフタを開けてみると、ビックリ仰天。
 なんと実家では一家惨殺という事件が生じていたという訳だ。
 いや、今はあれこれと想像しても役に立たない。
 ともかく今でも、彼女は生きているらしい。
 さてさてどうやって見つけるか。
 警察だけでは難しいかもしれないけれども、警察とメーカーが協力すれば可能かもしれない。何しろ今はコンピュータというかインターネットの時代だし、昔からATMの利用履歴を追跡するという方法がある。初心者向けのコンピュータ関連試験でさえ、「ムズカシイので合格する自信ありません!」と豪語していた素人さんだ。ネットを駆使すれば、簡単に行方を辿ることはできるだろう。

 そんな僕の想像を裏付けるかのように、彼女はすぐに僕たちの前に現れた……、ただし『最悪のケース』として。

..2

 最初に彼女が現れたのは、新宿の歌舞伎町だった。
 たまたまというか、有名な場所なので、警察官の巡回も多い。制服を着た警察官も多いし、制服を着ていない警察官も多い。
 念のために捕捉しておくと、もちろん『制服を着ていない』とは、『全裸』とか『半裸』ということではない。警察官の中には手配書を頭の中に叩き込み、私服で手配書の人物を捜索する部隊も存在する。これはあながち侮れなくて、特に家出した者などの発見に役立つことが多い。
 家出して手配書を出されるような単純さだと、名前を聞いたことのある場所に行ったり、単純に風俗などで稼ぎを得ることが出来ないかと考える者も多い。そういう者たちには、大変に有効だとも言える。
 その網に、彼女はまんまと引っかかった。ある意味で、実に彼女らしい。
 昔から感じていたけれども、発想がストレートなのだ。まだ大学を出たばかりの若さ故か、歌舞伎町のあたりをうろついて、客を得ようとしていたとのことだ。
 ここまでは想定の範囲内だった。
 範囲外だったのは、警察の包囲を突破して脱出してしまったことだ。
「失礼ですが、身分証をお持ちでしょうか?」
 この質問に、彼女はあっさりと社員証を提示したとのことだ。
 で、「江島えりなさんですね。事情聴取をお願いしたいのですが、署までご同行願えますでしょうか」と言われた。
「…………」
「さ、行きましょう」
 と、警察が数名がかりで取り囲んだ時のことだ。
 彼女は表情ひとつ変えることなく、取り押さえようとした者たちを振り払ってしまった。『純粋に信じられないほどの腕力』とのことだった。
 そして両腕が自由になった彼女は、躊躇なくバッグから刃物を取り出したとのことだ。純粋な力で押し巻けるのに、刃物まで持ち出されては、如何ともしがたい。もちろん警察官だから十分な訓練を受けているが、プロというのは無理をしないことも『プロの条件』となる。つまり想定外の事態が生じた時には、距離を置いて様子を見るように訓練されている。
 謎の圧倒的腕力という現象を目の当たりにして、さらに刃物まで持ち出された状況では、包囲網を解かざるを得なかったという訳だ。
 もちろん走って逃げる彼女を追跡しようとしたが、脚力も尋常ではなかったので、あっさりと振り切られてしまったとのことだ。もしかしたら、新宿の都市伝説が一つ増えた瞬間かもしれなかった。
 僕も後日になって警察からも質問されたけれども、特に薬物を使用している形跡はなかった。もちろん元から体格が元気ではあるけれども、精進した警察関係者を振り払えるほどではない。
 あとから分かったことだけれども、この時も彼女は何らかの『クスリ』を服用していることは無かった。人間の体には、まだまだ多くの謎が残されているのかもしれない。
 ともかくそうして第一ラウンドは、江島はるなに対する警察側の圧倒的敗北という結果に終わった。

「そこで伺いたいのですが、彼女は何かの薬物を使用しているような痕跡はありませんでしたでしょうか」
 今度はわざわざ警察が職場までやって来た。
 飯島荘介刑事と綿川京香刑事の二人である。応接室は採光が良く、おじさんには眩しかった。
「そうですね。見た限りは全くありませんでした。感情は安定しており、顔色や体重も健康的と言える状態だったと思います」
「そうですかーー、ちなみに職場に気になることはありませんでしたでしょうか」
「全くないです」
「全く?」
「はい。シニア層が歳相応に体力低下や思考力低下に見舞われている以外は」
「はあ」
 なんだか二人とも、今ひとつ煮え切らない感じだった。これは一体どうしたことだろうか。
「もしかして私、疑われています?」
 思ったことをそのまま口に出したら、二人ともピクリと体を動かした。なんだか疑われているみたいだ。
「いえ、全く。失踪に気付くのが異様に早かったので、何か他にお気づきになったことがないかとーー」
「そういう意味では、一月末に彼女の発表会があるので、年明けからエンジンをかけたかったでしょう。それで上司たちが気にして、私に相談があったという訳です」
「なるほど」
「たしかに言われてみると、彼女は公私共に忙しかったと思います。それから行動範囲が広かった」
 飯島刑事が身を乗り出して来た。
「と、申しますと?」
「仕事では社長も参加する若手の意見交換会に参加し、その後も継続実施するプロジェクトに参加していました。プライベートでは、マッチングアプリを利用していました。年末に気合いの入った化粧をする日がありましたけど、それらが関係していたのかもしれません。そちらまで調べるとなると、かなり大がかりな仕事になりそうですね」
「全くです。それで参考になる情報がないかと、お伺いした訳で……マッチングアプリですか」
 もっと役に立つ情報を出せということかな?
「会社は分かりません。ただし弊社が分社化を発表した際、そのことを経歴に書き込めるだろうと会話したと聞きました」
「誰と会話したか分かりますか?」
「残念ながら、『友だち』だけです。休日にあった際に分社化を話題に取り上げ、皆から『外資系企業と経歴に書けるね』と言われたと聞きました」
「なるほど、そうすると会社友だちか学生時代の友だちなのかは分かりませんね」
「残念ながら……人事部門に確認すれば同期入社の子たちをリストアップできるので、その子たちに尋ねてみるのが早いかと思います。彼女の入社時にここに配属されたのは二十数名と聞いているので、会社だとそのメンバーから当たってみるのが良いかと思います」
「ありがとうございます。参考になります。その他で気付いたことは?」
「最近はオンライン会議の時に、少し反応が少なくなった程度でしょうか。昔は発言なくても『いいね』マークを付けるなどの積極性が大切とアドバイスしていましたが、ここ二ヶ月くらいは減少傾向でした。新上司も私と同じ考えでしたから、顔が見えない音声だけの会議であるのを良いことに、いろいろと内職していたのかもしれません」
「会議での発言そのものは如何でしょうか」
「昔から皆無です。それは入社したばかりの新人ですから、発言するほどの戦力にはなっていませんので」
「なるほど」
「一年以上前の配属時から、明るい性格でした。感情の安定度も高い。私のような者からすると、『一体どうして、こんなことに?』ですね。たしかに薬物による影響など、外的要因という可能性が高く見えることは否定できません。ただし周囲も仕事量には気を配っていたようですし、仕事の内容も配慮していた。特に薬物に手を出す必要性は無さそうに見えました。個人的な主観ですけど」
「いじめなどの可能性も無さそうですか」
「少なくとも休日には友だちと会っていると聞いており、そちらに関するグチを聞いたことはありません。職場は言うまでもないです。強いて言えば、私が英語やコンピュータ技術で蓄積すべしと、パワハラ気味だった程度でしょうか」
「そうですか」
「あとは……、部署の機器管理係として申し上げると、会社携帯は位置情報を常時オンにしないと使えない仕様になっていたハズです。その携帯の最後の位置情報が、もしかしたら何かの参考になるかもしれませんね。社内チャットのやりとりはパスワードが必要となります。会社ネットワークに業務用パソコンや会社携帯を接続すれば、たぶんチャットのログを確認することも可能でしょう。社長も参加してイベントに関しては録画が視聴可能になっています。それらに関しては、私よりも人事部門を通して、まずは情報システム部門にご相談いただくのが良いかと思います。それから根拠のない直感ですけど、一つだけ思いついたことがーー」
「なるほど、そうですね。参考にさせて頂きます」
 それから私は念のために、人事部門が情報システム部門に連絡を取るのに苦労した場合を想定して、社内の連絡先を伝えた。個人が警察の役に立てるのはこのくらいで、あとは人事部門が警察と善後策を対応することになった。

 それにしても、本当に妙な事件だ。もしかすると社会を根底から揺さぶるようなことが判明するかもしれない。ただし警察が対応して、なるようになるだろう。悪いが悪知恵が回る訳でもなく、社会経験も浅い『小娘』である。警察の包囲を突破したという怪力とやらには驚かされたが、それを織り込めば、次は大丈夫だろう。何しろ経験値に基づいて動くとはいえ、その分だけ着実に動く日本警察は優秀な組織だ。
 自席に戻ると、仕事が山のように溜まっていた。家族からの連絡も入っていた。
 すぐに僕は彼女のことを忘れ、目の前の仕事に忙殺されるようになった。

..3

 さて読者諸氏は、僕が二人の刑事へ最後に何を話したのか、気になっているかもしれない。長い人生を過ごしてきたオジサンからすると、直感というのは、人によっては侮ることができない。
 僕の直感は当てにならないハズだけれども、不幸にして、今回は数時間後に答え合わせをする羽目になってしまった。
 帰宅するために職場を出て、駅まで歩いてきたところで、気が付いた。
 両刑事に伝えた直感は、さっそく当たってしまったという訳だ。
 予想外に早かったので一瞬だけ動きが止まりかけてしまったけれども、たぶん気付かれていない……ことを願いながら、駅の改札からデパートの方へと歩みを変える。エスカレーターで一階だけ上がったところで、幸い胸ポケットに仕舞い込んだ刑事さんの名刺を取り出す。電話はすぐに繋がった。
「飯島です。申し訳ありません。ただいま打ち合わせ中で折り返しーー」
「先ほどお会いした森です。駅前でさっそく目撃しました」
「え、それはーー」
『それ』が何であるかは、最後まで聞くことができなかった。なぜなら、後ろから電話を取られてしまったからだ。
 後ろを見ずに走り出そうとしたが、踏ん張った右足を払われて転倒する。ウワサ通りで、信じられないような力だ。急いで体制を立て直そうとする。がーー。
「キャー! 痴漢!」
 悔しいことに、完全に先手を取られっぱなしだ。
 振り向いた先には、江島えりな嬢がいた。
 彼女の叫び声に応じて、複数の手が僕を掴んだ。善意の人たちによる、痴漢の取り押さえだ。後ろから羽交い締めにされて、全く身動きを取れない状態となった。
「この人の身元を確認するものはーー」
 その声に応じて、幾つもの手が僕のポケットに手を突っ込んできた。
 普段はこんなことにならないだろうが、若い女性を助けるという義侠心ゆえだろうか。それから、彼女は妙な雰囲気をまとっていた。僕自身が痴漢扱いをされていなければ、周囲の人々と同じように行動してしまったかもしれない。
 カバンを取られ、ポケットの財布を抜き取られる。クレジットカード入りの小銭入れだ。
 とーー。
 財布を見た瞬間、彼女はそれを引ったくって、いきなり走り始めた。それも全力疾走だ。
 周囲は事の次第が分からず、あっけに取られている。こちらは……右足が痛くて、走ることさえ難しい。それに彼女が逃走を選択した理由の一つだろうが、警備員たちがこちらへやって来るところだった。
「すいませんがーー」
「はい、ご迷惑おかけして申し訳ありませんが、警備員室へ伺わせて頂けませんでしょうか」
 やはり僕には、ハリソン・フォードのような動きは無理らしい。
 とりあえず前後の逃げ道を塞がれる形で、僕は警備員室へと案内されていった。

「ほおに青あざができていますね」
「いや、逃げ切れませんでした。めんぼくありません」
 幸いにして、会社の携帯電話はカバンの中だった。まだ会社で打ち合わせ中だった飯島刑事は、すぐさま警備員室へ姿を現してくれた。
 とはいっても、駅と職場は徒歩で十分近く離れている。彼が姿を現した時には、盗まれた電話やクレジットカードの利用停止手続きは完了していた。
 電子決済や財布の中身は合計三万円くらい。クレジットカードは現金引き落とし時に暗証番号が必要となるだろうから、おそらく無事だろう。とりあえず今回は『双方痛み分け』と言いたいところだ。
 しかし確か今は財布に診察券も入っていたから、最寄り駅はバレてしまった。いやしかし、今回も別に僕を最初から狙っていたのではないだろう。
 おそらくだけれども、彼女は誰でも良かったのだ。
 ただし僕が彼女の存在に気付いて、話しかけてくるどころか逃走モードに入り、あまつさえどこかへ電話で報告しようとしている。それで災いの目を摘もうと、攻撃対象にされてしまったのだろう。
 しかし蹴飛ばされただけだけども、女性の力ではなかったーー。
 おまけに妙な色気というか、思わず男性ならば従ってしまうような雰囲気……暗示力もあった。何かの薬の影響下にあるというよりも、人格が根本的に変わってしまったような印象を受けた。
 そう、まるで何かに乗っ取られたような印象だ。
「いったい彼女に何があったのでしょうね?」
「ともかくびっくりしました。ぜひ僕も知りたいところですよ」
 だんだん痛みを感じるようになってきた頬を軽く押さえながら、僕は飯島刑事に返事をした。
「それに行動に一貫性がないですね。前は金銭には全く手を付けなかったのに、今回は財布を狙って来ました。生活費に困ってから金銭の重要性に思い至るとは、まるで子供のようだ」
「たしかにそこらへんは、私の短い刑事人生でも、あまり見かけたことがありませんね。不思議です」
「もしかしたら、最初は金づるがあったのかもしれませんね」
「金づるですか」
「たとえばマッチングアプリの相手とか」
「なるほど……」

 そうなのだ。
 実のところ僕は、彼女の出現ポイントとして、知り合いと接触しやすい職場最寄り駅を思いついたのだった。しかし警察に説明して、あらかじめ網を張ってもらうという作戦は不成功に終わってしまった。
 物語には必ずエンディングが存在するーー少なくとも、現実社会の物事は。時間が経過するにつれて終わりを迎える。それがどのような形であれ。
 問題はどのように終わらせるか、なのだ。
 それが今回の場合、終わりが全く見えない。そもそもわずかな時間しか接触していないが、江島えりか嬢は性格からして変質しているようだった。交渉も手がけるビジネスパースンとしては、『落としどころが見えない』ともいう。
 と、いうか、警察も会社も状況を認識していなけれども、これはもはやSFの世界なのかもしれない。そうなると経験則で既知事例を積み重ねていく警察だけでなく、会社としてもお手上げだ。
 薬物の影響でない性格の変容。それも日頃は安定しており、元気で明るい性格だ。僕のようにヒステリックな気質で、喜怒哀楽が極端な者とは根本的に違う。
 現代科学で脳に手を加えたとしても、そんなことは難しいだろう。それにそもそも、火事場の馬鹿力のような怪力も発揮している。もちろん彼女は双子ではないので、入れ替わりということもない。
 あとは本人を捕まえて、医学的に検査するというのが最適解となる。

 しかしどうやって?
 もちろん日本の警察は優秀だ。一度は見事に捕捉した。しかし相手側も、どうやら対応しつつあるようだ。警察の人的資源は限られているし、現時点では精神に変調を起こした者による気まぐれな殺人事件と見なしている。現場で対応した者たちは異様さに気付いているけれども、上司たちがそのことを認識できていない。人間というのは、自分が見ようと思ったものしか見えない。余程のことがない限り、部下の報告は届かない。だから殺人犯に準じた扱いでも、警察官を総動員して全駅を封鎖するというのは、無理な相談だ。
 有名スターであっても、動向を捕捉するのは難しい。その一方で、電話などは捨てられてしまった。今は現金で生活している。
 鶏が先か、卵が先か……。

 それに僕も、仕事がある。
 何となく事態が悪化しつつあるのを放置することになるけれども、仕方がない。
 彼女にしても、着たきりスズメではあるまい。長期間の潜伏を実現するには、協力者や拠点が必要となる。僕はあきらめて、警察の手腕を期待して待つことにした。

.なぜ人は人を殺すのか

..1

 人生経験の浅い若年女性が潜伏するには、協力者や拠点の存在が重要となるだろう……この直感は、残念な形で実証されることになった。
 カフカの”変身”は、『めざめると自分は虫になっていた』だっけ?
 僕の場合は、目覚めると水越さんからメッセージが入っていた。朝は多忙を極めているはずの、二児の母親としては珍しい。
 そう思いながら、紹介されたニュース記事に目を通して納得した。これは多忙を極めていても、思わず手が止まるだろう。寝ぼけまなこは吃驚まなこへと変化した。さっそく情報提供を感謝するメッセージを返信しておいた。
 聞いて下さいよ、お母さん……などと、ボケをかましている場合ではない。
 ニュースの内容は、コワーキングスペースにおいて、利用者たちを殺害しまくったという内容だった。ちなみにコワーキングスペースとは図書館の閲覧室のように見える場所だ。そこで自分用の場所を有料で借用し、読書やレポート作成に勤しむために利用する。最近は近所の図書館でも、図書の閲覧ではなく、勉強やらパソコン利用している者も多い。人の気配がするので効率が下がるような気もするけど、いつも満員御礼に近い人気なのだから、おそらく利用者にとっては自宅よりも快適であるんだろう。
 そういう場所で刃物を振り回して、人を殺して回った。当時は二十人くらいが利用中で、そのうちの半分ーー十名くらいーーが、殺害されてしまったらしい。日本では深夜でも女性が一人歩きできるくらいの治安だからこそ、こういった場所が存在するのだろう。ただし今回は、その治安の良さに安心していたところを、思い切りつけ込まれた感じだ。残念としか言いようがない。
 しかし他人事ではないのは、殺害して回った犯人だった。何だって? 『某電機メーカーの会社員』だって? そういや当職場にも、休日にコワーキングスペースを利用している者がいたな。江島はるなさんの元上司君だ。
 記事を読み進めるうちに、朝からメッセージ送信された理由が分かった。うん、これは間違いなく、元上司に違いない。だって……犯人の名前が彼なのだから。
 それにしても、独身貴族(死語)の若手男性なのに、よく刃物なんか所有していたな……って、感心する場所が違う。彼の体格と体力で、よく十人も殺害することができたな。失礼ながら僕みたいに子供相手に卓球をやったり、自転車送迎で体力を鍛えている訳でもない。そもそもスポーツではなく、休日にコワーキングスペースを利用しているくらいだ。
 なんで、そんなにことに拘るのかって?
 それは江島はるな嬢と同じく、謎の筋力を発揮した可能性を考えたからだ。奇しくもかのが家族殺害したのと同じく、身近にいた人間を手当たり次第に殺傷している。まるで殺人衝動にでも駆られたように思える。
 日頃の彼は、もちろん好戦的な面は全くない。むしろ部署で最も好戦的なのは僕だ。彼がそれでストレスを溜め込んでいたとは思えない。溜まったストレスを発散するのに他人を殺害して回るというのは、全く彼らしくない。
 むしろ衝動的に暴れ回るならば、僕の方が……いや、今の話題からは外れる。
 そしてさらに記事を読み進めると、もっと印象的なことが書かれていた。
 凶器は『刃渡り二十センチメートルの包丁』なのだそうだ。これ、江島さんが持ち歩いていた凶器と一致する形状だ。
 そうすると彼女の潜伏先は……。
 何? 『犯人は最近になって自宅に女性を住まわせていた』だって。うーん……これは彼女の潜伏先が、彼の住まいだったと考えて間違いなさそうだ。

 こういった推測は、会社の始業時刻を過ぎてから、全て裏が取れた。
 何しろ、再び職場へやって来た飯島刑事たちが、『彼のことも教えてください』と尋ねてきたのだから。
 気の毒なことに、部長はげっそりとした顔つきになっていた。気持ちは分かるーー。
 部署から殺人犯が二名も出たら、そりゃ警察からも幹部からも、あれこれと徹底的にマネジメント状況を尋ねられるだろう。僕は傍観者的な立場にあるから、同じ部署であっても、まあ比較的ーー比較的だけれども、平静を保っていられるだけだ。
「しかし興奮状態になる薬物は知られているけれども、ここまで顕著なのは知られていません。ともかく二人の身柄を、早いところ確保したいです」
 そう飯島刑事は言った。
 もちろん僕も同感だ。しかしどうやって潜伏先を見つけ出したら良いだろうか。
「うーん、漠然と考えても、もう身柄確保の知恵は出ませんね」
「そうですか? ではまず事件の整理からしてみますか」
「おっ、警察では整理が進んでいますか。ぜひ伺えるとうれしいです」
「そんなに進んでいると言う訳ではありませんけど、さすがにこれだけ事件が続くと、戦力も強化されますので」
「それは心強いです。職場では、『二度あることは三度ある』とか、私たちの中から『第三の殺人鬼』が生まれることを怯える人もいるほどです」
「それはお気の毒です。まず二つの事件ですが、たしかに関連性はありそうです。貴社に採用される社員が、これだけ近い時期に、犯行の露見を気にすることなく無差別殺人に走るとは考えにくいです」
「そうですね」
「したがって……と表現するのは早計かも知れませんが、江島はるなさんが元上司に影響を及ぼした可能性が考えられます。たとえば狂犬病のような病気が感染力を持っていたと仮定してみます。そうすると江島はるなさんが元上司に感染させることにより、第一の事件からしばらく後に第二の事件が生じたことの説明がつきます」
 僕はあっけに取られた。まるで警察が物理学者のような説明を展開している。完全にメーカー技術者のお株を奪われてしまった形になり、唖然としてしまった。
 それに気づいたのか、飯島刑事は照れくさそうに笑った。
「私たちにも協力者がいまして……上司の知人ですけど。その方が物理学者なので、受け売りをしてしまいました」
「なるほど、そういうことですか。それはともかく、たしかに江島はるさんが元上司の星野裕貴さんに影響を及ぼしたと考えると、説得力が高まります……彼女が彼の自宅に潜伏していたことの裏は取れましたか?」
 飯島刑事は頷いた。
「はい。彼の自宅には、彼女の髪の毛が数本ありました。体などに付着して、会社から持ち帰ったとは考えられない量です。そして彼女の髪の毛であることは、彼女の実家にあった毛髪のDNAと照合することによって判明しました」
「なるほど。まあ付き合っていることを隠して、私たちにマッチングアプリ利用者であることに言及したのかも知れませんけど、それよりも最近になって影響するようになったというシナリオの方が自然ですね。で、感染説とも整合性が取れる」
「そういうことです」
「あとは、感染病であるのか、もしくは寄生虫などによって脳に影響を与えられた可能性を詰めていくというところでしょうか。そうすると、確かに飯島刑事がご指摘なさったように、一刻も早く身柄確保したくなりますね」
「森さん、その通りなんですよ」
 そう言われて、僕は考え込んだ。
 感染症のようなものだと仮定すると、職場で星野さんだけが感染したと考えるのは不自然だ。それから、まだ二つの例しか存在しないけれども、二人とも独身者だ。インフルエンザのように飛沫感染することは無さそうな気がする。
 条件は粘膜の接触だろうか。だから江島さんは、新宿の歌舞伎町近辺を徘徊しているところを目撃された……もしかすると、殺害する方向の衝動に加えて、粘膜の接触を求める方向の衝動も強化されるのだろうか。
 想像をたくましくすると、まず最初にマッチングアプリで、江島さんはAさんと知り合った。そしてAさんとの接触を通して、彼女には何らかの変化が生じた。そして江島さんは星野さんに接触することにより、今度は星野さんに変化が生じた。
 そして星野さんと江島さんの間で殺し合いは始まらず、むしろ凶器の貸し借りという協力関係が成立した。と、いうことは、互いに変化したことを認識しているという訳か。
 まるで知識は残したまま、何かに人格を乗っ取られたような感じだ。それにしても感染症のようなものだと考えると、発生源が気になる。江島さんが付き合っていたのがAさんだと仮定すると、Aさんは誰から感染させられたのだろうか。
 そしてAさんは特に殺人衝動に駆られることはなかったのだろうか。江島さんや星野さんの例を考えると、どうやら破壊衝動ではなくて、殺人衝動のように思える。なぜなら人間のみを対象としており、特に器物破損は見あたらないからだ。
 いや……、もしかすると殺人衝動というよりも、防衛反応の一種なのか? しかし二人とも、殺害行動は場所移動した直後などではなく、環境の安定した状態で発生している。そう考えると、やはり防衛反応とは考えにくい。
「ここは人間を相手にしているのではなく、何らかの生物を相手にしていると考えると、繁殖行動を押さえるのが妥当なところでしょうか」
「繁殖行動? いきなり何でしょうか? 森さん」
 僕は超適当に立ててみた仮説を説明した。
「つまり薬ではなくて、生物として本能的に行動していると仮定すると、繁殖・縄張り確保または餌の補食・巣の確保に勤しむのではないかという推論……いや、当てずっぽうです」
「ふむ、森さんが口にすると、妙に説得力がありますね」
 うーん、やっぱり反応が薄い。やっぱり現実世界に生きている飯島刑事に、こういうった『未知の世界』の探索は難しいだろうな……。
「まあ江島さんが最初に発見されたのは、新宿の歌舞伎町付近でした。潜伏場所の確保であれば、わざわざ徘徊する必要もなさそうです。それから、職場近くの駅に姿を見せた一件もあります。これらは殺害を目的としたものだとは思われません」
「森さんからは、そう見えますか?」
「あとは……ホワイトボードに時系列に書いてみると分かると思いますけれども、まず殺害事件が生じて、それから『夜の歌舞伎町』や、駅改札口に出没しています」
「言われてみると、その通りですね」
 ずいぶんと、気のない返事だ。まあ素人探偵の当て推量だから仕方ないか。が、こちらにも、少しだけ有利な点がある。そこが期待されているのだろう。いよいよ隠し玉を出す時だ。
「ところで弊社の江島さんと星野さんですが、考えてみれば妙なことがあります」
「妙なこと、ですか?」
「はい。配属時は上司としてアサインされましたが、水越さんという人が育児休暇から復帰した後で、指導上長の変更となりました」
「それが、何か?」
 飯島刑事、きょとんとした顔つきが。無理もないだろう。
「これは私よりも部長に確認していただくべき話になるかもしれませんが、社員として、そして上司としての能力に不十分な点があった――そのように仮定した場合、果たして江島さんから見て星野係長は魅力的な人物に見えたでしょうか」
「ふむ」
「それから逆に、星野さんの実力が優れていた場合です。最近はパワハラやセクハラで職場恋愛は皆無に近くなりましたが、もし江島さんから見て星野さんが魅力的な存在と映った場合、当然ながら安全策として上司変更することになります」
「会社というのは、そのようなものなのですか」
 僕は頷いた。
「そしていずれにせよ、気になるは『タイミング』です。今回の上司変更は十月一日付でした。そこから『男女の関係』に発展した場合は、年末というタイミングには、若干の違和感があります」
「と、すると……」
「つまり星野さんは、江島さんが変質した後に、巻き込まれたということです。私が彼女から駅改札で巻き込まれたのと同じパターンです。彼の場合は彼女の変質を侮っており、誘いに乗ってしまった、と」
 飯島刑事の顔から表情が消えた。何を考え始めたのだろうか?
「たしかに、どうして江島はるなさんが職場の最寄り駅に姿を見せたのかというのは、警察側ーー少なくとも私にとっては謎でした。実は歌舞伎町で発見されたのと同じ行動理由だったという訳ですか」
 僕は頷いた。
「そしてーー、そしてもしこの仮説が当たっているならば、星野さんが実行すると予想されるのは、同じく異性との接触です。彼の場合は三十歳を過ぎた独身男性だから、変質してしまった彼が、そのデータに基づいて行動するとしたら、やはり『パパ活』あたりになるんでしょうかね。そして不特定多数を相手にする者から、一気に事件は広まりを見せる……、いずれにせよ再び新宿などをはじめとするパパ活拠点には、捜査人員を派遣するのが良いかもしれません。場所は星野さんや江島さんが『有名なパパ活場所』と認識している場所となるだろうから、まあ本当のパパ活スポットというよりは、動画配信サービス等で話題になった場所でしょうか。彼、新聞や雑誌よりも、動画配信を閲覧することを好んでいましたから」
 飯島刑事は、僕の長い説明を黙って聞いていた。そしてしばらくの間は黙っていた。
 やがて三分くらい経過した頃、彼はようやく口を開いた。
「ダメもとで挑戦してみる価値はあるかもしれませんね。これ以上の大量殺人事件の発生は、なんとしても未然に防ぎたいところです」
 分かって貰えたかーー。そうなのだ。今までは一般人レベルだったから拡散は防げていたけれども、これが不特定多数を相手にする人々に広まってしまったら、大変な事態になりかねない。
 思わず、念押ししてしまう。
「それから想定済みだと思いますけど、星野さんも一般人の想像を超える肉体的能力を獲得しているかもしれません。発見した後で鉄壁の包囲網を形成する必要があるでしょう」
 今度は飯島刑事が頷いた。
 お互いに現場を経験してしまうと、今回の件が尋常ではないことが分かる。ましては薬によるものではなく、原因不明となると、下手すると日本を根底から揺るがす大事件になる可能性もある。
 彼も僕も、いきおい真剣にならざるを得なかった。

 しかしこの時の僕たちの認識は、まだ甘かったと言わざるを得ない。
 まだ事態は序章に過ぎず、本当の災害が発生したのは、これから数ヶ月後のことだった。

増えた花嫁
.プランB
..1

 それから数日は、何事もなく過ぎ去った。
 その間に、僕はこの物語を読んで下さっている方々にお詫びをしておきたいと思う。
 この事件が始まった当初、僕は何らかの違和感を覚えていたにせよ、普通のミステリー小説の枠を出ないものだと思っていた。何かがキッカケとなり、事件は始まり、展開し、そして終わりを迎える。
 いやその流れに変更はない。この世界を支配する物理現象は、どんな時にも変わらない──と、思う。しかし今回は、私たち人間のささやかな日常を根底から覆す事態へと発展していった。
 つまりこれから先の話は、ミステリーではなくて科学──サイエンス・フィクションの分野へと驀進していくことになった。

 そもそも僕の直感は、またしてもはずれてしまった。
 数日後に会社から帰宅しようとした僕は、駅の改札近くまでやって来てから、再び一瞬だけ別な方向へ足を向けた。
 が、少しだけ考えて、再び足取りを改札方向へと変更した。
 そこにいたのは江島はるな嬢ではなく、星野裕貴さんだった。どうやら彼はパパ活方向に行くのではなく、会社の知り合い方向へ手を出そうと考えたらしい。
 先日の件で、向こうの動体視力が優れていることは分かっている。今回は観念して、実際に顔を合わせてみることにした。
 ──その方が、足をけ飛ばされてケガすることもないだろう。
 ただしいつでも全力で対応できるよう、今回は逆に彼の動きを見据えながら足を進める。星野さんも僕のことを今さら気付いたような素振りで、ゆっくりと振り返った。
 ──さて果たして、謎の存在と会話は成立するものか?
 と、珍しいことに携帯に電話がかかって来た。
「はい、森です」
「こちら飯島です。監視班から連絡が入ってきました。改札にいるのは星野さんで間違いないでしょうか」
「──はい」
 さすが日本警察は優秀だ。僕は星野さんがパパ活方面に精を出すかと思ったけれども、知り合いとの接触を希望したようだ。ただし今回も、特定の誰かと待ち合わせしようというんじゃあるまい。
「ただいま現地スタッフに加えて増援も呼びました。駅を完全に封鎖しようとしています。大変に申し訳ないのですが、準備ができるまで時間稼ぎをお願いできますでしょうか」
「やってみます」
 そういうと、僕は電話をスピーカーモードにして、ポケットにしまった。気休めだけれども、やらないよりもマシだろう。
 ゆっくりと歩みを進める。十メートル、五メートル、三メートル……。
「やあ、久しぶり!」
 それを聞いた星野さんは、ゆっくりと視線を僕に移した……まるで知らない人を見るように。
「ああ、森さん……、お久しぶりです」
 ふむ、言葉は問題なく話せるようだ。ただし表情に乏しい。江島さんにしても、星野さんにしても、表情は豊かで明るい性格だった。どうも何かの影響下にあるような気がする。
「誰かを待っているのかな?」
「いや、特にそういうことはありませんけど……。残念ながら森さんは待っていませんでした……、むしろ邪魔ですね。しかしここであなたを傷つけても、その後が面倒そうだ。ここはお互いのため、おとなしく立ち去って頂けませんでしょうか」
「そうだね……」
 男子三日阿波踊り……じゃなくて、男子三日会わざれば刮目して見よ、か。しばらく会わないうちに、ずいぶんハッキリと言うようになったものだ。
 しかし阿波踊りを三日も踊り続けたら、倒れるよな……。
「僕も自分の命が惜しいから、すぐに逃げ去ることにするよ。ところでその前に、僕が何をどのくらい知っているか、把握しておきたくはないかな?」
「――それは何を言いたいのですか」
「君自身だって気づいているだろう。自分が急に力を発揮できるようになったり、自分自身の中身が変わっていることを」
「――聞かせてください。興味ありますね」
「それでは手短に――」
 いま全く、手短にするつもりなんてない。そもそも時間稼ぎが目的だ。それも自分の命をかけての。しかし……下手したら、もしかしたら人類の存続に影響しかねない。自分の子供たちが安心して生きてくことのできない世界――。それはちょっとばかり、うれしくない未来予想図だ。
 飯島刑事、増員の早期到着を頼みますよ――。
「僕たちの職場に限っていうと、発端は江島さんだ。まず彼女がマッチングアプリで出会った相手――名前までは知らない――と出会って、変化を余儀なくされた。一時的にか恒常的には定義次第だけれども、ともかく他人との接触欲求が増大した。それから衝動的に他人を消し去りたい衝動に襲われるようになった。攻撃性が増大するのはアドレナリン分泌量の影響にも依るけれども、自分のことを知る者を消し去りたいという欲求もミックスされている。それで器物破損というよりも、刃物を持ち出した大量殺人という結果が生じている」
「少し訂正したい部分もありますけど、とりあえずそれは後にしましょう。それとも話は、それだけですか?」
「いやモチロン、もう少しだけ続けさせて貰うよ。――だって、君が訂正をすぐにしないのは――まあ、いい。ともかく続けよう。僕が君と平気で話しているのは、別に距離が問題になるからじゃない。それだったら、君だけじゃなくて、職場で大規模感染ということになっているだろう。それから君が最も僕から聞き出したいと思っていることだけど――」
「おや、僕があなたから聞き出したいことがあるのですか?」
「君たちは無敵じゃない。――警察に潜伏場所をかぎつけられたら、厄介なことになる。いつまでも逃げて回れるものじゃない」
「たしかに警察の組織力は厄介ですね」
「今の規模じゃ、踏みつぶされかねないからねー」
「……随分と詳しいようですね」
「もう警察も、このくらいは押さえているよ」
「人間も、なかなか侮れませんね」
「決して君らのエサにばかりなっているという訳じゃないよ」
「エサなんて思っていませんよ。――そもそも僕たちは人間ですよ」
「――失礼。星野さんの脳は活動して意識もあるから、人間だな」
「で、話が逸れたようですが、僕たちはどこに潜伏しているんですか?」
 それが分かれば苦労はしていない。
 うーん、ハッタリもここら辺が限界か。いや、あきらめちゃいかん。怪盗ルパンだってソリティアだって、往生際の悪さで生き延びてきた。
「たしかに自分たちの自宅は押さえられている。――ホテルも、ラブホテルなども含めて網が張られている。江島さんの実家は僕が押さえた」
「おや、あそこに住めなくなったのは、あなたが原因でしたか」
「そりゃ仕方ないだろう。無断欠勤を続けたら、実家に連絡を取るよ」
「そうなんですか?」
 うう、そろそろ口を割らないとダメかな。根拠がないので、ウソやハッタリを口にしているだけとバレてしまいそうだが。
「ただし今回は本人による事件が早期発覚したため、警察の徹底捜索の対象外になったところがある」
 心なしか、星野さんのポーカーフェイスが崩れたような気がする。
「やはり森さんは流石ですね。いずれ僕たちが辿り着いていない真実にも辿り着きそうだ。ここで仲間になって頂く――」
「それはごめんだね」
 やはり男性同士でも、接触すれば同類化することが可能なのか。無理矢理手込めにされるのは趣味じゃないので、離れて距離を取ろうとバックステップする――、いや相手の方が圧倒的に早いな。そもそも鍛えていない小柄な体格にしても、男性ではある。江島さんよりも遙かに手強そうだ。
 星野さんの右手が、僕を捕まえようと伸びて来る。振り払うのは無理なので、体を沈めて、今度は僕が相手の足を払おうとする。どんなに筋力があっても、おたがいに万有引力の法則には逆らえない。伏せるスピードは大して違わない。
 しかし足払いはアッサリとかわされてしまった。こちらは必死なので、その振った勢いをため、今度は逆方向に回し蹴りへ変える。いくらパワーの差があっても、足と手ならば――、あらら、あっさりとブロックされちゃったよ。
 さて困った。男の僕が『痴漢!』と叫んでも、誰も助けてくれないだろうな。それにこれだけ本気でやりあったら、誰も間に入って止めようとしてくれない。
「仲間にできないのであれば口封じ――」
 と、今度はものすごい右ストレートが飛んできた。
 幸い星野さんは素人らしく大きくためを作る予備動作のおかげで、何をするのかが分かった。必死で腕を十時に組んだ”クロスアームブロック”により、顔面への直撃を防ぐ。
 しかしいくら『日頃から鍛えているオジサン』といっても、圧倒的なパワー差はどうしようもない。一対一では、このぐらいが限界だ。なんとか五分――いや、三分は保たせたかったけれども、これじゃ一分と少しが限界だ。せめて味方がもう一人――。
 あ、だめだ。第二撃はブロックを意識した打撃となり、左腕が”ボキリ”と音を立てて折られてしまった。思わず激痛で膝をつく。目を上げると、星野さんの顔が近くにあった。口を、口を開けている。
 そして僕は見た。彼の口の中に、何か白っぽいものが蠢いているのを。思わず右肘を右から左に切り、顔を近づけさせまいとする。もちろん彼は余裕で、顔を後ろに引いた――、チャンス到来!
 彼は僕よりも小柄なので、倒れずに立とうとすると、顔を離す距離には限界がある。スポーツは全くやっていないので、体を捻ってジャンプしながら距離を取るといった動きも身についていない。
 つまり僕が左側に振り切って溜めた右肘は、居合い抜きの要領で顎下めがけて飛んだ。残念ながらクリティカルヒットとは行かなかったけれども、とりあえず顎先に当てることには成功した。
 そして顎先に当たってから数秒して、星野さんはよろけれながら地面に尻餅をついた。どうやら『梃子の原理』により、脳をゆさぶって脳震盪を起こすことに成功したらしい。
 どうやら彼は何かに寄生されているようだが、体を動かすのには人間の脳を利用している。その脳にダメージを与えたのだから、まとも立つことさえ出来ない。勝負どころはここだと、きれいに折られた左腕の痛みに耐えながら、さらに足蹴りで顎へ――つまり脳へダメージを加える。
 どんなに化け物じみたパワーがあっても、相手は運動ギライの素人だ。こちらは身についた太極拳で、右手で扇を振るような動きをさせたおとり動作で幻惑させながら、膝蹴りからつま先を上げるような、独特な技でトドメを決める。
 動きが速くないし、ヒット&アウェイで戦うボクサーなどには全く通用しない太極拳だが、脳震盪を起こしてめまいに襲われているような相手には、まさにうってつけのように役立つ技である。
 程なくして、鉄道会社の警備員や警察官たちがやって来る。飯島刑事から指示を受けた者もいて、まともに動けないうちに手錠をかける。

 こうして、僕たちは何とか、謎を解明する手がかりを手に入れたのだった。

..2

「いやあ、すごい力ですねえ」
 折れた腕を見てくれた医者は、驚きの声を上げた。
 僕は遠路はるばる、逮捕された星野さんと同じく、警察病院へかつぎ込まれた。
 診る人が診れば、分かるのだろう。そもそも人間のパンチで骨折って、そう簡単に起こることではないはずだ。普通は骨はずれて、アザになる程度なのだろう。
 我ながら、実に運が良かったのだろうと、改めてぞっとした。もう二度と、アクションドラマのようなことはやりたくない。そもそも僕のモットーは、『三十六計、逃げるに如かず』だ。
 あちこちにアザも出来ていた。高校時代に柔道の授業で、受け身ばかり練習させられたことに感謝するしかない。
「しかし無茶しましたね。おかげで無事に身柄確保できた訳ですが、冷や冷やしましたよ」
「いやもう、僕も無茶するつもりは全くなかったんですけど……、我ながら運が良かったとかしか言えませんね」
「ところで星野さんは、どんな感じでしょうか」
 それを聞いて、飯島刑事は顔をしかめた。
「手錠、二つかける必要に迫られました。足も拘束せざるを得ませんでした。あらかじめ聞かされていましたけど、信じられない力ですね」
「そうですか」
 星野さんの逮捕劇は、壮絶なものだった。
 脳震盪で立つこともロクに出来ないのに、なんとか逃げようと必死だった。見るからに体格の良い警察関係者たちが取り押さえようとしても、ともかく力がすごい。最終的には老練な捕縛のプロが、柔道のような技を使って取り押さえた。力に対して力で対抗するのは最善策ではないと、彼らとしても勉強になったらしい。
 星野さんを診た医師の話を聞くために移動しながら、僕は事の次第を知らされた。警察としても、貴重な経験だったらしい。

 星野さん自身は、さらに貴重……を通り越して、厳重監視の下に置かれることになった。それから、彼の状態を聞けるようになるまで、三時間の時間を要した。
 いや、『三時間しかかからなかった』が、正解だろうか。
 懸念した通り、星野さんの体は国家機密クラスになっていた。そこで政府としては特別対応をすることになり、幸か不幸か、僕も関係者になることが決定された。もちろん機密保持などの誓約などもあるし、僕は会社から給料をもらって生活している身だ。検討の末、メーカーでは良くあることだけれども、内閣官房へ出向というということになった。そのための調整が三時間ちょっとで実現したのだから、それだけ関係者は苦労したということだ。ちなみに正式には示達となっておらず、内示レベルである。
 で、その間に、僕は星野さんとのやりとりや、彼の口の中に目撃したものなどを報告した。携帯の音声はバッチリ録音されていたし、防犯カメラが一部始終を記録していたけれども、やはり細かい部分は当事者の僕しか押さえていない。
 驚いたことに、僕の報告は病院の会議室のようなところで実施された。警察だけでなく、政府関係者も参加しているようだ。たしかに状況を考えると、それも納得できる話だった。
 最も驚いたのは、医師の報告だった。
 とりあえず現時点では、感染症の兆候はないらしい。確認されたのは、寄生生物とのことだった。驚いたことに星野さんには、性器から脊髄を経て脳髄まで、細長い回虫のようなものがCTで確認されたとのことだ。それは首のあたりで二股に分かれて、口の中にも出現できるようになっている。
「もしかしたら、口の中に存在する部分は尻尾みたいなもので、別な人間の口中に切れて入ったら、そちらでプラナリアみたいに再生するのでしょうか」
 星野さんの言動を思い出しながら、僕は質問した。
「私は整形外科が専門ですが、その可能性もあるかもしれませんね」
 年輩の医師は、慎重に返事をしてくれた。
「いずれにせよ、世紀の大発見という訳ですか」
 警察というよりも官僚っぽく見える人が質問とも感想ともとれる内容をコメントした。
「それも分かりませんね。体の一部が脳髄まで達しているので、人間の思考に影響を及ぼしているのは確かです。ともかく各医療分野の専門家による調査分析が必要そうです」
「寄生されると、寄生されていることが分かるんですか?」
「私には何とも答えられません」
「宿主と会話した人の感想は?」
 僕は皆の視線が集中するのを感じた。
「ポケットの携帯電話をオンにしていたので、そちらの会話ログを参照して頂いた方が良いかと思いますが、寄生されていることを認識していたような印象を受けました」
「まさか」
 会場がざわめく。僕は続けた。
「寄生されていることを認識しているかどうかは重要事項なので、ここで迂闊に結論を出すべきではないかと思います。もしも昆虫のように認識しており、集団行動を取るのであれば……、人間と同等である上に、人間に敵対する存在の誕生ということになりかねません。単体であっても厄介な存在だと思いますが、この寄生生物の特性は慎重に調査分析するのが良いかと愚考します」
『だったら言わなきゃいいのに』という声が聞こえたような気もするが、調査分析を加速させるには、こうやって煽るのが手っ取り早いだろう。そもそも一連の事件は江島さんに端を発している。おそらく彼女が星野さんに寄生生物を移したと思われるが、その江島さんはどうして寄生生物に取り憑かれたのか? 彼女が山登りやスキューバといったアウトドア系を趣味にしていると聞いたことはないし、そもそも今まで見たこともないような生物だ。知能レベルも気になる。単純に回虫のような存在で、人間の脳には感情面の影響しか与えないのか? それとも人間の脳と一体化し、自らを回虫のような存在と認識する人間相当の知能を持つに至った存在なのか? 後者であれば、どうして今まで存在を認識されなかったのか? 存在を始めたばかりの存在であるならば、これから人間を補食して、生物の生存本能に従って数を増やしていくのか?
 僕としては、ゾンビ映画のような展開になるのはまっぴら御免だ。
 やっぱり星野さんが僕に顔を近づけて口を開いたことを思い出すと、何はどうあっても人間社会としては警戒要という事態になるのだろうか。
 とりあえず僕も検査されたが、『今のところは』全く問題ないとのことだ。夜中に自分の体内に潜んだ卵が孵化するところなんか想像したら、恐くて夜も眠れなくなってしまう。

 ともかく寄生生物と感染症の二本立てということは無さそうだから、寄生生物と分かっただけでも一歩前進というところだろうか。一歩前進といっても、足があるかどうかも分からない回虫みたいなヤツだけれども。

..3

 超緊急で内閣官房への出向が決まったものの、骨折の対応やら業務引継ぎとか、そもそも骨折後の発熱により、あっという間に三日間が過ぎ去ってしまった。
 今も寄生生物が増殖を続けているかもしれないという状況で、骨折が労災認定になるかどうかの確認で苦労するというのは、ジョークのような気分だった。ちなみに無事に労災認定され、家計への医療費負担は心配なくなった。
 そういったことが一段落すると、霞ヶ関の某ビルへ赴くようにとの連絡を受けた。そこに寄生生物への対策チームが設置されることになったそうだ。僕は今まで対応してきた実戦経験と、最近流行の生成AI利用に長じているという理由で召集されたらしい。ちなみに海外在住経験はあるし、英語の論文も数本書いたことがある。そこら辺も、決定に影響したらしい。たしかに今回の件は、少なくとも最終的には国際問題となり、英語が使えるスタッフが多い方が便利だとは思う。
 で、肝心の寄生生物の調査分析だが……懸念は的中してしまった。寄生された人間は、自分が寄生されたことを認識して『人間以外の存在』となるそうだ。そういや昔、そんなマンガを読んだ経験があるけれども、それは『増殖』という概念が無かった。
 僕と星野さんのやりとりを聞いた者は、『寄生人間』が増殖欲求を保有しているとわかり、全員が戦慄したらしい。気持ちは分かる。
 ちなみにそのおかげで、僕は定期的な検査を義務づけられた。
 さらに一同を戦慄させたのは、星野さんの状況変化だった。最初は表情も乏しかったのに、今では寄生人間とは分からない喜怒哀楽を見せるようになったとのことだ。これは寄生人間を発見する難易度が上がったことを意味する。
 なお僕の初仕事は、江島さんが新宿歌舞伎町あたりに出現した経緯から、歌舞伎町における寄生人間の確認を提案したことだ。結果だけ知らされたが、三名の寄生人間が確認されたらしい。これを聞いた政府のお偉方は頭を抱えたとのことだ。
 そして残る寄生人間である江島えりな嬢は、今も行方不明である。一人でも寄生人間が存在する限り、あっという間に増殖する可能性がある。僕が所属するチームにおける喫緊の課題は、彼女の発見だった。
 ただし寄生人間のことを公にしたら、世界中がパニックとなってしまう。残念ながらテレビなどのメディアを通じて『戻ってきて、母ちゃん!』みたいな捜査を展開することは出来なかった。もちろん一家惨殺の容疑者という扱いになり、テレビで顔写真も公開された。しかし残念ながら、何の成果も得られなかった。
 分かったのは星野さんの実家を調査したところ、たしかに江島さんは一時滞在したとのことだった。しかし現在では星野家を去り、行方しれずである。なお星野家は全員が検査を受けたが、特に寄生人間化はしていなかった。これは寄生人間が無差別に増殖を試みる訳ではないことの例として注目される一方、寄生人間の行動原理を分析することを困難にした。

 それにしても専門家にとって星野さんは驚異的な存在だったらしい。たしかに人間に寄生する回虫は存在するし、脳や脊髄に到達して脳感染症を起こすケースも知られている。その場合は死んだ幼虫によって人格が変化したり、精神機能障害を起こすことがあることも知られている。
 しかし……人間の脳を利用する寄生虫というのは世界初事例である。自分が寄生されていることを認識し、寄生した生物のために活動する存在……。寄生虫によって人格や能力が変えられれてしまうのは、何にせよ我慢できないことであるけれども、奴隷化されてしまう。恐ろしい事態である。
 そして対策としては食べ物に気をつけるといったレベルではなく、対人接触に注意する必要がある。性的交渉はおろか、キス一回で『これであなたも寄生人間』である。
 せめてもの慰めは、CTやMRIで確認可能であり、既存の駆虫薬が有効だとわかったことだ。新たに判明した寄生人間に適用して、有効性が判明したとのことだ。
 しかし寄生人間は寄生生物を守るため、当然ながらCTやMRIを避けるようになるし、駆虫薬の自発的な服用など論外である。うーん、どうしたものか……。
「森さん、難しい顔をしていますね」
 向かい合った席から、声をかけたれた。目の前には三十代から四十代くらいに見えるオジサンがいた。科捜研から派遣された岩間明さんだ。広い知見を持っていることを買われて、動員されたらしい。
「いや、謎だらけで、どうやって手をつけたものか悩みますよ。ともかく増殖を防いで、力任せの刃傷沙汰を防ぐ必要があるけれども、このままでは後手に回ることになります。マンガだったら識別可能な人がいたけど、現実はそんな人が存在しませんからねえ」
「ははは、そうですねえ」
 笑いごとではないけれども、笑うしかない。江島さんは幸いにも刃傷沙汰に及んでいないが、そのため逆に居場所を補足することができない。そうかといって放置すれば、着々と寄生人間を増やしてしまうだろう。
 最近流行の生成AI……人工知能も、この問題には解決策を提供できていない。そもそも日本だからハグやキスは顕著でないけれども、これが欧米だったら、さらにひどい状況になっていたかもしれない。
「最悪は『殺人犯が歩き回っているから、プライバシーを犠牲にしても、ビデオ分析などを実施します』ですかねえ」
「最後はそうなるかもしれませんね」
 そんなグチを言いながら、どうやって江島さんを補足するかを考える。
「まず考えることは、今までの趣向はどうなるか――ですか。オシャレを追求する性格が残っているならば、服装や滞在場所にも気を配るでしょう。脳を考えた時、寄生生物がどこまで人間の性格や思考をコントロールできるものだろうか?」
「たしかにそれは、重要な視点ですね」
「潜伏場所の特定に繋がりますね。そもそも生活費をどうやって工面しているかという問題もある。違法行為に手を染めているなら、警察のそっち方面から情報が上がって来そうなものです」
「ただしお役所ですし、規模も大きいから、時間がかかりますね」
「そんなものですか……そもそも一般的な殺人犯って、どうやって警察の目から逃げおおせているのだろうか?」
「男性の場合は二年くらい逃亡した例がありますね。自分で整形手術をしたりして、日本全国を転々とした……身元が保証されていなくても、それなりの仕事を得ることは可能なんですよ。それから高齢者と一緒に生活するとか」
「なるほど岩間さん。そうですか――。特に女性の場合は化粧によって、イメージを変えることが可能ですね。しかし懸賞金やテレビ報道でも見つからないというのは、何かツテを見つけたか……」
「あとは確かに、もとの人格がどこまで残っているかという点がありますね。都会っ子が逮捕を免れるために、田舎へ引っ越すことができるか、とか」
「そう考えると、まだ僕は甘いな。大学を卒業して就職したばかり。実家も自宅も頼れない。友だちは警察の事情聴取によって、誰も匿ってくれないだろう。彼氏は寄生生物の媒介者として特定済み。公園や駅に住所不定者として寝泊まりしていることもないだろうし……」
「ホテルや旅館に一晩だけ宿泊……それだと増殖欲求を満たせませんね」
「そうですね、岩間さん。なるほど。生物学的な欲求に従って『産めよ増やせよ』ならば、やはり歓楽街が有望そうですね」
「そうですね、森さん。あとはテレビなどに疎い若者と同棲しているというシナリオはどうです?」
「その場合、若者本人が気づくことはないだろうから、気づくとしたらアパートやマンションの管理人か」
「いずれにしても、女性は化けるからなあ……。遠回りだけど、捜査員を増やすのがベストですかね」
「あとは各所の定点監視カメラの画像から、生成AIを利用して発見……プライバシーや個人情報の点で難航しそう……」
「状況が状況です。法整備は後で追いかけるにして、まずは徹底的に……」
 そんな語尾が途切れがちな会話をしたところ、思いがけずに部屋のドアが開いた。
「やあ、みなさん、こんにちは」
「――こんにちは」
 そこに立っていたのは、東大から派遣されて来た松野准教授だった。心理学系の研究室を持っているとのことだ。
「江島はるなさんの件、捜索方法を変えた方が良いかもしれません」
「寄生生物に関して、心理学的な特性が分かったのですか?」
 生物学的に見れば、昆虫……鳥類レベルに過ぎないと思っていたので、思わず問い返してしまった。
 一方の岩間さんは……。
「松野先生も、お人が悪い。廊下で立ち聞きなさっていたんですか?」
 思いがけない方向から逆襲して来た。
 それに対して松野先生は、全く動じることなく微笑んだ。ものやわらかな物腰で、ついつい松野先生のペースに乗せられてしまう。さすがは心理学のプロといったところだろうか。
「立ち聞きではありませんけど、ちょうどドアを開くところで、お二人の会話が漏れ聞こえましたのでーー、やはり従来の方法では、発見は難しそうですか?」
「残念ながら」
 科捜研とはいえ、立派な警察組織の一部だ。
 身内のふがいなさを指摘されたような気になったのか、岩間さんが仏頂面で返事した。
「効率を考えると、やはりそうなりますかーー」
「効率?」
 思わず、予想外のコメントに声が出てしまう。
 松尾先生は岩間さんの隣に用意された自分用の席に座りながら、説明を始めた。
「ええ、そうです。一般的な殺人犯は、手配されると逮捕されることから逃れるのを最優先で行動します。つまり潜伏です。これに対抗するには、メディアを通じた一般人への協力依頼や、犯人が立ち寄りそうなところへ人海戦術で人員派遣することになるでしょう」
「よくご存じですね」
 驚いたように、岩間さんが声をあげた。
「いやーー。警察も経済機構の一部であり、組織構造を考えるとーーまあ、なるべくして、そうなっているということです」
「たしかに」
「ただし今回、私たちに期待されているのは違います」
「と、いうと?」
「江島はるなさんの目的は、自分たちの仲間を増やすことと、まだハッキリとは分かっていないものの、何かを契機とした人間への攻撃行動ですーーもしかしたら自衛行動などかもしれませんけど。つまり行動原理が従来のパターンとは異なるのです」
「言われてみればーー」
 僕が返事をした。こういう未知の事態への対処は、企画屋としても重要分野だ。
「たしかに不明点は多いです。しかし裏を返せば、全てが不明という訳でもない。相手は自分たちが寄生人間であることを認識しています。つまり行動原理は異なるかもしれないけれども、知性があって言葉も通じる」
「なるほど。と、いうことはーー」
 松野先生は頷いた。
「そうです。応用数学の一分野であるゲーム理論などの適用対象になります。例えば、『大量殺人をすると、その分だけ捜索や捕獲時の取り扱いが厳しくなる』とメッセージを送るのです。衝動的に行動しても、意識のある状態の行動ならば、抑制する手段の一つとなるかもしれません」
「なるほど」
「もしも江島はるなさんが自首しなければ、全ての日本国民に駆虫剤を服用させる手間も惜しまないとメッセージを出すことも一案です。実際には妊婦や子供への適用は難しいかもしれませんけど、そこは向こうが気付かない可能性も高いです」
「たしかに相手に何らかのロジックがあれば、こちらから働きかけることは不可能ではないかもしれませんね」
「そういうことです」
 松野先生は、岩間さんの方へ向いた。
「心理学的にご提供できるアドバイスは、正式にはもう少しお時間を頂戴して、じっくりと確認させて頂くのが良いかと思います。ただし今回は時間がないとなると、今のような視点に基づいて、警察側でも可能な施策をリストアップしておくというのも有効かもしれません。そこら辺になっていくと、僕にはお手上げです。岩間さんにお任せですね」
「たしかにその通りですね」
 渋面になっている。もしかすると組織内の面倒な調整を想像しているのかもしれない。「ただしーー、こう言っては何ですが、『マイナス効果』もあるかもしれません」
 僕は驚いた。たしかに言われてみると、そうかもしれない。先生、今度は視線を僕の方へ向けてきた。
「森さんの表情を見ると、気付かれたようですね。そうです。大量殺人を防ぐことが出来れば、政府の危機感が小さくなる可能性がある。そうすると今度は、対応ペースが遅くなる可能性が生じる訳です。人間というのは、ともかく目の前の事象に反応する傾向がありますから」
「ですねえ」
 思わず、大きく頷いてしまう。
「ともかく相手は知能があります。この点が有利にも不利にも働きます」
「松野先生のご指摘通りで……、カリスマや知恵者が寄生人間になると厄介ですね」
「そういうことです……」
 彼はここで、眉間にしわを寄せた。
「何か気になることがありますか?」
「いえ……、おそらく人間の脳を乗っ取るといっても、寄生生物としての生存本能や増殖本能を植え付ける程度になるでしょう。それゆえに基本的には寄生人間は『人間』であって、『脅迫』といった人間的な手段も有効な訳です。しかしーー」
「しかし?ーー」
 持ち込んだカバンから書類を取り出しながら、松野先生は溜息をついた。
「大学なども狙われる可能性が高いですが……、特定の人物が寄生人間となるのは厄介ですが、さらにそれが集団化すると、本当に困った事態になりそうです。戦争になるリスクもあるでしょう。テロとか戦争とか、もう僕にはお手上げな世界ですね」
「…………」
「それから、もう一つ気がかりなことがあります」
「まだ、あるんですか」
 松野先生、口が『への字』になっている。
「その件は、次のチームミーティングの時に説明することにしましょう。まずはこれ以上、寄生人間を増やさないことでしょう」
 岩間さんと僕は、頷くしかなかった。

.源流

..1

「駆虫剤で簡単に駆除できる!」
「死骸が人体に悪影響を及ぼすことがあり、外科的な手術が必要となることもある!」
「そもそも寄生人間が爆発的に増加して、人間社会が乗っ取られても構わないのか!」
「集団化した場合のリスクは大きい!」
「存在を公にすると、出生率に影響しかねない!」

 いろいろと議論になったものの、とりあえず新種の寄生虫の存在は公開され、性的交渉やキスなどが寄生生物に乗り移られる原因となりかねないことが政府からアナウンスされた。
 また同時に大学や研究機関、国会や政府や自衛隊などは定点観測の対象となり、感染の急激な拡大や大量殺人事件の増加が確認された場合には、政府として徹底的な対策を実施することの決意表明と、それに応じた法整備を進めることが発表された。
 そんな訳で、江島さんは相変わらず逃走を続けているものの、僕の必要性は……全く減少しなかった。
 いや、むしろ、本業に戻ったと言ってもいい。

 それに……寄生人間との格闘戦など、もともと僕の分野ではない。最低限の体力は身に付けるようにしているが、それは結局のところ、頭脳戦も体力が資本になるからだ。体力に引きずられて回らなくなってしまった脳みそでは、出来ることも出来なくなってしまう。
 ともかく骨折した左腕は、全治三ヶ月の診断を受けている。なにかの調査に出かけることだって遠慮したいところだ。

 ところで話を本題に戻すと、今回の寄生騒動のキッカケは彼女だったけれども、元はマッチングアプリで知り合った相手だった。そしてその相手の男性も、女性から寄生されただけの存在だった。
 その女性は、田村照子という名前だった。
 駆虫剤を飲まされて正常状態に戻った男性からは、彼女が単純に魅力的な美人だったというだけでなく、高い知性を持っていたことが判明した。
 そのことを聞いて、真っ先に溜息をついたのは松野准教授だ。
「もしや実験だったのか……」と、彼はつぶやいた。
「いずれにせよ、事件の発端を辿るのは難しくなりましたね」
 そう発言した僕に対して、彼は黙って頷いた。
 おそらく当面の寄生人間の増加や被害への対策が最重要事項なのは、誰もが認めるところだと思う。そしてそれらが一段落した先には、『そもそもどうして今になって寄生生物が人類社会へ登場したのか』という問題が待ち受けていた訳だ。
 彼はずっと、そのことを念頭に置いていたのだろう。
 人間相応の知能があれば、寄生虫狩りという事態になることは分かるだろう。それだったら、例えば『寄生人間の村』を作り、そこでひっそりと存続するのが得策に思える。人間社会で仲間を増やそうとするのは、自己保存欲求よりも繁殖欲求の方が上回るからなのだろうか。
 たしかに江藤はるなと星野裕貴の両名は孤立的な存在だったせいか、当初は寄生人間の繁殖欲求は強いように見受けられた。
 しかしどうやら寄生人間の間でネットワークが形成されたらしき現在、彼らは上手に存在を隠しおおせている。環境への適応が進んだという見方もできる。
 誰か寄生人間のネットワークを管理している者が存在するのか?
 もしかしたら昔から『寄生人間の村』は存在しており、田村照子はそこの出身者で、現在の人類を相手に実験を試みたのだろうか?
 存在するらしき寄生人間のネットワークに、田村照子はどのように関わっている?
 それとも新たに誕生した新種の寄生虫に関して、田村照子は第一号となった?
 まさか人間の時に、高い知能を駆使して寄生虫を誕生させた?
 松野先生は無論のこと、僕にとっても田村照子は無視できない存在だった。
 そして僕の疑問は、彼女自身によって解かれることになった。

..2

 道路の右側にあるアパートの階段てすりに、黒い大きなカラスが舞い降りた。見事なクチバシゆえの攻撃力に警戒の目を向けていたら、後ろから声がした。
「歩きながら前を見ないとは、ウワサ通りの変わり者だな」
 驚いて振り向くと、今まで会ったことのない女性が脇へやって来た。知性的な顔立ちの相当な美人だが、どこかで見たことがあるような気がした。
 肩から小さ目のバックをかけており、両手には何も持っていなかった。とりあえず警戒を解き、どこで見たような気がするのかを辿ろうとした。
「はじめまして、かな。あなたたちが捜している田村照子だ」
「!」
「今は一人か……。ちょうど良い。少し話をしようか」
「……はい」
 手近にあったコーヒーショップへと入る。二人揃って、おすすめのコーヒーを注文する。
「脳に相当な負担をかけるのだが……、人間とは不思議な存在だな」
「ーーいや、あなたには及ばないでしょう。僕の名前はーー」
「森卓也ーー、違うかな?」
「よくご存じで」
「江島はるなから、基本的なことは聞いている。なるほど、お互いに貴重な情報収集の機会らしい」
「いや、僕はあまり役立たないと思いますよ」
「そうかな? ともかく本題に入ろう」
「どーぞ」
 本題?
 そもそもどうして僕が、寄生人間の元祖ともいえる田村照子にナンパされるのだ?
 松野先生がいてくれれば良かったのにーー。残念なことだ。
「まず江島はるなだが、今まで私が保護していた。しかしそろそろ匿うのが難しくなって来たので、手放さざるを得ない。出頭先の調整などをやって貰えるかな?」
「……承知しました」
 一家惨殺した割には、随分あっさりとした結末になるらしい。
「それと……、おそらく私のことを調べていると思うが、私が一番最初の感染となる。信じることは出来ないと思うが、説明しておく」
「もし私があなたの立場だったら、最初の感染だと言いますからね……。ちなみに感染に気付いたのは、いつ頃?」
「……半年くらい前かな」
「何がキッカケで気付いたんです?」
「他の者たちと同じ。気付いたら、寄生生物としての自分になっていた」
「高校の生物学の教師でしたよね。寄生生物に繁殖力を与えようとか、改造……改良は考えませんでした?」
「いや、考えなかった。もちろん私の脳が調べられ、それによって自ら変わった可能性は否定できないが」
 僕は溜息をつき、自分のコーヒーを一口すすった。
 彼女は全く、コーヒーには手を出そうとはしなかった。
「お飲みにならないので?」
「君なら分かるだろう。体の一部を傷つける恐れがある」
 星野さんの口の中で見た、あのミミズのようなものか……、改めて身震いがした。
「しかし君は興味深い存在だな」
「興味深い?」
「むしろ我々に近い存在なのではないかな?」
「そうですか。生まれた時から、こんな感じですよ。ところであなたの寿命は?」
「分からないが、そんなに長くはないだろう。だからコミュニティを形成してみようと考えた」
 そうなのだ。
 昔、祖母の実家で見た回虫は、寿命が数年なのだ。ただし産卵することによって、ずっと人間の子孫が人間の体内に留まり続ける。
 しかし今回の寄生虫は、脊髄から脳に沿って寄生するが、一匹だけなのだ。どうも産卵というよりも、体の一部を切って成長させることにより、個体数を増やしていくらしい。だから現在の彼女をコントロールしている個体は、遅くとも数年後には死亡する可能性がある。その時に脳内で腐ったりすると、一般的な脳寄生虫と同じく障害原因となってしまう。だから『世代交代』みたいな儀式をすることになる……らしい。
 研究チームが考えたのと、同じ結論に至っている。さすがは田村照子といったところだろうか。
「私から見ると、あなたこそ興味深い存在ですね」
「そうかな」
「もともと高い知性と知能を持っていて、それが寄生によって底上げされている。必要に応じて体力や思考力をフル活用できる。もちろん、無理をした分だけ休息や療養期間が必要になるでしょうけど」
「その通りだ。見たところ、君も可能なようだな」
「……」
 僕は返事をしなかった。その通りだけれども、わざわざ敵に手の内をさらす必要ない。
「……それより、あなたをリーダーだと考えて良いのでしょうか?」
 彼女はしばらくの間、無表情になった。
「君の考えるリーダーの概念と一致しているかは分からないが、おそらく『イエス』だろう。皆は私の判断や決断に従う傾向がある。もちろん、いつもそうだとは限らないが」
「……なるほど」
 それにしても彼女が孤高の存在だというのが事実だとしても、あまりうれしくない。これほど優れた存在は、そうそうお目にかかることができない。絶対敵に回したくないタイプなのに、今は敵味方の関係だ。
「ところであなたのような方に伺えると嬉しいのですが、星野さんや江島さんのような大量殺人って、どうして生じるのでしょうか。特に星野さんは包丁まで持ち歩いていたそうで、それがノーマル人間側としては懸念事項になっているんですけど」
「ああそれかーー」
 ようやく、彼女はぬるくなったコーヒーに口をつけた。
「それは防衛反応の一種だと言って良いだろう。特に寄生した直後は、どうしても寄生前のように振る舞うのが難しく、無表情になりがちだ。それで診察ということになると、寄生が判明して駆虫剤を投与されかねない。その恐怖心が引き金となって、周囲を攻撃して自己防衛するということになる……私にしても基本は寄生虫の原始的な生存本能が支配している。虫としての存在が怯やかされることがあったら、武器を持って暴れかねないよ」
 彼女はそう言うと、僕の目を見て少しだけ微笑んだように見えた。
「なるほど……。それで適応が進むと、暴発するリスクは低減する、と」
「その通り。特に寄生直後は人間の脳をコントロールするのに慣れていないし、人間もコントロールされるのに慣れていない。それで君のいう『暴発』となる訳だ」
「あなた随分と、人間としての思考力が残っているみたいですね」
「偶然コントロール力の弱い個体に取り付かれたのと、もともとの素材が良いからだろう。そもそも寄生虫が人間の脳をコントロールするというのは正しくない。せいぜい感情を操る程度が精一杯さ」
「なんだか寄生というよりも、共生に近い感じですね」
「元の人間に選択権はないがな」
「なるほど」
 なかなか興味深い話を聞くことが出来た。やはり寄生された人間が優れていると、分析にも深みが増す。しかし人間側としては、もう少し情報が欲しいところだ。
「繰り返しになって申し訳ありません。これは相互利益になると思うのですが、寄生された理由に心当たりは全くないのですね。どこかに旅行に行ったりとか」
「高校の生物教師だから、それなりのところには行ったさ。ただし海外はない。それに君は気付いているようだが、田村照子は本名ではない。その状態で海外旅行したことを明かせば、私の身元を明かすことになる。ただし私としては、『本当に海外旅行したことがないので信じて下さい』としか言えないな」
「……ありがとうございます」
 彼女は背伸びをするような仕草をした。生殖器から脳まで脊髄に沿って横たわっているならば、姿勢によっては窮屈に感じるのかもしれないーーあまり分かりたくないことだ。
「大体こんなところかな」
「そうですね」
 そして田村照子は立ち上がると、店から出て行った。僕としては左手はギブスでガチガチだし、大人しく見送るしかなかった。
 それにーー、おそらく彼女は尾行をつけたとしても、並の人間では逃げられてしまうだろう。そういった訓練は、十分にやっているように見えた。
 彼女のことだから、SPのような者も『仲間』に引き入れたような気がする。

..3

 数日後、田村照子から僕の会社携帯に電話があった。
「残念だが江島えりなを出頭させることは無理だった。身動きできない状態にしておいたので、引き取りに出向いて貰えるとうれしい。場所は……」
 僕はメモを取り、岩間さんに渡した。
 警察ではただちに部隊を編成し、連絡のあった場所へ向かった。その結果、本当に身動きできない状態になっている彼女を確保することが出来たそうだ。
 残念だがその後のことは知らない。
 駆虫剤を投与すれば、元の彼女に戻ることが出来るだろう。しかし家族を惨殺したという記憶は、寄生虫が去っても記憶に残り続ける。そのことに彼女の精神が耐えられるか――、おまけに自己管理能力が無かったとはいえ殺人を犯した訳である。一定の法的手続きを踏む必要があるだろう。
 むしろ僕は出向中であり、一刻も早く寄生虫騒動を片づける必要があった。彼女のことを誰も僕に説明しないのは、温情の一種なのかもしれなかった。
 それにしても田村照子は多くの情報を提供してくれた。
 ただし彼女が『はじまり』だというのを、どこまで信じられるだろう?
「残念です。森さんが会話を録音できれば良かったんですけどねえ」
「左がギブスで固められているし、許可もらえる雰囲気じゃなかったです」
 そんなやりとりを、松尾先生や岩間さんと交わした。
 ともかく田村照子は、『人類の天敵』というラスボス感があった。
 個人的には、実に貴重な経験だった。
 まさか自分の特性まで見抜かれるとは思っていなかった。ウワサ通り、恐ろしく高い知能と分析力を持っているらしい。

 それから……もしかしたら、彼女は僕を救おうとしてくれたのかもしれない。
 僕が江島えりな事件を暴いたことにより、彼女には逃げ道がなくなった。寄生人間コミュニティとしては、彼女を匿うことにより、人類から追求の手が厳しくなるリスクが増えた。
 だから最終的には、田村照子も彼女を引き渡さざるを得なくなった。彼女しては、寄生人間が人類の敵だというイメージは歓迎できるものではない。たとえ事実がそうであっても、社会的なイメージは大切だ。
 それに僕が星野さん逮捕のキッカケを作ることによって、寄生人間の問題は大きく進展した。ただし問題が明らかになることにより、人類社会が抱えるリスクも増大した。もう少しスローペースで隠密裏に物事が進めば、政府の対応も楽だったかもしれない。
 好むにせよ、好まざるにせよ、社会に大きな影響を及ぼした――場合によっては、人類滅亡の引き金を引いてしまったのかもしれない。そういう見方をすると、『君も人類の敵』と言われると、一概に否定はできない。
 僕としては、エラい迷惑だ。

「ともかく早く田村照子を捕らえて、その寄生虫を分析する……ですかね。DNAを解析すれば、同じ個体の株分けみたいなものであるにしても、相関関係が分かるかもしれません」
 寄生虫に関する専門家として合流した古浜隼人博士が説明してくれた。ちなみにこの御方、風貌は完全なマッド・サイエンティストだ。どうやら中身も外見にたがわず、マッド・サイエンティストらしい。
「それにしても……本当に興味深い生物です。今まで集中力不足で困っていた人などは、こいつに寄生されて脳をコントロールされれば、一気に問題解決する訳です。恐怖を感じない兵士を生み出すことも可能かもしれません。今までは脳に直接影響を与えるのは難易度が高かったし、薬物にも限界がありました。それをナノマシーンみたいに脳の反応を見ながら精密コントロールすることが出来れば、人類はさらに進化の階段を上ることが出来るかもしれません」
「……それ、問題発言では?」
「いやいや、あくまで目的達成の一手段です」
 うーん、こちらは『人類の敵』ではないのだろうか?

 しかし確かに、この調子では『寄生虫で自己管理を!』と、なりかねないような気もする。徐々にだけれども、世の中が変な方向にシフトして気がしないでもない。
 しかし長いものには巻かれるしかない。とりあえず、僕は寄生人間に関して寄せられてくるレポートに目を通すと同時に、生成AI……人工知能にデータをインプットするのだった。

増殖する花嫁
.人類との戦い
..1

 内閣官房へ出向となって三ヶ月が経過した。
 当初は勢いの良かった寄生生物と寄生人間に関する調査や対策も、徐々に停滞を見せるようになってきた。
 特に寄生人間は周囲の環境に慣れたことや、田村照子の言うところの『ネットワーク化』により、新たに発見して確保するのが難しくなって来た。
 対策室では現状を打破するため、何とかして田村照子を確保できないかという議論が交わされた。
 しかし僕はさておき、優秀なメンバーが揃っているとはいえ、相手は頭脳明晰で経験豊富な田村照子である。おそらく関東地方のどこかに潜伏しているとは予想されるのだが、全く痕跡を見つけることが出来なかった。
 日本では指名手配された場合の検挙率は驚異的だけれども、彼女の場合は例外のようだった。僕とコーヒーショップで会った現場以外の目撃情報が皆無なのだ。

 その日も霞ヶ関に設置された非公開の職場を出て、とぼとぼと自宅へと向かう。自宅の最寄り駅に到着して、自宅を目指す。座ってばかりで、足も退化したような気がする。足取りが重い。
 と、後ろからひたひたと追いかけてくるような足音が聞こえた。思わず振り向くと、女性がこちらへ近づいて来るところだった。
「江島さ──」
 言葉が途中で切れる。
 全力で体を捻ったが、あぶないところだった。
 包丁を手に握りしめて、突撃して来たのだ!
 女性は江島はるなさんだった。今まで社内で後悔した画像や、自宅の電話番号などで、最寄り駅を調べたのだろう。
 僕に避けられて、たたらを踏んだ彼女は、再び僕の方へと向き直った。
 ……目がすわっている。本気だ。
「あなたさえ──」
 ん?
「あなたさえいなければ、私は苦しまずに済んだのに!」
「江島さん……」
「どうして私を元に戻したのですか!」
「そう言われても……」
 田村照子から引き渡されてから後のことは、全く関与していない。さぞ家族を殺害してしまったことを苦しんでいるだろうとは思っていたが、どうやら僕の予想は甘かったらしい。
「私は寄生虫に乗っ取られていた間のことを、全て覚えています!」
「…………」
「家族を包丁で刺し殺した手応えも、ちゃんと覚えています……覚えているんです!」
「そうか……」
「あなたが田村照子と話を付けてしまうから……ふつうの人間に戻してしまうから、こんなに私は苦しいんですっ!」
 会社だとカウンセラーがセラピーしてくれるけど、さすがに今の日本でPSTDなどのカウンセリングは難しいか……
 いや、他人事のように考えている場合じゃない。
 彼女は再び僕の方へと突進して来た。
 目を凝らし、タイミングを計り、左手のギブスで包丁をはじく。彼女は涙で目がかすんでいたようで、僕が横ステップで逃げたのを追いかけきれなかった。
 あぶないところだった。
 なんとか包丁を叩き落とすことに成功した。
 あわてて包丁を拾いに行こうとする彼女の腹を、ケガのない右腕で抱え込む。
 ものすごい力だった。寄生人間と化していた時と変わらないような気がする。寄生されている時の影響が残っている訳はないので、全て彼女の意志だ、執念だ。
 おそらくは、僕を殺してから、彼女自身も自殺するつもりなのだろう。昔の明るくほがらかだった頃の面影は、全く残っていない。
 ああ、そうか。
 地獄のような経験をしたのに、それでも僕は平然と立ちあがった。もちろん完全には立ち直っていなかったけれども、とりあえず笑顔は取り戻した。会社を休むこともなかった。
 たしかに僕は『人類の敵』なのかもしれない。田村照子が指摘したように、不完全な心しか持っていない。だから僕が悲しみによって立ち止まることはない。
 普通の人間は彼女のように、自分で家族を殺したことを忘れることができない。精神安定剤などの薬を服用してもダメだ。
 寄生虫に脳を……感情をコントロールされない限り、苦しみから逃れることはできない。ここで今こうして半狂乱状態で泣き叫んでいる彼女こそが、正常な人間だ。
 言葉での説得は通用しないだろう。こうなったら、柔道のように『締めて落とす』しかないだろうか……。さすがにそこまでの技術は、高校柔道では習っていない。
 僕はひたすら、彼女と揉み合いを続けた。
 そして十分くらいして警察官が通報されてやって来てから、ようやく取っ組み合いから解放されたのだった。

..2

「大変でしたね」
 翌日仕事場に顔を出した僕は、岩間さんに慰められた。
 さすがは情報通だ。
「たぶん寄生虫から解放された人たちは、大なり小なり、似たような感情を味わっているんでしょうね」
 そんな風に会話しているところに、松野准教授がやってきた。心なしか、少し疲れているように見える。
 いや、気のせいじゃなかった。
「江島さんの件、僕も連絡をいただきました。さっそくPSTD的なケアプログラムの見直しを実施しました」
 ケアプログラムとは寄生虫を取り除いた後にやって来る後悔や悲しみやパニックを癒すためのカウンセリングなどのことだ。米国などの戦争経験者が心に傷を負うことが多く、それを治療とはいかないまでも、心の苦しみを軽くするために実施される。数年がかりになることが一般的であり、それを全体に渡って見直すとは、半徹に近い苦労が必要だっただろう。
 想像するだけで、頭が下がる。
「おつかれさまです」
「いえいえ──。森さんこそ、昨晩は眠れなかったんじゃないですか?」
 ……図星だ。さすがに元同僚に命を狙われて、ぐっすりと眠れるほど、神経は太くない。図太いけれども、いちおう人間だ。
 すでに人類の範疇を、半分くらいは踏み外している気が、しないでもないけど。
「ともかく無事で何より!」
 岩間さんが言ってくれた。
 しかしその数時間後、僕は再びトラブルに見舞われることになった。

..2

 昨日の今日なので、僕は駅から自宅までの道を、昨日とは別ルートに設定した。
 しかしそんなささやかな工夫は、またしても後ろから追いかけるように聞こえてくる足音に踏みにじられた。
 振り向くと、そこには包丁を持った男性が歩いていた。包丁男子……そんなことを言っている場合じゃない。逃げる途中で、後ろからバッサリやられるのは趣味じゃないので、またしても向かい合う形になる。
「失礼ですが、どちらさまでしょうか」
「沖川総司です」
「あっ」
「お分かりになりましたか」
 『お分かりになりましたか』と言われたものの、全然わからない。
 いや沖川総司と名乗る男性の正体が分からないんじゃない。彼が僕を包丁で狙う動機が分からないのだ。
 何とか二世あたりだと、動機を最重要視するが、その動機が分からない。なぜなら沖川総司なる男性は、最初はまっちんぐあぷりで田村照子と付き合っていたことが記録されている男性で、彼女によって寄生人間にされてしまった。その後で江島はるなさんと付き合うようになり、彼女を寄生人間にした。
 したがって今の僕は、『まな板の上の鯉』という状態に加えて、三択を迫られているようなものだ。一つ目は田村照子を捕らえようとすることをケシカランと思われている可能性で、二つ目は彼を人間に戻してしまったことを恨まれている可能性、そして三つ目は江島はるなを人間に戻すことによって苦しめてしまった可能性だ。
 こういう時に素直に尋ねることが出来るのが、僕の特技だ。
「あの、どういう理由で私が沖川さんに命を狙われるのでしょう?」
「その態度!」
「はい」
「その抜け抜けとした態度が、実に腹立たしい」
「そう言われても……」
「あなたは私の愛する江島はるなさんを苦しめた。彼女から聞きました」
「そうですか……」
「そして私を強制的に普通の人間へ戻して、同じように苦しめた。それがどれほど辛く苦しいことか、あなたには分からないでしょう」
「それは……」
「言い訳は聞きたくないです!」
「……はい」
 いや沖川さん、あなたには声を大にして言い訳したい。そもそも僕は、あなたの事案とは無関係だ。いや、最初は江島さんがマッチングアプリで誰かと付き合った可能性くらいは指摘したけれども、その後で実際に付き合った相手を特定する作業を遂行したのは警察だ。沖川さんに駆虫剤を投与する決定にも全く関与していない。
 ──いや、待てよ。こういう思考をしていることが、『言い訳』なのかもしれない。たしかに沖川さんの方が正しいのかもしれない。
「それから──」
「あなたは私の敬愛する田村照子さんを捕らえようとしている。それも許せないことです」
「…………」
 うーん、『敬愛』と来ましたか。
 それにしても最初は田村照子さんと付き合っていたところを寄生人間化され、その後で実験のために放置されて江島はるなさんと付き合うようになった経緯があっても、『敬愛』となるのか。
 結局のところハンバーガーのダブルどころかトリプルな理由を列挙されてしまったけれども、ともかく彼にとって僕は『許し難い大悪人』らしい。こちらとしては、たまったものではない。
 しかし昨日の江島さんもピンチだったけれども、沖川さんは激ヤバだ。どうしても、今の彼から無事に逃れることのできるイメージが沸かない。なんとか主導権を取らないと、万事休すとなりそうだ。
「沖川さん……、あなたには、まだ使命が残っているでしょう。こんなところで油を売っていて、構わないんですか?」
「使命……、寄生人間を片端から片付けようとする君を抹殺する以外に、どんな使命があるというんだい?」
「そこですよ……。僕を抹殺しても、単なる末端の存在を消去するだけに過ぎない。あなたは再び、田村照子さんと会って、寄生人間になることを目標とするべきではないでしょうか」
 とりあえず彼は逆上しているけれども、まだ聞く耳を持っていそうだ。付け入るならば、そのあたりだろうか。
「彼女と会う方法がない。だから、はるなから連絡もあったことだし、君を抹殺するという貢献方法しか残っていないじゃないか!」
「そこですよ。あなたは、はるなさんのために生きているんでしょう。今の彼女から苦しみを取り除くには、彼女も再び寄生人間化するのが最善策でしょう。そうすると田村照子さんと会う方法を、何としても見つけることが大切でしょう。一度会ったことのある僕であれば、もう一度会う可能性があるかもしれない。そういうヤツを、アッサリ殺してしまって大丈夫でしょうか」
「……しかし、君には彼女と会う方法を知らない」
「僕が彼女と会ったこと……、それは偶然だったと思いますか?」
「!」
「彼女が僕と会う場合、いくつかのパターンが考えられます」
「…………」
 僕は彼が言葉にできない状況にあることを見て、言葉を続けた。ここが演技力を発揮する最重要ポイントになりそうだ。
「一つ目は彼女が僕に会う必要性を作ること、二つ目は偶然会うように仕向けること、三つ目は僕が彼女を見つけることです。特に一つ目は、今まで検討されたことのない方法です。ここは僕を通じて彼女と会うことを考えて、僕の見逃すことにしませんか?」
「……だめだ」
 えっ?
「彼女からも君のような説明を受けた後に、彼女と会えないようになってしまった。やはり君は彼女に似ている。それよりは、まずは君に退場してもらうようにしよう」
 そういうと、彼は刃物を握りしめた。これは一直線に突っ込んで来そうだな。江島さんのように手から離した持ち方じゃなくて、体のすぐ脇に置いて、体ごと体当たりして来そうだ。
 仕方がない。
 とうとう沖川さんが、刃物を持って突っ込んできた。
 僕はその動きを見極めて、ギブスで骨盤の脇あたりを狙わせる。骨盤に当てて逸らせば、内臓や血管が致命的に傷つくのを防げるかもしれない。
 あとになって医者から散々お説教されたけれども、僕の素人考えは根本から間違っていたらしい。
 しかし人体への理解不足という致命的課題はあったけれども、結果からいうと、何とか刃物を致命傷となる場所から逸らすことに成功した。
 腰のあたりに鋭い痛みを感じつつも、左手で彼の腕を掴みながら、付き出した右足で彼の足を引っかける。
 包丁を避けるために腰が少し引けていたものの、柔道の体落としだ。高校の時にイヤというほど練習させられたが、この歳になって役だったくれだ。そうか、背負い投げとか一本背負いといった派手な技では無かったのは、護身術として使うためだったのか……。
 しかし傷は思ったよりも深かったらしい。
 包丁が彼の手から放り出され、倒れた彼の上に僕が押し乗ったために皆が協力して取り押さえてくれたけれども、それが限界だったらしい。
 目が覚めた時には、診察台の上に寝かされていた。
 出血というよりはショックにより、気を失ってしまったらしい。
「ケガをした体で無理はしないように。下手したら命を失っていましたよ」と、ケガした場所を縫い合わせてくれた医者は言った。

 そんな訳で僕はメンタル的には十分強かったものの、物理的なケガにより、入院することになってしまったのだった。
 ……こうやって見ると、寄生虫問題への対応にしても、結局は僕が最も必要としている『コミュニケーション能力』というヤツがモノをいうらしい。徐々に自分の限界を感じ始めた。

.寄生人間の子ら
..1

 沖川総司氏に刺されてから二週間後、僕はようやく病院を退院して、仕事場に復帰することが出来た。
「やあ、ひさしぶり。体調は回復したかな?」
 そう言って、岩間さんが迎え入れてくれた。
 しかし久しぶりに復帰した職場は、随分と様変わりをしていた。以前は大きめの机が四つで、その上にはノートパソコンしか置かれていなかった。
 それが今は、六つの机で島を作り、それが二つある。室長席も用意された。ギリギリまで運び込んだというイメージだ。そしてそれらの机には、僕の知らない人々が座っていた。いきなり八名に挨拶されても、そんな急には名前を覚えきれない。おまけに全員が似たような印象だった。僕とは対極的で、物静かでしなやかな動きをする。格闘術もできそうだ。
 つまり人混みに紛れて怪しい人間を追跡し、逮捕するのに向いている。
 そして壁には、幾つもの大型モニターが設置されていた。
 どうやら、寄生人間のコミュニティを見つけだすつもりらしい。

「政府として方針が変わって来てね。慎重に物事を進めるのではなく、まずは寄生人間のコミュニティを叩いて弱体化を図ることになった。その代わりに根絶はあきらめ、社会的なパニックを押さえつつ、経済を今まで通り回そうという腹積もりらしい」
 松野先生が教えてくれた。
 僕はAIを扱える技術者でもあるので、当面はそのまま仕事を続けることになった。政府としては国家存続の危機に面している可能性もあるものの、だからとって無尽蔵に予算を割り当てる訳にはいかないらしい。
「これが現実というものだねえ」
 基本的に科捜研で予算に苦しめられてきた岩間さんは、こういうお役所的な対応はお馴染みらしい。
「こうやって実社会ってヤツを経験すると、メーカーという企業はシンプルですね。モノを作って売るだけで良い」
「警察だって、似たようなものさ」
 彼は苦笑した。

 それはともかく、新手の寄生虫や寄生人間への対応が変わって来たのは確かだった。
 当初は未知の驚異ということで、どちらかというと僕たちによる調査や分析と、警察による人海戦術の現場対応が重視されていた。しかし一定期間を過ぎると、社会は状況に慣れてくる。
「今日が大丈夫だったから、明日も大丈夫だろう」という、数学的には根拠のない思い込みだ。現実にはジワジワと寄生人間サイドが社会を支配しつつあるのかもしれないけれども、目に見えなければ誰も気にしなくなる。
 三十年後の世界より、今月の生活費と食事の方が重要だという訳だ。そうやって日々の生活に忙殺され、人は現実というものが見えなくなる。いや、たしかに今日明日の生活は重要であり、それもまた現実ではある。
 それに寄生人間が刃傷沙汰に及ぶことも減ってきた。そうすると人間としては、「急に命を奪われるリスクは無くなった」と安心する者も出てくる。どうやら寄生人間も、新たな犠牲者……寄生人間に対して、最初のうちは環境適応ケアをするようになったらしい。それから、寄生させる人間やタイミングも、寄生後に多人数と接することが無いように配慮するようになって来たらしい。どうも個人的には田村照子が先導しているような気もするが、そこら辺の事情は分からない。なにしろ、新たに事情に詳しい寄生人間を捕らえることが激減してしまったのだから。
 おまけに社会全体への寄生虫の感染状況を把握する方法が、徐々に確立され始めた。三十半ばを過ぎた日本人は、人間ドックを受けることが一般的だ。この時にCT検査も実施される訳だが、その際に脊髄などを確認することにより、寄生虫の有無を確認できるようになった。
 学生は入学時の健康診断などで、CT検査も実施されるようになった。さすがに学校の保健室でCT検査を採用するのは難しかったが、学生は親との接触に加えて、友だちとの交流がある。もちろん感染ゼロは無理だが、ある程度は把握できるようになって来た。また寄生人間が駆虫剤によって昔の生活に戻っても、パニックになるようなことが無くなった。
 まるで寄生虫と人間が、双方から互いに共生の道へ歩み寄ったようにも見える。
「人間というのは基本的に怠け者だから、寄生虫が人間の感情をコントロールできれば、たしかに集中力アップなどは期待できる。親が子供に寄生した虫をコントロールできれば、受験などでは役立つだろうね……都合の良い見方をしたら」
 そんなことを松野先生がつぶやく日もあった。どうやら大学受験で試験官をやることがあって、会場で泣き出してしまった子がいたらしい。
 ちなみに松野先生がつぶやいた時には、世間でも「寄生虫を上手に利用する道を研究したらどうだろうか」という声が上がっていた。これが極端になると『恐怖を感じないロボット兵士』となるので単純な話ではないけれども、単純にしか考えることのできない人間もいるらしい。
 いずれにせよ、寄生虫と人間の関係は、徐々に変化しつつあった。

 そんなある日のことだ。
 珍しいことに、僕の携帯がなった。
「はい森ですが……」
「久しぶりだな。私だーー」
「田村照子! その通りだ。君らでいうところの田村照子だ」
 思わず体が固くなる。スピーカー設定に切り替え、全員が聞けるようにする。
「いろいろと聞いてみたいことがある」
「逆探知など、いろいろされるだろうな……。今日連絡したのは、君に頼み事が出来たからだ」
「頼み事?」
 思わず岩間さんや松尾先生と、顔を見合わせる。
「どうせ君らのことだ、一人で来いと言っても無理だろう……。明日12日月曜日の午後三時に、東京駅にある『銀の鈴』広場まで来てほしい」
「目的は?」
「来れば分かる。いいか、誰が来ようと気にしないが、絶対に君は来てほしい」
「わかった」
 思わず松尾先生が、『大丈夫か?』という表情で、僕の様子をうかがう目をする。僕は黙ったまま、『大丈夫だ』という表情で頷く。
「それでは明日」
 そういうと、電話は切れた。
 しばらくの間、誰も身動きすることが出来なかった。
 その気になれば、いつでもこちらのスキを窺って会うことはできるだろうに……、彼女ならば一瞬で僕を殺せるだろうに……、一体なにを狙っているのだろうか?
「逆探知は無理だった」
 岩間さんが、自分の携帯を切りながら言った。
「森さんには気の毒だけれども、ともかく行ってみるしかないでしょうね」
「そうですね」
 実際に田村照子に会ってみないと、彼女が何を考えているのかは分からないだろう。そして何を考えているか分かった時には、愕然とさせられているという寸法だ。おそらく殺されることはない。彼女が僕を殺したところで、寄生人間たちに得るものはない。
 疲れている頭では、とっさにロクな知恵も出てこない。僕は寄生人間じゃない。
 とりあえず寄生人間に関するクラスタデータ分析も一段落しつつあったので、その日は早めに上がらせて貰うことにした。また彼女自身はともかく、彼女の周囲は僕を許そうとしていない者も多いかもしれない。その日は自宅まで護衛をつけてもらった。

 職場のある霞ヶ関のビルから、東京駅までは数分の距離だ。
 指定された時間の三十分前に、僕は職場を出た。午後三時だから、当然ながら周囲は明るい。しかし油断は禁物で、周囲に気を配りながら歩いた。特に尾行はない。
 銀の鈴という待ち合わせ場所に着いた時には、不覚にも三時近くになっていた。田村照子は、既に到着していた。
 寄生人間であろうとなかろうと、女性を待たせるのは趣味じゃない。
「申し訳ありません。遅くなりまして」
「いえいえ、呼び出しのはこちらだから」
 彼女は艶然と微笑んだ。ただでさ美女なのに、寄生虫による感情コントロールにより凄みが増している。元高校教師だと聞かされたら、殆どの人間が驚くことだろう。
「ところで今日のご用件は?」
「そうね、手早く済ませましょう」
「そこら辺の喫茶店に入りますか?」
「たぶんそれは無理よ」
「えっ?」
 喫茶店に入るのが難しいって、いったいどういうことだろうか。むしろこちらは、寄生人間の巣に連れ込まれかねないことを心配していたのだけれども。
 そんな僕の困惑を察したのか、彼女はすぐ脇に置いてあったものに手を出した。そして静かに手元へと引き寄せた。
 驚いたことに、それはベビーカーだった。さらに驚いたことに、中には赤ん坊が存在していた。
 赤ん坊を運ぶのがベビーカーの役割とはいえ、どうして田村照子が使っている?
「ふふふ、驚いた?」
「驚いたというか、何が何だか分かりません」
「そう、あなたでもパニックになることがあるのね」
「人間ですから」
「私の子よ」
「!」
『男子三日会わざれば刮目してみよ』という諺があるけれども、思わず『女性は魔物』という言葉も諺に加えたくなった。前回会った時には、全くそのような気配は無かった。貴様が鈍いと言われれば全く反論できないけれども、いずれにせよ、それどころではない。
 ベースが人間だから、寄生虫の繁殖とは関係ないけれども、人間としての生殖本能が存続しているというところだろうか。それとも、まさか、生まれてくる子供も寄生人間……。「安心して、この子は普通の人間よ。寄生されていないわ」
「そうですか」
「まだ赤ん坊で、体内に余裕がない。この状態で寄生虫が入ったら、生死に関わるわ」
「なるほど」
 まるで教師から授業を受けているような気分になる。たしかに元教師だけれども。
「今日来て貰ったのは、この子を預かって貰いたいから」
「私たちで預かるんですか。いったいどうして?」
 彼女は微笑んだ。
「いくつか理由はあるけれども、最大の理由は、私の寿命が近いから」
「寿命?」
「前に話さなかったかな。寄生虫の寿命は、長くて数年。死骸を放置すると腐って悪影響を及ぼす可能性があるから、外科的手術で取り除くか、新しい寄生虫で食い尽くす必要があるの」
「その後のあなたは、今までの田村照子のまま?」
「驚かないで欲しいけど、何名かの例を見ると、別人になる可能性もある。原始的な寄生虫が人間の脳に影響を及ぼすに過ぎないとはいえ、それなりに共生関係になるらしいの」
「そんなものですか」
 僕は面食らった。
「残念そうな顔をしているわね。そうよ。だから寄生虫によって、人間を都合の良いようにコントロールできるようになる可能性がある。聞きたくなかった話でしょ」
「ええ、あまり聞きたくなかった話ですね」
「あなたたちも最近は、一枚岩ではなくなって来たようだしね。もっとも、私は完全に寄生人間コミュニティから外れてしまったけれども」
「どうして?」
「人間と同じ。寄生人間にとっての目先の目標は仲間を増やすこと。その目標とは関係なく、人間と寄生虫の関わりを研究する私は、歓迎すべからざる存在となってしまう」
「…………」
「だからこの子も、君らに託さざるをえない。仲間に渡すと実験台にされてしまう」
「しかしそもそも、あなた自身が実験として妊娠してみたのでは?」
「……そうかもしれない。しかし動機は何であっても、今の私はこの子の安全が第一となっている。そして残念ながら、私が私のまま育てることはできない」
「あなたが人間サイドに付くことはありえない?」
「笑えない冗談だな」
「そうかな」
「私は寄生虫の増殖メカニズムを解明し、この世に寄生人間を大量発生させてコミュニティまで構築してしまった。その私がたとえ邪魔者扱いされたからといって、寄生人間を駆逐する側に回ったら、どうなると思う?」
「たとえば僕がここで逮捕して、寄生虫を駆除した場合は?」
「その手も使えないな。寄生虫を駆除されても、記憶は残る。それを利用して世代交代システムを考案したのは私なのだよ」
「しかしそうしたら、僕がこの子を受け取った後、あなたはどうする?」
「もう寄生虫の寿命も長くない。共にこの世から消えることにするさ」
「わざわざ自分から死に急ぐ必要もないだろう」
 ここまで話が来たところで、田村照子はじっと僕の目を見つめた。
「分かっていないな」
「分かっていない?」
「ああ……、私は十分に生きた。これ以上の人生を続けたとして、何の意味がある?」
 そういうことかーー。
 僕は深く溜息をついた。彼女は元高校の生物教師だった。
「寄生虫以上に興味を持てる存在が誕生しないと思っているのか?」
「そういうことだ。私にはもともと、人間という種としても個人としても、自己保存という考え方はない」
「ある意味で寄生人間になったのは、必然だったという訳か」
「その通りだ。そして寄生人間に対しては、今も愛情に近い感情を抱いている。私がいなくなったら、寄生人間は烏合の衆と化すかもしれない……。か弱い存在なのだよ。あまりいじめないでやってくれるとうれしい」
「神出鬼没で油断すれば世界中が寄生人間になりかったのに、『か弱い』か」
「恐いのは『普通の人間』だよ。自分たちとは異なる存在は、本能的に排除しようとする。その執念の前には、寄生人間など大したことはないさ」
 たしかに彼女の言う通りだ。
 天才が世の中を変えるかもしれないけれども、その天才が最後まで楽しい人生を送ったというのは、あんまり聞いたことがない。むしろ、不遇のうちに一生を終えたという話を聞くことの方が多いくらいだ。
「本当に大したことはないなーー、見てみろ。私のお迎えが来たようだぞ」
 気がつくと、深夜でもないのに、ぼくたちの周囲から人影は消え去っていた。そして各通路から、武装警官とおぼしき集団が駆け込んできた。
 それと同時に、遠くの方を歩いていた人々が走り去っていく。どうやら旅行者や通勤者ではなく、予め用意されたサクラであったらしい。
 ーーいったい誰が?
「そこまでだ、田村照子。いくら寄生人間の頂点に立つ者でも、この包囲網は突破できない。大人しく指示に従って頂こう」
 指揮官らしき者が、部下たちと一緒に拳銃を構えながら駆け込んできた。寄生人間とはいっても体は普通の人間だから、人間として重要な臓器を撃たれれば簡単に命を失う。寄生人間の強みは人間の潜在能力をフルに活用した反射神経、筋力などのパワー、体力に過ぎない。銃弾には弱いのだ。
 しかしここで、田村照子は不思議な動きに出た。
 ベビーカーを僕に渡すと、指揮官に向かってゆっくりと歩き始めたのだ。驚いて指揮官が叫ぶ!
「止まれ! それ以上近づくと一斉に射撃する!」
 その声に合わせて、指揮官の率いる一団は、射線に僕たちや他チームのメンバーが入らないように移動した。そして各通路から突入して来たチームも、田村照子に照準を合わせた。低い位置から頭を狙う者もおり、それならば確実に流れ弾の心配はなさそうだった。一糸乱れぬ集団的行動だ。やはり人間というのは、大したものだ。
 しかしそんな人間たちの行動などおかまいなしに、彼女は歩き続けた。
 そして指揮官チームの背後にはーー誰も存在しない空間が存在していた。彼女を狙おうとするあまり、全員が前に出過ぎてしまったのだ。銃というのは案外と不便で、ある程度の距離があって移動するものを撃つことは難しい。……たとえそれが機関銃でも。

 そして威嚇射撃は意味をなさないように見えた。
 もはや彼らにできることは、田村照子を撃つことだけだった。
 指揮官は腹をくくった。
「各個射撃、開始!」
 そういうと、彼は引き金にかけていた指を引いた。銀色ではないけれども、寄生人間にとっても致命的な、鉛の銃弾が田村照子の胸に当たる。
 続いて、何発もの銃弾が、彼女のアチコチに命中した。頭部にも命中した。

 そして田村照子は、静かに息を引き取った。
 あとには僕と、彼女の子供だけが残された。

..2

 水しぶきを浴びて、僕は一歩だけ足を引いた。
 いきなりそんなことをいうと驚かれるかもしれないが、僕は伊豆半島の沖合いにある左内島というところへ向かっていた。幸いそこそこの規模であり、一日に二回ほどフェリーが運航されていた。
 左内島は太平洋に面しているーーというか、太平洋の中にある。気のせいか、波の勢いも東京湾とは違った。いったいどういう人々が住んでいるのだろうか。
 少なくとも田村照子は、その左内島の出身者とのことだった。そこで僕は彼女のルーツを知るべく、わざわざ左内島へ向かっているという訳だ。
 私が初めての寄生人間……、残念ながら、僕は彼女のいうことをそのまま信じるような、純真な若者では無かった。彼女は子供を出産していたが、もちろん寄生虫が精子を提供したハズがない。僕を襲った沖川総司が相手ではないことが判明している。
 同じ職場の江島えりな嬢は花嫁となることを目指していたが、すでに田村照子は誰かの花嫁だった訳である。いやそのように考えるのは古風かもしれないが、少なくとも彼女が実験のために適当な男性と性的交渉を持ったとは考えにくい。
 予想外に増えてしまった花嫁のルーツを探るべく、僕はまず左内島へ向かっているという訳だ。

 ちなみに現在は、既に内閣官房の肩書きはなくなっている。
 もともとは僕の勤めていた職場で生じた寄生人間による大量殺人事件が世間を騒がせた発端だけれども、定期的な自主的CT受診などにより、感染が広まっていないことが判明した。僕はAIを駆使した調査や分析を専門としていたこともあって内閣官房への出向となったが、それらの仕事は無事に立ち上がり、後任者たちへの引き継ぎも終わった。未知で道のないところに道を作ることが僕の仕事だけれども、終わってしまったら用済みだ。僕としても知的好奇心はそそられない。
 おまけに田村照子の一件がある。彼女のように理知的な女性に関心を持って頂けたのはうれしいことだが、政府としてみれば寄生虫対策で信用できるのか不透明に見えてくるのは仕方がない。
 せっかく知り合った岩間さんや松野准教授に別れを告げるのは寂しかったけれども、部署も大所帯となってしまった。そういった大規模組織の一員として……正確な歯車として動くのは、得意ではない。
「今までおつかれさまでした!」
「乾杯!」
 と、冬の屋台で二人とは飲み明かした。
 そうして霞ヶ関にあった対策室には別れを告げ、さりとて職場は何とか回っていたので有給を申請して職場復帰を遅らせ、今の僕は左内島へ向かっているという訳だった。ちなみにAI……人工知能は持ち歩ける大きさじゃないので、自宅に持ち帰った。今は必要に応じて、携帯でやりとりするという訳だ。もちろんノートパソコンからリモート接続して利用することも可能だ。
「ともかくまず早急に謎として残っている部分を確認することです。まずは左内島から」
 それがニックネームとして『サルマ』を与えたAIからのアドバイスだった。
 僕はそのアドバイスに素直に従うことにした。

 左内島の港は、思ったよりも充実していた。
 フェリーはもちろんのこと、もっと大型船舶を何隻も停留できそうだ。
 逆に、クルーザーのような小型船舶を停留させる場所も確保されており、実際に数隻が停留されている。
 つまりこれら定期便以外の船舶を使って、島から脱出することも可能そうに見える。
 別にスパイじゃないから、退路を確保する必要は全くない。
 全くないのだけれども……、妙に気になってしまった。
 なんと表現したら良いか分からないけれども、独特な雰囲気があるのだ。
 メーカー社員が言うのは科学的でないけれども、『空気が違うような気がする』のだ。別に平凡な田舎の景色で、フェリーから降りてくる観光客も楽しそうに会話しているのだけれども、上手な芝居を見せられているような感覚が生じている。
 たぶんこれは僕の方が緊張して、なにかがバグっているのだろう。……そう思って、宿泊先のホテルへ向かう。チェックインは何事もなく、終わった。
 オーシャンビューが自慢のホテルで、雲一つない青空の下には伊豆半島が見えた。この島で田村照子は育った。内閣官房だった時に内閣調査室に調べてもらったら、彼女は中学校までここで育った。そして高校は存在しないので、都内の高校へと進学した。成績は小さい頃から大変に優秀だったけれども、大学は東大や京大ではなかった。どうやらわざと手抜きしたり、成績にあった学校を選択しなかったらしい。
 まるで目立たないことを心がけて生きてきたような人生だった。それが僕の興味を引いた。どうしてそんな彼女が新種の寄生虫により寄生人間になってしまったのだろうか。寄生虫が脳内に棲息するケースはあるけれども、もっぱら発展途上国の、それも医療制度が充実していない国に限定されている。田村照子は、そんなところへも足を運んだ。
 政府は彼女の死をもって寄生問題も峠を越し、あとは彼女亡き後に弱体化したコミュニティを叩けば、寄生虫問題が終わると考えている。実際にはインフルエンザのように社会から駆逐することは困難かもしれないけど、別に国民は真実を望んでいない。政治家にとっての最重要課題は、議員であったり都知事であったり、その地位を維持することだ。だから寄生問題も、適当なところで折り合いをつける。
 だからもう、真実を調べる必要はない。
 田村照子はその流れを読み、上手に退場した。
 しかし僕は、まだ彼女の言ったことを鵜呑みにはできない。
 あれだけの知性なれば、死を回避する方法がいくらでもあった。
 別に疑う訳じゃないけど、まだまだ調査が必要だ。
 だから彼女が人生の半分近くを過ごした島へやって来た。
 ちゃっかりと内閣官房の身分証も返却延期して持参して来た。
 それがさっそく役に立ったのは、島に設置された資料館に入る時だった。島外の図書館にはない資料が、そこにはあった。役所の隣に設置されており、スタッフに案内されて、日頃は閉鎖されているらしき資料館へと入った。床に溜まったほこりが、最近は手入れが行き届いていないことを示していた。
「島の資料を残すのに熱心だった先生が数年前に亡くなってしまい、島民も減る一方だから役所スタッフを減らして仕事を減らす必要もあるし、ここもいつまで維持できるか……、ま、閲覧が終わったら施錠するので、声をかけてください」
 そういうと、彼は自分の職場へと戻っていった。
 幸い、ぼくが捜しているのは最新情報ではなくて過去情報だ。そこには求めていたものが十分に備わっていた。
 有志で作成されていた島内新聞だ。学校のアルバムもあった。
 そういった資料を見ていくと、小学校四年生までは普通に笑っていた田村照子が、どうもその時期を境に一気に変わったらしい。作文コンクールや美術展で都道府県レベルの賞を獲得していた。その時に記念撮影された彼女の写真は、僕が見た田村照子と同じ印象だった。そしてーー
 変わったのは、彼女だけではなかった。
 草薙律子……彼女も田村照子と同時期に、いきなり数々の賞を受賞するようになった。そして二人揃って、元に戻った。いや、正確にいうと『目立たない存在となって、新聞などには登場しなくなった』という訳だ。僕はメモ帳に、草薙律子の名前を書き留めた。
「おや……」
 誰もいない資料室で、思わず声が出た。
 彼女たちの受賞を紹介している党内新聞の記事の隣に、ヨットが出港したという記事があった。
「なんで出港が記事に?」
 好奇心に駆られて読んで、納得した。
 なんでも世界一周の旅に挑戦している最中に、天候の影響でこの島に寄港したとのことだ。機器故障などもあって修理に半年以上も必要になってしまったけれども、無事に修理完了して出港したとのことだった。
 ただし記事には納得したが、新しい謎が生じてしまった。
 そのヨットが寄港前に立ち寄った太平洋上の島が、田村照子の海外ボランティア派遣先一致していたのだ。それは内閣官房時代に調査済みで、現在は無人島となっている。いや、正確に説明すると、島が徐々に沈んでいって人間が住むことに不安が持たれ、島民が島から立ち去ってしまったらしい。『らしい』と説明せざるを得ないのは、その島のことを調べようとしたけれども、当時の記録が残っていないのだ。その時には太平洋の小さな島の記録など、米国の領土でもない限りは記録されていなくて当たり前だと思ったのだ。
 その島に寄港したことのあるヨットが寄港していた。
 もしかしたらヨットに乗っていた冒険家と、田村照子は会ったことがあるのかもしれない。そして彼女は、太平洋上の小さな島の存在を知った。そして島は、彼女が立ち去ってから数年後に無人島となった……
 とりあえず僕は、ヨットと冒険家の名前もメモを取って、資料館での調査を終えた。

 目を覚ますと、電話が鳴っていた。
 いや、電話の音で目を覚ましたといった方が正確だろうか。
 昔から僕は、電話の音に敏感だ。昼寝しているときも、流しっ放しにしていたテレビドラマの電話音で目を覚ますことがある。昭和世代は、電話の音に敏感なのかもしれない。
 鳴っているのは部屋に設置されている電話機だった。
「もしもし……」と、寝ぼけ眼で受話器を耳にあてる。
「こちらはホテルのフロントですが、森様にお客様がいらっしゃっております。いかがいたしましょうか。面会を約束した時間になってもロビーに姿をお見せにならないないとのことで、ご相談いただいたのですが……」
「面会ですか?」
「はい……、草薙玲子さまです」
「少しお待ちください」
 草薙……草薙……、どこかで聞いたことのある名前だ。って、田村照子と共に子供時代に活躍した女の子が、草薙律子だったじゃないか。
 まさか母とか姉妹とか親戚か?
「分かりました。これから支度してロビーに向かうので、申し訳ないけれども、あと五分ほどお待ち頂けるとうれしいとお伝えください」
「あと五分ですね……、はい、本人様にお伝えしました」
「ありがとうございます」
 そういうと、僕は電話を切った。
 そして五分後、僕は慌ててロビーへ到着した。
 五分というのは長くて短い。
 それに……相手の正体が分からない。
 まさか旅行客という一般人も多いホテルのロビーで、いきなり刃傷沙汰という可能性は高くないだろう。それをするならば手間はかかっても闇討ちの方が良い。そんな訳で、特に防弾チョッキのような装備は身に付けていない。
 一方の草薙玲子も、軽装だった。
 さすがにアロハ姿でないけれども、カジュアルな服装をした三十歳代くらいの女性だった。もちろん面識は全くない。しかし相手は写真か何かを見ていたようで、僕の姿を見るなりやって来た。
「森卓也さんですね。草薙玲子と申します」
「はじめまして……森です」
「立ち話も何ですから、ラウンジでお話ししませんか」
「……わかりました」
 僕たちはホテルのロビーからラウンジへと移動した。そしてテーブルに座るなり、彼女が口を開いた。
「さっそくですが、伺わせて頂いても宜しいでしょうか」
「『伺う』って、何のことでしょうか? 内容によりけりだと思います」
「……そうですね。失礼しました。田村照子のことは、資料館で分かりましたでしょうか」
「おおよそ分かったつもりですが……資料館を訪問したことをご存じなんですか」
「はい。実はスタッフに知り合いがおりまして、連絡を貰えるようになっています」
「なるほど」
 特に隠すつもりはなかったけれども、あっさりと誰かの手の内に入ってしまったという訳である。我ながら考えなしに行動して問題を起こすことがあるけれども、今回は注意した方が良かったらしい。……と、思っていたら、予想外の話の展開が待っていた。
「島民にはヒヤリングして回りましたか?」
「いいえ」
「それは良かったです」
 彼女はほっとしたような表情になり、その後で僕のモノ問いたげな視線に気が付いた。
「わたしたちも一枚岩ではありませんので」
「一枚岩?」
 彼女は頷いた。
「田村照子のことをご存じならば、話してしまっても構わないでしょう……。実は私も『彼女と同じ人間』です」
「!」
 草薙という名前を聞いた時から半ば予想はしていたけれども、改めて言われると衝撃が走る。「私が最初で単独の存在」というのは、真実ではなかった訳だ。おそらく彼女が知って欲しくなかった道へ、僕は踏み入りつつあるらしい。
「そうは言っても、私は姉や彼女ほど優秀ではありませんでしたけど」
「優秀ではない?」
「それでは順を追って、お話ししましょう」

 それから僕が三十分くらいに渡って知らされた話は、かなり予想の斜め上を行っていた。今回の寄生人間には海外からの関与が無かったけれども、実は各国……米国には『すでに良く知っていること』だったのだ。
 まず資料館にあったヨット記事で疑っていたように、田村照子とヨットの冒険者には関係があった。冒険者は寄生人間であり、その頃は好奇心いっぱいだった田村照子と草薙律子は彼のところを訪問し、それがキッカケで寄生人間となった。寄生の方法は僕たちが知っているように、人間の口の中に突出させた部分を切り離し、他の人間へ口移しで移送させる。移送された体の一部は人間の体内に潜り込み、血液などの体液を養分として吸収して成長する。自分たちで消化器官を持たないから細い紐状の形態となり、赤ん坊は無理にしても、十歳を越える児童には寄生可能らしい。それで田村照子と草薙律子は知能を底上げされ、「神童」となった。そもそも好奇心旺盛で冒険者のところを訪問するように、人間としての素材も悪くなかった。
 ただし僕が知らされていたように、切り離されて大半が新組織になったとはいえ、その場合でも寄生虫の寿命は数年だ。彼女たちが高校生になった頃、寄生虫たちは「お迎え」が近くなってしまった。お互いに組織の一部を切り分けることで新生体を生み出すことは可能だったけれども、旧寄生虫の死骸が腐ると悪影響が生じる。下手をすると命の危険にもなりかねない。
 そこで二人はボランティア組織にコンタクトして渡航予算を確保して、冒険者が最後に寄港した太平洋の小島を訪問した。そこでは昔から寄生が一般的だったので、体内に棲息させる寄生虫の入れ替えは問題なく終わった。
 それどころか島の将来が不安定ということで、二人は女王虫から株分けされ、次期女王候補となった。女王の寿命は一般よりも長く、犬並みに十数年の寿命が期待できた。だからある意味で、田村玲子は『寄生虫の初めの存在』となった。不思議なことに寄生虫は蟻や蜂などの昆虫のように、女王なるものが存在した訳である。そして女王は、希に卵を産卵する。
 人間として聞いているとあんまり楽しい話ではないけれども、つまりはそういうことだったらしい。まんざら田村照子が大嘘をついていたという訳じゃない。そして二人の人間としての素材は女王との相性も良く、特に寄生虫としての増殖欲求に襲われることもなく、田村照子は目立ち過ぎないように静かな人生を過ごし、高校から大学へと進学し、高校の生物教師となった。やはり自分が特殊な存在であることを考えると、いざという時のために生物学的な知識を蓄えておくことは重要だと考えたからだ。それから彼女は大学の研究室にも所属していたとのことだ。これは高校の時から入り浸っていたことが理由らしく、それで進路としては生物学の研究者と医者の二つがあったけれども、前者を選択したとのことだ。医者になれば彼女のタフさなどを活かすことも可能だと思うけれども、それは潜在能力をフルに発揮させることが可能になるだけで、その後で体にダメージは残る。そう考えると、彼女は適切な選択をして、適切な人生を送ったのかもしれない。
 ただし女王にしても、無限の命を持っている訳ではない。やがて寿命が近くなり、さすがに生存本能を抑えきれなくなり、今回の一連の事件に繋がったという訳だ。人間としては寄生人間でなくなれば三十歳過ぎだから長生きできるだろうけれども、共生関係が長く続くと、『寄生虫のいない私は別人』ということになるらしい。ガン患者が脳への放射線照射によって記憶や人格の変異を恐れるように、彼女も元の人間へ戻ることに恐怖を覚えたという訳だ。
 草薙玲子と僕がお互いに情報交換しながら分かった田村玲子の真相は、そんなところだった。
「人生というのは、分からないものですねえ」
 僕が言えるのは、それだけだった。
「ええ、彼女にとっては何が一番の幸せだったのか……。たとえ普通の人間に戻っても、子供を育てた方が幸せだったのか。そもそも彼女は子供の父親となる男性と、どのような関係を築いたのか。最初に寄生虫に寄生されたのが不幸だったのか……それとも幸せだったのか……人生というのは、本当に分からないものですねえ」
「言っておきますが、僕が子供の父親ということはありませんよ」
「分かっています。私の兄かもしれません……何も語ってくれませんけど」
「いずれ一通りの検査が終わったら、その気になれば子供を引き取ることも可能でしょう。ただし身元が判明してしまうリスクはありますけど」
「そうですね……ところで身元といえば、問題が一つあります」
 僕は黙って肯いた。
 資料館で資料閲覧して来たので、今ならば分かる。
 と、いうか、その結果がラウンジ呼び出しだ。
 おそらくは草薙律子の件だろう。今までの話を総合すると、田村照子とその寄生虫が亡くなった今、彼女こそが時代女王である。そしてその命は尽きかけているはずだ。
 もしかしたら田中照子は、草薙律子に女王の座を譲るため……考え過ぎだろうか。
 さていったい僕は、これから何を相談されるのだろうか。
 僕の心配そうな顔を見て、彼女はクスリと笑った。
 このあたりは今までの寄生人間とは喜怒哀楽が異なる。安定して長年に渡って寄生されると、支配から共生といった面が強くなるようだ。
「実は森さんにお願いしたいことがあります」
 そら来た。
「はい、何でしょうか」
「私の姉である草薙律子ですが、実は産卵期に入っています」
「産卵期……ですか」
「今はこの島の産院に入院していますが、動かすことができません」
「人間の子宮を利用する訳ですね」
 彼女は頷いた。
「お察しの通りです。ただしここで、日本政府はまあ田村さんのおかげで心配しなくても良さそうですが、米軍の侵攻がありえます」
「米軍?」
「はい……。やはり米国は情報収集力に優れており、女王の存在も把握していました。姉が女王から寄生虫を株分けされたことも把握しています。……というか、米国からの要請により、体の一部を提供したこともあります。日本でも話題になりましたけど、まだAIによって人間の脳を直接コントロールするのが難しい現状では、寄生虫によるコントロールというのは米国にとっては朗報となるかもしれませんから。人間としての恐怖を抑えて戦うことのできる兵士。本来ならば遊びほうけて役に立たないだろうに、脳をコントロールすることによって勉学に精一杯の努力をする学生……産卵はぜひ詳細を押さえておきたいでしょうし、できれば新女王は米国領土内に住まわせたいと思うことでしょう」
「その可能性は、大いにありそうですね」
「そこで……米軍が侵攻して来た場合に備えて、森さんに防衛指揮官をお願いしたいのです」
「防衛指揮官?」
 思わず声が裏返ってしまう。
 もしかしてこの島に来た時に感じた『イヤな予感』って、寄生虫の巣があるとか、寄生人間に襲われるといったホラー小説的な展開に加えて、米軍とのゲリラ戦まで含まれていた?
「できる範囲で構わないんです。島にいる者よりは遙かに事情に詳しいし、いざとなったら日本政府とのパイプをお持ちになっている。今は政府に存在を知られたくないから関係を持ちたくありませんけど、姉が米国に拉致されるのであれば、日本政府に存在を知られるのも仕方ないでしょう。田村さんが頑張って、この島との関係は隠してくれましたけど……」
「米国との駆け引きは魅力的ですけど、さすがにーー少し考えさせて下さいませんか」
「はい。ただしあまり時間がありませんので、お早めのご決断をお願いしたいです」
「ちなみに予定日は、いつ頃になるのでしょうか?」
「三日後の金曜日です」
「!」
 予想以上に早い展開だ。それに予想以上に驚いた展開だ。寄生人間の脅威を調べるためにやって来て、寄生人間を守るために戦う?
 まあたしかに、本来的には予想以上に人類にとって驚異となる存在ではなさそうだと、昔からそれなりに存在しており、今さら騒ぐ話ではないというのは分かって来たけど……
「それから森さんって、失礼ながら、生まれながらに寄生人間的な資質をお持ちじゃありませんか?」
「……よくご存じで」
「複数名の寄生人間と互角にやりあった素人というのは、あまり存在しませんからね。よほど特殊な訓練を積んだ兵士か、何か珍しい特技……異様なまでの集中力とか執着心とか……これらはある意味で寄生されている状態に似ていますね。こうやってお話しをさせて頂いても、あなたには普通の人のような感情の揺らぎを感じませんよ。なんとなく喜怒哀楽といった感情さえ、演技しているようにも見受けられますね」
「寄生人間ゆえに、普通の人間には見えないものが見える訳ですか……」
 そうなのだ。
 僕は特定のことには激しい喜怒哀楽の感情を持ち合わせているけれども、多くのことには執着心がない。例えば自宅での食事は、インスタント味噌汁と生卵とご飯をかき混ぜて一食としている。
 その一方で、なぜかメガネは数十も保有している。どうしても見え方が気になってしまうのだ。レンズの大きさやフレームの枠も気になる。そういう全体観と細部への拘りが、昔から戦略や戦術への興味にも繋がっている。だからそれを本職とするようになった。
 何であっても状況把握と対応戦略を立てることを好む。そしてライバル企業との競争は、相手が強いほど燃えてしまう。
 今回の場合は、相手が米国そのものだ。相手にとって不足はない。
 そんな訳で、一見すると理解しがたい寄生人間からの提案だが、その提案に抵抗することの出来ない自分を感じていた。

.逃げるが勝ち

..1

「それで結局、どうなさるおつもりですか」
「どーも、こーも、ないよ。米国を正面から相手にするのは得策じゃないよ」
 ホテルのレストレンで食べ放題のバイキング料理を存分に堪能した後で、部屋に戻ってきた僕は、AIからの質問に返事をした。
 えっ、先ほどの『食事には拘らない』と矛盾するんじゃないかって?
 心配しなくて大丈夫だ。
 食事には拘らない性格だけれども、別にマズイ料理が好きだというような、歪んだ趣味はない。それに健康には良くないとされているが、一には食事をせずに済ませることも可能だ。
 僕の食事など些細な話だ。大切なのは対米戦略だ。
 そんな僕が食事の話をしたのは、要は『やけ食い』をしたという話だ。考えれば考えるほど、最後は手詰まりになる。そして食べ過ぎにより、頭の回転は鈍くなる。つまり今の僕は、悪循環に陥っているというわけだ。
「米国を正面から相手にするのが得策でないというのは、その通りでしょう。米国の特長は、『豊富な予算と人材』です。ゲリラ的な作戦で一時的に優位に立つことは可能かもしれませんが、最終的には草薙律子さんは米国へ連れていかれることになる可能性が高いです」
「スキを見せれば特殊部隊が上陸して、草薙律子さんを拉致しかねないからなあ。かの国ならば、それくらいの強硬手段はやって来そうだ。本人が地下シェルターで居住するようになり、米軍の特殊部隊に二日間くらい抵抗できることが分かれば、なんとかなるかな。あちらさんとしては日本政府に草薙律子という寄生人間の存在を知られたくないから、極秘裏に動くしかない訳だし……」
 やはり満腹で、頭の回転が今ひとつだ。
「そのプランは悪くないと思います。しかし冒頭でコメントなさったように、米国は今回の産卵に興味はありますが、長期的に見れば再び産卵時期の訪れる可能性があります。そう考えると今回の産卵時期の攻勢は要注意ですが、その後も要注意となります。それらも踏まえた上で、プランを立てるのが良いでしょう」
「身も蓋もないねえ。結局のところ、正攻法で米国を押さえつけるということかな」
「そういうことになるでしょうか」
「日本の島の一部と米国では、ケンカにならないんだよなあ」
「少なくとも、格闘戦でさえ勝ち目は無さそうですね」
 たしかにその通りだ。
 僕が今まで寄生人間と互角にやりあうことが出来たのも、潜在能力の引き出し方が似ているというだけでなく、相手が素人だという点が大きかった。
 もしも戦うことになれば、相手はプロだ。個人戦だとしても、ボクシングや格闘技で鍛え抜かれた筋肉を持つ者と戦っても、勝てるイメージが全く沸かない。むしろ寄生人間の潜在能力をフル活用した怪力の方が、特殊部隊には通用するかもしれない。しかも……相手は組織化されたプロ集団だ。
「そうなると兵法の極意……『三十六計、逃げるが勝ち』という路線で、何かアイディアはないだろうか」
「逃げることができないので、私たちが頼りにされている訳ですね」
 さすがは人工知能……AIだ。まったく容赦がない。
「戦っても勝ち目はない。逃げることはできない。そうなると打てる手は……」
「戦わないことですね」
「しかし米国は、何としても女王を米国へ連れて行って研究したい」
「女王がいなければ、この島へ米国がやってくることはないでしょう」
「それ、女王を亡き者にせよと提案している?」
「女王なしで存続できる生態系に変化できるのであれば」
 血も涙もない。いやAIという機械だから、血も涙もなくて当然か。
「ん?」
「どうしましたか?」
「少し考えさせて」
「承知いたしました」
 もちろん女王こと草薙律子を亡き者にすることは論外だ。寄生人間の生態系を根本から変えてしまうことになる。なぜか僕がここで頭を悩ませているのも、存続の危機に晒されていると怯え、自暴自棄な行動に走られては困るからだ。地球上の生物の共存や平和に積極的に貢献したいといったような崇高な使命感は全く持ち合わせていないけれども、それなりの報酬を頂けるのであれば、できるだけの全知性体の平和を目指す努力をする吝かさではない。
 それは米国にしても変わらないだろう。日本は……今までの対応内容を考えると、清濁を併せ呑むというのは難しそうだ。だから日本政府に保護を求めるのは難しい。田村照子が、自らの身体を張って、草薙律子の存在を隠そうとしたのも理解できる。
 そうするとこの島から移動することなくして、『草薙律子を日本政府から消す』という選択肢……
 そうか、そういうことか!
「ちょっとAIさん、相談に乗って頂けませんか?」
「もちろんですとも、ご主人様。何でも遠慮なく相談して下さい」
「この島から動くことなく、草薙律子を米国籍にする方法はないかな?」
「残念ながら、すでに日本国籍を有する者は、米国に一定期間は居住しないと米国籍を得ることはできません」
「だめか……」
「ただし……」
「ただし?」
「今回の米国籍のご相談は、米国籍を有する者が追う義務と権利を付与することですね。米国籍になれば、米国のために忠誠を誓う必要がある。米国としては安心できる存在になる訳です。研究に関しても、一定の協力は必要となる。その一方で、米国には米国籍の者を守る義務が生じるので、日本政府は迂闊に手出しできなくなる……。寄生人間としては、特に隠すような秘密もない。生命に害がなければ、研究対象にされても構わない。つまり若干の犠牲を払うことによって、安全を手に入れたいとお考えになった訳ですね」
「その通りだ」
「そういうことでしたら、『名誉市民』でも条件を満たせるかと思います。ただし米国議会が決議し、大統領の署名が必要となりますが」
 マジか。
 米国議会の決議と、大統領の署名……
「なるほど、ありがとう。米国に働きかけてみるというのは一案だ」
「恐縮です」
「そうとなれば、さっそく動くのが良いか……」
 そう言うと、僕はポケットから電話を取り出した。
 もちろん大統領へのホットラインなど持っていない。しかし子供が大統領に手紙を書いて返事を貰うことがあるそうだけれども、そんな幸運に頼るつもりもない。脅迫文を書くことによって法的機関の目を引き、そこから大統領までつながるという方法を取るつもりもない。たとえ繋がったとしても、心証が良くなければ善処して貰えないだろう。
 小説を書く?
 たしかに過去にベストセラー小説を書き、大統領に読んで貰った人もいるらしい。
 では僕の場合はどうする?
 あなたならば途方にくれてしまう?
 いや、悩む必要は全くない。
 あなたが正当な理由を持ち、大統領と話したいと思ったら、米国は常に会話のための道を開けている。
「この方法だったら上手くいきそうかな?」
「可能性を判定するのは、私の機能にはありません。しかし否定すべき材料はなく、実際に副大統領と会話した事例も存在します。私に申し上げることができるのは、この程度でしょうか」
「十分だよ、ありがとう」
 私は思わず、自分のAIに感謝した。
 いやAIはしょせんは機械だから、感謝というのは適切ではないかもしれない。しかし人間というのは、困っている時に救いの手を差し伸べてくれる存在には感謝するものだ。たとえそれが猫であっても、怪獣であっても変わらない。
 生物でなくて無生物であっても、基本的には大して変わらない。それに僕の職場には、思うように動かない業務用パソコンに毒づく人もいる。呪う者がいるならば、感謝する者がいても構わないだろう。
 僕はさっそく、電話をかけた。
「あ、もしもし。私は田村照子と申しますが……、はい、ええ、そうです……」
 僕が電話をかけたのは、米国大使館だった。

..2

 そして二日後の夕方、僕はフェリーに乗船して来たCIAのエージェントを出迎えることになった。もちろんお互いにプラカードなどを掲げる訳にはいかないので、お互いに目印になるものを携えることにした。
 僕の場合は、片手で持てる携帯用のワープロにした。ノートパソコンだったら持ち歩く者がいるかもしれないけれども、さすがに携帯用のワープロを持ち歩く者はいないだろう。その一方で、パソコンに似ているから目立たない。最初は大型の洗濯ばさみとか、もしくは普通の麦わら帽子を三つくらい持つことを考えたけれども、ちょっと目立ちすぎるので止めることにした。
 ちなみにCIAのエージェントは、米国の国旗を描いた扇子を持参して来るとのことだった。たしかにそれならば遠くから見ても一瞥できるほど派手だけれども、米国人が米国旗の扇子を持っているのは、別に変なことではない。そのセンスには思わず脱帽すると同時に、相応時の人材を投入して貰えたようで安心した。
 が、しかし、実際にフェリーから降り立ったCIAエージェントを目の当たりにした時には、正直驚いてしまった。
 なんと見た目は二十代でも通りそうな若さだ。おまけに金髪碧眼の美女である。米国旗の扇子も目立つけれども、ご本人も負けず劣らず目立っている!
 もちろん見た目はしょぼくれたオジサンに過ぎない僕が、彼女の方へ歩み寄っていく形になった。
「オー、はじめてまして。ミスター・フォレスト……じゃなくて、ミスター森。お会いできてウレシイです!」
 若干アクセントに違和感があるけれども、なかなか見事な日本語だ。おかげで錆びついた英語を使わずに済む。
「はじめまして、森卓也といいます。発音が大変だったら、『タク』と呼んでください」
 返事は速攻で来た。
「OK! 私の名前はケイト・ロギンズと言いマス。『ケイト』と呼ばれると嬉しいデス!」
 なかなか元気の良いお嬢さんだ。
 しかしファースト・インプレッションが良いからといって、油断は禁物だ。何しろ相手はCIAのエージェントだ。戦闘や交渉の訓練は、イヤというほど積んでいるだろう。
 それにわざわざ彼女のような人材を選んだのは、ハニー・トラップではないけれども、交渉相手が僕だということを意識しているような気がする。彼女も手ごわいと思うけれども、そのバックにいる存在も油断ならない。
「よろしくお願いします。それではさっそく、ホテルへご案内しましょう」
 レディー・ファーストの国から来たからと荷物を担ごうとしたら、異様な重さに愕然とした。まるで金塊でも入っているような重さだけれども、この荷物で米国からやって来たのだろうか。そうだとしたら、よくまあ税関を通過できたものだ。
 それにこの重さ……まさか銃器が山ほど……。
「タク、慎重に扱ってください! 山ほどの精密機器が入っています!」
 なるほど、そういうことか。おそらくウソは言っていないだろう。ほっとした。それらの機器をCIAのエージェントがどのように使うのかは気になったけれども。
 ちょうど港にはホテルの送迎バスがやって来たので、それに乗せて貰うことにした。精密機器が入っているからという理由で、座席に置かせてもらうこともできた。
 それから一日は、特に特筆すべきことは生じなかった。僕らはホテルの食べ放題のバイキングに舌鼓をうち、その日の晩はぐっすりと眠った。
 寄生人間の代表である草薙玲子がホテルにやって来たのは、翌朝九時のことだった。
 僕は最初にどちらと合流するかを悩んだが、CIAエージェントとホテルのロビーで落ち合い、草薙玲子を出迎えるスタイルを採用した。たぶんCIAにしても寄生人間にしても代表以外の現地要員を派遣しており、僕がどちらかの陣営と馴れ合い関係にあるとは、みなされないだろう。
 僕は寄生人間から依頼された交渉人だが、客観的に見えた方が話を進めやすい。
「はじめまして。ケイト・ロギンズです」
「……草薙玲子です」
 ぎこちない様子ではあるものの、両者は握手を交わした。
「さ、立ち話も何ですから、ラウンジへ行きましょう」
 僕は二人をラウンジへ案内した。良きにつけ悪しきにつけ、ロビーに金髪碧眼の外国人がいると、田舎の観光地とはいえども相当目立ってしまう。まして美女ならば、なおさらだ。どうしても好奇心の目が集中してしまう。ロクでもないことを企んでいるかもしれないけれども、ともかく交渉に集中してもらった方が、より良い成果が出るかもしれない。会社での経験則なので、こんな場面でも役立つかは分からないけれども、短絡的な暴発を誘うよりはマシだろう。
「ではもう一度、状況を整理しましょう。まずは日本サイドですが……」
 僕は自分が考えた防御布陣と、日本国内の状況を説明した。
「……重火器の入手は一見すると難しそうに見えますが、それは今まで活動を国内に限定していたからです。相手を選ばずに海外ルートを利用する覚悟があれば、重火器の入手は容易です。ただし米軍が手段を選ばない場合でも、日本国内での本格的な武力行使はないと想定しています。マシンガンやライフルを装備した人間と車両による上陸でしょう。ただしこちらは地の利を活かして、実質的な『城』を作っています……観光地にもなっていますけど。あまり手の内をさらすことはできませんが、少々の爆撃を受けても耐えることができます。それゆえに武力侵攻はオススメしません」
 ケイトが黙って頷くと、実に絵になる光景となる。
 やはり東洋男性にとって金髪碧眼はあこがれの対象である……いかん、いかん。誘惑されていては話が進まない。
「ただし日本の国内事情ですけれども、こちらは正直にいうと芳しい状況ではありません。基本的に駆除対象となります。欧米のようにハグなどの直接的な接触が親密さを表すような文化の場合、寄生人間を増やすのは容易でしょう。その気になれば、大統領も寄生人間になって頂くことが可能かもしれません。しかし日本はそういう文化ではないし、感性で行動する国民です。ただの感染力の極めて高い感染症とみなされており、存在が知られれば、あっさりと駆除対象になってしまいます。もちろん一定数は厳重な管理の下、研究施設へと送られています。誰もが考えることですが、指揮官の指示に忠実である上に志気の高い兵士というのは、理想的な存在です。受験……子供の学習にも役立つでしょう。ただし彼らはまだ寄生虫が昆虫のような群生生物の性質を持ち、女王蜂や女王蟻のようなものが存在することは知りません。ある程度の規模があってはじめて存在するようになるものですから、帰国においても希少価値はそれなりにあるような気がします。これは日本政府に喜んで引き渡したい存在ではないかと思います」
 と、最後にプレッシャーをかけるような説明で締めくくる。
 ケイトは軽く肩をすくめて、口をへの字にした。日本語が堪能である点を考えると、『やれやれ』という仕草だろうか。
 しばらくの間、沈黙が三人の間を支配した。
 僕としても言えることは言ったので、あとは二人の反応を見ながら、交渉を成立させるだけだ。理解力の高い二人だから、繰り返して説明する必要はない。
 しばらくの間、それぞれが黙って飲み物をすすった。心なしか、ラウンジの温度が少し下がったような気がした。
 最初に口を開いたのは、ケイトだった。
「状況とそちら側の要望は分かりました……しかし、分からないことがあるので質問させて下さい」
「はい、何なりと」
 交渉人などやったことがないので、どうやって打ち合わせを進めたら良いかなど分からない。まずはCIA……米国の好きなように振る舞ってもらうことにした。
「ありがとう……では……、そもそもどうしてあなたは普通の人間なのに、この場にいるの?」
「は?」
 思いがけない質問に、目が点になる。なぜ僕が聞かれる?
「あなたはなぜ今回の交渉人になったのかを知りたい」
「それは米国にとって必要な情報でしょうか?」
「必要だから質問させて頂いているのだけど」
 いきなりの火の玉ストレートだ。
 しかし確かに金儲けにはならないし、わざわざ一般人が喜んで手を出す分野でもない。米国にしてみれば、目の上のたんこぶかもしれない。ここは素直に答えることにした。
「わかりません」
「わからないのに交渉人をやることにした?」
「その通りです」
 僕はケイトの真似をする訳ではないけれども、肩をすくめた。
「推理小説の名探偵が、殺人事件があると採算度外視で取り組むようなものです。それから田村照子から、何らかの影響を受けている可能性も否定できません」
「交渉人としては、不適切では?」
「わからない状況の中で目標を達成するのが交渉というものです。ある意味で名探偵の仕事に近いのかもしれません。今回は米軍が女王虫を米国へ移して研究したいという意図以外に、それが難しいようであるならば殲滅することへ作戦変更する可能性があることを把握できました」
「!」
 隣にすわっていた草薙玲子が、声にならない声を出した。まさか抹殺される可能性があるとは、予想していなかったらしい。
「殲滅したら女王虫の研究ができない」
「ケイト、正確には『思い切った研究ができない』という表現になるんじゃありませんか? 確率的に考えると、既に米国は女王虫を確保していそうです。しかしそれは貴重な存在なので、遠慮なく研究できる素体が欲しいのでは?」
「私はCIAの末端要員に過ぎないので、我が国の動機は知らない。任務に励むのみだ」
「そうでしょう」
「……話を戻すと、今回の米国対応は、私が何を言っても変わらないでしょう。すでにこの島には米国から調査要員が派遣され、私が事前に提出した資料の裏取りをしているかと思います」
 ケイトは大きく頷いた。
「私が言うのも何だが、おそらくはその通りだろう。あなたが何かを隠していない限り、私がヒヤリングした結果が大局に及ぼす影響は殆どないと認識している。我が国は提供された情報に基づいて、自分たちで調査して決定を下す。だから一個人に過ぎない君の意見も、米国では大統領に通るという訳だ」
 今度は僕が頷いた。
「ええ、その通りです。ちなみに僕に報告能力が不足していれば質問を頂戴したかと思いますが、それは無かったようで何よりです。したがって、わざわざ直接会ってCIAエージェントと僕が会話をする意義は殆どない。そして話題は仮説レベルになってしまいますが、田村照子の『愚考』へ行き着く訳です」
 ケイトは黙って頷いた。一方の草薙玲子は、小さな叫び声を漏らした。そして僕は、一人語りを続けた。
「そもそも今回の寄生人間に関する事案を推理小説的な事件として語らせて頂くと、事件の中心には田村照子がいました。しかし現在ここで皆さんと話をしているのは私です。中心人物の田村照子ではありません。この点は、すでにご指摘頂いた通りで、不自然です。本来ならば田村照子は自らの寿命が尽きかけていると分かった時点で、米国へ働きかけをすべきでした。明晰な思考力を持つ彼女が、そのことに気づけなかったとは思いません」
「その考えには同意します。あの人は聡明でした」
 珍しく草薙玲子が口を挟んだ。
「最初は彼女も、そのつもりでした。しかし想定外の事態が生じてしまった」
「想定外の事態が生じた?」
 今度はケイトが口を出して来た。かまわずに話を続ける。
「彼女の予定では、自分で子供を妊娠して、新しく生まれてくる子供へ、寄生虫の幼虫を寄生させる計画でした。草薙律子さんの寄生虫も自分の寄生虫と同じく寿命が近く、次期女王を生み出すための産卵時期でした。しかし実際に妊娠すると、子供が可愛くなってしまった。これは今まで理性的に生きてきた彼女にとって、想定外の事態でした。そこで子供を育てることは人間に任せることにした」
「自分で育てようとは思わなかったのですか?」
 僕はかぶりを振った。
「彼女は草薙律子と二人で寄生人間たちの中心的存在だった。その彼女としては、寄生人間を裏切ることは出来ない。それに二つ目の『想定外の事態』が生じてしまった」
「二つ目?」
「浮気されてしまったのですよ」
 目を丸くする女性二人に対して、言葉を続ける。
「子供を生むだけが目的であれば、別に相手の男性は誰でも構わない。しかし実験とはいえ、さすがに自分の好みの男性の子供が欲しかった。それで彼女はマッチング・アプリで意中の男性を見つけた。妊娠することにも成功した。しかし彼が相手にしていたのは、彼女だけではなかった」
「…………」
「人間の男性は、矛盾した存在であるとも言われています。男性は寄生人間になっても、人間の男性によくある『ふたまたがけ』をした訳です。そして寄生虫も生存本能に従い、ふたまたがけをした女性に寄生した。そして興味深いことに……というと犠牲者には大変申し訳ないけれども、さらに寄生人間を増やす方向へと向かった。寄生虫の知能レベルは変わらないはずなのに、不思議なことです。そして寄生された女性は僕の働く職場の女性であり、その周囲に寄生人間を増やした。これは彼女にとって想定外だった。こういう問題まで起こしてしまったからには、もうこの島の寄生人間コミュニティには帰れない。しかしコミュニティや盟友草薙律子への帰属意識はあり、自らを消し去る道を進むことになった。ただし可能だったら後継者を持っておきたい……寄生人間のコミュニティには後継者がいくらでも存在するので、寄生されていない人間で中立的な立場を取ろうとする者……すなわち、それが僕だった。別に僕でなくても構わなかったと思いますけど、もっと良い候補を探すには、彼女は公安や警察に顔が売れ過ぎていた。だから僕に後を任せるように、子供を任せたのでしょうね」
 さすがに一気に話し過ぎた。僕はテーブルの上にあるコップに手を伸ばした。
「この場に森卓也という人物が存在しているのは、そういうことだと思いますよ。僕は会社員であって、まあ日本国民だから国民の義務はあるけれども、公安や警察ほど治安維持に勤しむ必要はない。一方で寄生人間に肩入れする必要もない。その分だけ視野を広く持つこともできる」
「なるほど……」
 ケイトが頷いた。
「あなたには失礼な表現となってしまうが、つまり『誰でも構わなかった。別にいてもいなくても、大して困らなかった』という訳か」
「そういうことです。まあ田村照子としては、米国滞在経験もある森卓也というのは、それなりに使いやすい駒だったのでしょう」
「で、彼女が亡くなったのは、寄生人間サイドの責任という訳ですか」
 草薙玲子が悲しそうな顔をしながら言った。
「いや……、実際のところは『子供まで生んだ男が別に自分のことを大して存在だと思っていなかった』と悲観したという面が大きいかもしれませんよ。僕は男性に刺されましたけど、田村玲子に関する理由じゃなくて、僕の職場の女性が苦しむ立場になったことに対する復讐でしたから」
「やりきれない話ですね」
 草薙玲子はつぶやいた。
「あなたも相当苦労させられたようだな──それはこれからも続くけれども」
 ケイトが同情するような表情で、なぐさめるようなことを言ってくれた。CIAに同情されるとは、僕もエラくなったものだ。
「会社では副業も公式に解禁されましたし、当面はこの島の方々に雇われて仕事することになるかもしれませんね」
「私からみるとゲリラ戦の経験もそれなりにあるようだし、あまり相手にしたくはないな。とりあえず上には、ここで教えてもらった話を報告しておくことにするよ」
「ありがとうございます」

 そうして結論がハッキリとしないままに打ち合わせは終わり、米軍が闇に紛れて侵攻してくるような事態は回避されたのだった。

.エピローグ

 それから三年後、僕は米国の片田舎にいた。
 結局のところ日本政府は節穴などではなく、最終的には事態を正確に把握した。しかしその時には、すでに草薙律子は米国の名誉市民となっていた。
 下手に手を出せば、米国を相手として紛争沙汰を起こすことになりかねない──そういう訳で、草薙律子および寄生人間の一族は、治外法権のような特権を得た。
 もちろん名誉市民の対象は決まっている。だから寄生人間が増えた場合は、日本政府の対応範囲になる。そんな訳でかつてのような寄生人間の増加は生じず、大量殺人事件も起こらなくなった。日本政府としては根っこを押さえたいところだろうけれども、まあそれは致命的な問題ではない。要は日本政府に手の出せない存在が、日本国内に存在すると一般人に知られることがなければ良いのだ。さりげなく監視の目が島内へ配置されるに留まった。
 一方で米国は名誉市民とはいえ、別に監禁されていたりする訳ではない。だから特殊部隊を派遣して、力ずくで米国へ連れ出すことは出来ない。したがってエリア51のような、アヤシゲな施設へ収容されて、実験対象となる危機は回避された。力ずくでやって来た場合には、日本政府が事態を察知してしまう。
 それに僕は僕なりに、日本の城をベースに草薙律子や一族の住まいを要塞化した。地中貫通型爆弾でも、居場所が特定できなければ効果を期待できない。特殊部隊への備えとしては、レーダーや赤外線センサーが設置されている。大部隊はおろか、数名の突入でも事前に察知することが可能だ。もちろん機械に頼るだけでなく、警備員も配置するようにした。そして腕利きの傭兵も採用した。
 お金がかかるけれども、仕方がない。その費用は草薙家が支払うには無理があるので、寄生人間の一族が働いて稼いでいる。本気で仕事をすると、いかに人間はアウトプットを上げることが出来るかという典型的見本だろう。なお寄生人間の集中力などをコントロールする技術は、米国との共同研究によりもたらされた。米国からは世界を代表するような研究者たちが、なかば観光旅行というか、お忍びのような形でやってくるようになった。しかし学者が観光地で学会を開催するというのは、世界共通の習いであり、特に目を引く事態にはなっていない。
 米国が研究成果をどのように活用しようとしているかは気になるところだけれども、それは米国の問題である。とりあえず日本は日米同盟を結んでいるので、米軍が強化されるのは嬉しい事態だ。PSTD問題なども、『すべて寄生虫のせい』で軽減されると米国的には嬉しいかもしれない。
 寄生人間としては、監視対象はおろか研究対象とされるのは、決して望ましい事態ではない。しかし人類が本気になったら、人類のわずか一握りに過ぎない寄生人間など、あっというまに絶滅されられてしまいかねない。いくら対薬性が高い変種が生まれるとしても、絶対数が少なければ、そういった存在の誕生も期待できない。日本から回虫の存在が無くなったように、最先端の科学技術を操るようになった人類は軽視できない。安心して存在できるだけで、我慢してもらえると僕的にはうれしいと考えている。
 もちろん僕も我慢というか、今までの生活を送ることは出来なくなった。知り過ぎた者の末路は悲惨というけれども、もともと僕は何回も殺されかけてしまった。今回の後始末まで含めると、一体どれだけの存在から恨みを買ってしまったのか分からない。そこで米国政府からご提案を頂戴したこともあって、証人保護プログラムを利用させて頂けることになった。それで現在は、米国の田舎で暮らしているという訳だ。日本国籍としてはしっかりと存在するけれども、森卓也という名前を使わなくなって久しい。
 これは米国からすると、僕が気軽に草薙姉妹のところを訪問できなくなったという訳で、費用や手間の問題を抜きにすると、喜ばしい話になるだろう。僕としても米国は第二の故郷であり、別に不自由は感じていない。会社は退職することになったけれども、今回のいきさつを考えると、ケジメとして退職は必要だったかもしれない。内閣官房をやっていた時の仲間に会えなくなったことが、唯一の寂しいことだ。田村照子の子供のことは気になるけれども、これは日本政府を信じるしかないだろう。いや、この件に関しては草薙姉妹が日本政府と交渉しているそうだから、いずれ子供は母親の故郷に帰る日が訪れるかもしれない。
 田村照子がマッチング・アプリで交際した男性を経由して広まった寄生人間に関しては、僕としては関知するところではない。ただし当初は暴発することもあったけれども、最近は環境への適用も進んだらしい。大量殺人事件のニュースを見ることもなくなった。
 日本の殺人事件で未解決となるのは3パーセントだけ……逆にいうと検挙率97%である。つまり日本の警察は伊達じゃないし、寄生人間も勝手放題に仲間は増やせないという訳だ。昔と違って現代は検査機器が充実しているし、駆虫剤も存在する。こちらも心配する必要はないだろう。
 唯一心配なのは、そもそも田村照子と草薙律子が感染源となった太平洋の小島から立ち去った人々がどのように暮らしているかという問題だ。米国が女王虫の研究を進めているから大丈夫だと期待しているが、どこかの発展途上国で爆発的に増殖されたらば、人類の存続に関わるかもしれない。これに関しては米国も同じように考えて調査対応しているだろうから、あとは平凡な一個人としては完全にお任せするしかない。

 そんな訳で、骨折したり、殺されかけたりする物騒な事案だったけれども、僕としては仁義は通したつもりだし、『あとは野となれ山となれ』という心境だ。まあそうでなくても少子高齢化が進んでいるので、長期的には先進国は衰退する。寄生虫で悩まなくても人類は絶滅しそうだし、あまり先のことを気にしても仕方ないかもしれない。
 最後に気になったのは、今回の顛末を、誰も記録として残していないことだ。それで僕がこうやって書き記してみたけれども、もしかしたら、CIAあたりが極秘文書を作成しているかもしれない。そして今日も、世界は絶え間ない紛争に直面しながら一日を終えるという訳だ。
 これですべてが、落ち着くところに落ち着いたというところだろうか。田村照子はたしかに亡くなったと思っているが、草葉の陰で笑っているかもしれない。

「森さん、ありがとう。ごくろうさま」
 と。

 (了)

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