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「変わらないこと」へのまなざし《後編》


生きるなら優しい世界がいい

日本の駅の階段でベビーカーに悪戦苦闘している母親がいても早足で通り過ぎる人。なんなら邪魔だとばかりににらみつけたり、舌打ちする人もいる。(もちろんそうでない地域もあるのは知っているが)

他方、教養として宗教思想が文化の下地にある国、例えば私が足を運んだことがあるフランスやイタリアでは、駅にエスカレーターやエレベーターがないことも多かったがベビーカーの親子がいればどこからともなく人が現れ、サラリーマンも御婦人もさも当然のように手を貸していた。

電車もそうで、妊婦、子供、高齢者、身体障害者がいれば1人どころか数人が立ち上がって我先にと席を譲る人もいた。これが偶然ではなく、何度も見た。

これは個々の価値観ではなく、おそらく心の豊かさにつながる、文化の根源にある宗教が倫理観や人生観として共通で備わっているからなのだろうと肌で感じた。

日本だって、宗教と地域共同体が一緒になっていたころや今もそういった地域では当たり前に困っている人に手を貸したり、おたがいさま・おかげさまで支え合っている風景はある。

ただ、人口動態が都市部に集中しつつある中、比例して生活共同体も想像の共同体としての宗教も失われていっている。

それに呼応して、日本人は畏怖や謙虚さを失いつつあるように思う。

同時に「1人で生きていける、生きていかねば」という脅迫にもにた自己責任感が育って、生きていくために「変わるもの」に必死で食らいついたり、適応しようと焦っているようにも見える。

でも根っこが不安定だったり利己的だから、生活にしろビジネスにしろ政治にしろ、変わるべきタイミングや方法を逃し、どこか上滑りしているようにも感じる。

「変わらないこと」を土台に確かな己を持ち、心豊かになることで、他社に優しくできる人が増えるなら私はそんな社会のほうが今よりいいと思う。

政治も、生活も、人も救いがなければがんばっても報われず、くだびれてしまう。

私たち人間は、効率的に生きているようで非効率で矛盾だらけの混沌とした生き物だと思う。

そんなめちゃくちゃな生き物なんだから、「変わらないもの」を1つくらい持っていてもいいじゃないか。

環境が変わろうとも自分を見失わず、心豊かであれることで、他社に優しくすることで他者からも優しくされる自分が嫌だという人はあまりいないだろうから。

「変わらないもの」としてのお寺を支援する

私は日本全国のお寺を支援している。

「変わらないもの」である仏教が持つ素養を現代社会に活かして、檀信徒や地域社会に貢献するお手伝いができれば長々と書いた考えや目指している社会に近づくと思っているから。

そのためには宗教の持つ価値を信じ、人から信じられる僧侶が1人でも多く必要。

僧侶も人間だから大変なことやままならないこともたくさんある。それこそ厳しい修行とも言えるのかもしれない。

でもその大変さの中で悩みつつ誠実に考え、行動し、着実に社会を優しくしている僧侶がいる。

すでにそうある僧侶はもちろん、そうありたいと試行錯誤されているお寺に対して微力ながら伴走者としてお役に立てる私であり会社でありたい。

生きてる間にやりきれなくても、真剣にそこを目指して進めば、進んだ道の後を誰かが歩いてくれるかもしれないし、そうであったらありがたいとおもう。

だからこそ私自身が信じる信条を大切に、親友や師匠、仲間と家族が価値だと信じてくれる私の「変わらないこと」を見誤らず、しっかり掴んで、磨いていきたい。







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