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特急・古代への旅 7

その7 さらば出雲

日本の古代は謎に満ちている。
私たちの日本の成り立ちと始まりはどのようなものだったのか。
その謎を解き明かす旅へ出発する。
東京駅9番線21時50分発、最後の寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で、
私たちはまず出雲へ向かった。
その第7話である。

佐太大社
出雲には3つの大神がいる。熊野、能義(のぎ)、そして佐太大神だ。
松江から一畑バスで30分、島根半島に分け入った佐太に鎮座する。
延喜式には佐陀大社とある。この社も古く壮大で、三殿の大社造りが並び立ち、古き出雲の神を感じさせる神さびた大社である。足を伸ばして訪ねることをお薦めしたい。
神有月に集った全国の八百万の神が、出雲大社のあと、二十日からこの神社に集い、五穀豊穣の計らいをし、神立の万九千社から神等去出(からさで)して各国に帰るという(社伝には異伝も記されているが)。
古びた社域は、清涼かつ素朴、そして荘厳である。まさに出雲を代表する神社なのだ。
正殿に佐太大神、南殿にスサノオ、北殿にアマテラス他の神がシンメトリーに並ぶ。
現地に立つと、古くから出雲の人々に愛されてきた社だという雰囲気がひしひしと伝わってくる。
なぜか須賀神社とここだけにある莫座替え祭は、古来からの市でにぎわう。
神在祭は「お忌みさん」と呼ばれ、神議(かみはかり)のために近在の人々は歌舞音曲や喧騒、造作を慎むという。
出雲二ノ宮であり、もとは島根半島全域を社域とする社格であった。
 
この社から北側の島根半島北岸は、日本海へと出入りする湊が並び、半島・大陸に向き合う重要な拠点であり、軍港の性格も有していた。
北東10キロにある「加賀の潜戸(くくど)」の海洞窟で、佐太大神は生まれたと風土記は書く。
日本海に臨む、極めて重大な位置を占める神であったことを意味する。
2008年に国交省が、日本海側への漂着ゴミ問題で、25箇所の海岸の実態調査を行った。漢字やハングルの漂着物が付近の海岸を埋めていた、と報道された。
潮流と風によって、古来、物や人や文化が直接到達する土地なのだ。
古代の表日本は太平洋側でなく、日本海側であった。そこは半島、大陸への道であり窓口でもあった。
西の日御埼神社から東の美保神社まで、島根半島は半島・大陸に面する表玄関であったのだ。
 
 
揖屋神社
日本書紀の斉明天皇五年条に、「狐が郡の役丁の葛を噛みちぎり、犬が死人の掌を言屋社に置いた」という不気味な記事がある。
「天子の崩りまさむ兆なり」と続く。
言屋社とは、山陰線揖屋駅の線路沿いにある揖屋神社である。
意宇六社のひとつ、古事記に揖夜社と記される古社である。
近くには、古事記に伊賦夜坂、出雲国風土記に伊布夜坂と書かれた「黄泉比良坂(よもつひらざか)」の比定地がある。
冥界に入った妻・イザナミのあとを追ったイザナギが、見てはいけないと言われたのを覗き見たところ、蛆がたかった恐ろしい姿に驚き、逃げ出した。追ってきたイザナミたちに桃を投げ、出口を大石で塞いで逃げ延びた、と記紀にある。 上田正昭氏が「黄泉国の入口」と呼んだ黄泉比良坂である。
記紀に出雲は「根の国」、つまり「冥界」として扱われている。
 
出雲の秘密を明かす
斉明紀には、斉明女帝が大国主の怒りを畏れ、厳神之宮(熊野大社あるいはのちの杵築大社)の大社修厳を行ったとある。近年出雲大社で金輪で括られた直径3mの巨大な柱が出土している。
大社巨大化工事と天子崩御・・揖屋社の記述は、出雲の王、のちの出雲国造が大和政権に屈服した前後、大和政権支配への出雲の反乱譚、何らかの出雲の反発を暗示する記事ではないかともいわれている。
出雲の建部は、武の部民が徴発された地域である。大和政権の侵略以前から、出雲王権には当然にも軍事的機能があった。
また出雲国賑給帳には、須佐大社のある伊秩郷に語部が6軒も記載されているという。非常に多い数である。
出雲郡の少領は大氏であった。記紀を撰修した太安万侶は大氏の一族である。
この語部たちが中央に出雲(西部)の神話を語り伝えたのだろう。
そうして出雲(西部)の伝承が記紀に採録され、神代巻の三分の一をも占める出雲神話となった、と鳥越憲三郎氏は推論する。
そして国引き神話など、意宇や東出雲に古来伝わる伝承の多くは採用されず、出雲国造が監修した出雲国風土記だけに、かろうじて載せられたのだと(鳥越憲三郎「出雲神話の成立」)。
記紀成立後、各氏族は好むと好まざるとにかかわらず、自らの生存のために記紀の記述に自らの立場を合わせるべく、祖神や系譜の修正まで行って皇統との繋がりを演出した(門脇偵二「出雲の古代史」)。
出雲国造の杵築移住と大社創建も、その象徴であるといえる。
 
出雲国造の祖・天穂日命(アメノホヒノミコト)は、大国主命に国譲りをさせるため出雲に派遣されたのに、大国主に媚びて三年も復奏しなかった。そこで代わりに遣わされた武甕槌命(タケミカズチ)と経津命(フツヌシノミコト)が、多芸志の小浜(稲佐の浜)で天の逆鉾に座って大国主命に国譲りを迫り実現させた、と記紀は書く。
ところが出雲国造神賀詞では、「出雲国造の祖・天穂日命は大国主命に媚びたようにみせ、国譲りを行わせた」と祖の功績を謳い、服して天皇への忠誠を読み上げる。
 
森浩一氏は、地元の論文を引いて、荒神谷遺跡の周囲を建御名方命(タケミナカタノミコト)を祭る神社が6つも取り囲んでいる、と述べている。
出雲の大国主命と、越の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の間に生まれたというタケミナカタ。
国譲りを迫る武甕槌命にひとり抵抗し、越後の弥彦山へ逃れ、さらに諏訪湖へと追われて諏訪神社に鎮まって祀られた、出雲の英雄であり全国の諏訪神社の祭神である。
越の日本海勢力が結んで、大和の勢力の侵攻に抵抗した投影ではないだろうか。
 
古事記は天武天皇が太安万侶らに編纂を命じ、推古天皇までの事績を記し、712年に元明女帝に献上された。いわば内向きの秘本であった。
日本書紀は、天武の子・舎人親王が撰じ、中臣鎌足の子・藤原不比等が中心となり太安万侶や紀臣らが編纂した。持統天皇までの事績を記し、元正天皇の720年に完成している。
こちらは明確に、唐や諸外国へ大和政権の正統性を示すための国史として作られた。ゆえに大和政権が万世一系であることを謳うために、多くの創作、脚色が施された。
前述のように太安万侶は出雲西部の大氏の出自であり、出雲の伝承が神話として多く取り入れられ、また編纂の目的に沿って大きく潤色された。
日本書紀は宮中に於いて読誦される正史であったから、出雲はやむなくその記述に沿うように姿を変えた。熊野大社を祀っていた意宇の出雲国造の杵築行き、つまり杵築(出雲)大社の成立はその象徴でもある。
 
日本書紀の一書(あるふみ)に、「素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥いて、新羅国に降到りまして曾尸茂梨の處に居します」と記述がある。新羅国、外国の地名が日本書紀に出る最初である。
出雲で愛され出雲を象徴する神・スサノオは、百済を本貫とする当時の大和政権には、敵としての新羅をイメージした神格だったのではないか。それは、制圧が困難だった出雲そのもの、さらには蘇我氏をも投影した神格として「正史」に描かれたのではないか。
 
出雲を歩くと、教科書で習った歴史とは異なる、日本の成り立ちが見えてくる。
その原像の秘密を求めて、ひとまず出雲を発ち、私たちの旅はさらに西へ進もう。
 

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