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「心の傷」と「想像」

自分だけが感じている心の痛みは誰にもわからない。
「誰か私の心の傷に気づいて」と他者を求めるのに、
「その気持ちわかるよ」とか言われると、
「わかった口聞くなよ」と他者を遠ざけてしまう。

痛みを抱えていることを知って欲しいのに、
決して私の何かを理解された気にはなってほしくない。
これはわがままなのか。

メンタルヘルスから生まれたのに、その略語のルがラに変わった途端に厄介でめんどくさいやつに変換されて、気づけばマイメロとクロミちゃんをトッピングされてしまった。
メンヘラってわがままなのかな。


僕は西加奈子さんの『i』という小説を読んで、
「誰かに痛みを知って欲しい」という気持ちと
「痛みを理解した気になってほしくない」という気持ちは両立していいと思うようになった。
そしてそれは別にわがままでもめんどくさいことでもない。
メンヘラという言葉に変換されて余分な意味を付け加えられるものじゃなくて、ただ、心の傷の問題だ。

加えて、誰かに私の痛みをわかってほしいと求めているのに、手を差し伸べるとそれを払いのける人を見ても
”メンヘラ”と""をつけて嫌味っぽく括らなくていいし、適切な接し方があるのではということにも気づいた。

想像することだと思う。

自分は持っていない痛みを抱えている人がいることを知る。
自分が寄り添うことでその痛みは半分にできるなどと傲慢にならない。
どれだけ寄り添ってもその痛みはその人の痛みだ。減ったりしない。
減ったりはしないけど、限りなく想像してみる。

そうすることで、その痛みは、他者を介して存在を持つ。
傷は減らないけど、傷があるという事実が残る。
傷の痛みはその人だけのものだけど、
”傷がある”ということは二人の事実になる。

傷を減らして欲しいのではなく、
傷があるということを知って欲しい。
一人で心の傷と戦うのはつらいから、
戦っているということを知って欲しい。

僕は自分が傷ついている時、
誰かに気づいてほしい、でも、
痛みを分け合おうなんて言われると腹が立つ。
お前が同情できるような痛みじゃない。

だけど、ここに傷があって、
自分が心を痛めている、戦っているということを認めてほしい。
辛いんだ。苦しいんだ。孤独なんだ。どうにもできないんだ。
「半分こしよう」なんて言葉で勝手に減らさないでくれ。
この傷は僕だけのものだ。

ただ、傷があるということを知って、想像してほしい。
一緒に心を痛めてほしい。
そうすれば僕が戦っていることはあなたと僕のものになる。
僕の心の傷に共感して欲しいのではなく、
「僕の心に傷がある」ということを知って欲しいのだ。
戦っていることを知って欲しいのだ。

誰かが傷の存在証明を一緒にしてくれるだけで、
それだけで人は傷と戦えるようになるのではないだろうか。

誰になんと言われようともあなたの傷は確かにあることを
僕は精一杯想像している。

僕にその傷を癒すことも減らすこともできないが、
あなたの傷はそこにあって、
あなたはそれと毎日必死に戦っていると思う。

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