見出し画像

歴史の扉 No.17 「K-POP」の世界史

コロナ禍1年目、波が一瞬収束したそのタイミングで、たのしい遠足だというのに、生徒たちは「バス車内は静かに」との注意を行儀よく内面化していた。その座席から、つつましくささやく「Dynamite」が聞こえたとき、コロナ禍の鬱々がぱっと晴れるような心持ちがした。2020年、BTSの楽曲「Dynamite」が、アメリカ・ビルボードの総合チャート「ホット100」で初登場1位となった、ちょうどそのころである。いまだに高校生の間でもなかなかの人気であるが、世代の差もあって、それ以前のK-POPとのつながりをよく追うことができていない。

今回の「歴史の扉」は、山本浄邦さんの『K-POP現代史』の紹介としたい。特に、K-POPの流行の「前史」が、コンパクトで鮮やかに整理されている。高校生から見える「韓国」像になかなかついていくことのできない「K-POP音痴」としても、現在のK-POPのグローバルな発展を世界史とのつながりの中で理解しておきたい授業者にとっても、実に役に立つ一冊だ。

BTSに代表されるK-POPのルーツをたどると、ひとつはBTSの悲願となったビルボードの国、アメリカに行き着く。目標はすなわち源流でもあったのだ。だが同時に、別のルーツもひもとく必要がある。朝鮮半島の置かれた「植民地近代」的な状況だ。『K-POP現代史』では、その複雑な交錯が、限られた紙幅のなかでていねいにまとめられている。戦後の日韓関係やヒップホップとの関係などについては直接読んでいただくこととして、ここでは「前史」にあたる部分のみを紹介しようと思う。



山本は、時代を19世紀のアメリカにまでさかのぼらせる。当時のアメリカは新興国。ここに、ヨーロッパの古典音楽や民謡、イギリス都市部のバラード、アフリカ由来の音楽、さらにスペイン・ポルトガル由来の音楽と黒人音楽の融合したラテン音楽が本流のように流れ込んだ。楽器の普及によってマーチングバンドが流行し、フォスター(1826 ~64)に代表される音楽家の登場、さらには円盤型レコードの発明と普及によって、音楽はますます大衆化され商業化されていった。


レコードの波は東アジアにも伝わった。日本での国産化は、横浜の蓄音器輸入商F・W・ホーンが1906年に日本コロムビアの前身である日本蓄音器商会を設立したのがはじまりだ。


第一次世界大戦後の好景気には、新産業であるレコード業界がもてはやされ、1910年に植民地としていた朝鮮でも、日本の作品がもととなった朝鮮語曲がリリースされた。日本の植民地統治の影響を受けつつ、朝鮮の歌謡曲は1920〜1930年代の「文化政治」期に形成されていくこととなる。


たとえば、この「荒城の跡」という楽曲は、李愛利秀(イ・エリス)が歌ったものが1932年にビクターレコード(日本ビクター)から発売され、愛唱された。西洋音楽の理論を学んだ作曲家により手がけられた、本格的な朝鮮歌謡曲の先駆けだ。東京音楽学校など日本の教育機関で西洋音楽を学ぶ朝鮮人も多かった。その後、戦時期の日本には軍歌(軍国歌謡)も多くつくられた。




日本にとって1945年以降は「戦後」だが、朝鮮半島は深刻な分断を経験する「戦時」を経験した。そんななか、韓国側にはアメリカの音楽がどっと傾れ込む。特に人気を博したのは安貞愛(アンジョンエ)の「大田ブルース」に代表されるブルースだ。
李承晩政権は、日本文化の影響を排除する政策をとった。音楽も例外ではなかったが、水面下で植民地時代の日本的な歌謡曲も受容され続けていた。

アメリカのポップ音楽と、日本の歌謡曲。この2つの影響を受けながら発展した韓国大衆音楽には、1960年代のテレビの登場により、ダンスをはじめとする視覚的な要素が付加された。特に、エルヴィス・プレスリーの影響は甚大で、南珍(ナムジン、1965年デビュー)は、エルヴィスのダンスを模倣しつつ、日本の歌謡曲の流れをくむ「トロット」とよばれるジャンルで人気を博した。1970年代にはこの南珍と、ライバルの羅勲児(ナフナ)が人気を二分した。曲調は日本の歌謡曲と似通ったテイストだ。




こちらが表面だとすれば、裏面は政権批判と親和性の強いロックとフォークの勃興だ。

1960〜80年代にかけての韓国は、朴正煕(パク・チョンヒ)をはじめとする強権的な政権により支配されていた。1979年には朴正煕が韓国中央情報部長によって暗殺された。中央情報部長は軍に逮捕され、非常戒厳令が出された。そんななか、韓国軍内部の保安司令官・全斗煥(チョン・ドゥファン)がクーデタによって実験を掌握。1980年5月には民主化デモが広がるも、光州ではデモが武力で弾圧され、軍事政権の打倒はあえなく潰えることになった。大衆音楽を含めた文化に対する統制も強まった。

この中で生まれたのが「イムのための行進曲」だ。光州事件で亡くなった青年がモチーフとなったもので、全政権はこれを禁じるも、根強く歌い継がれることとなる。政権に忖度する「大衆歌謡」に対し、自由と民主をうたいあげる歌謡曲は「民衆歌謡」と呼ばれた。ただ、音楽に対する検閲は依然として厳しく、放送局に対する圧力も強まった。

1970年代後半にロックなど新しいジャンルを取り入れ人気を博していた李秀満が、1981年にアメリカに留学する道を選んだのも、こうした状況があってのことだった。この李秀満こそは、のちにSMエンターテイメントを立ち上げることとなる人物である。1985年に帰国した李は、1989年にはSM企画をたちあげ、アメリカのMTV(ミュージックビデオ)文化を韓国にもちかえろうと夢見ることになる。

1980年代の日本といえば、「アイドル」文化が花盛りで、「アーティスト」という概念も普及しつつあった。一方、韓国は政治的には軍政がつづき、認められた枠内でなければ自由な表現は謳歌できない。1980年代の韓国には、主に10代をターゲットとしたアイドルなんて存在しえなかったのだ。

男性アイドルグループ少年隊が「仮面舞踏会」でジャニーズ事務所からデビューしたのは1985年のこと。これにインスピレーションを得て、のちにDSPメディアを設立することになるイ・ホヨンが1987年に「消防車」(ソバンチャ)をデビューさせた(代表曲「オジェパム・イヤギ~ゆうべの話」は、のちにダウンタウンが「オジャパメン」(1996年)としてカバーしている)。

ジャニーズ事務所の原点も、朝鮮戦争への従軍経験をもつジャニー喜多川が、ロサンゼルスや米軍施設で「ウェストサイド・ストーリー」などミュージカル文化を摂取したことにある。この後も東アジアでは、アメリカ音楽を鏡としつつ、おのおの非対称的な政治状況に左右されながらも、文化が国境を越え再解釈され続けていく。音楽に国境はないとは、まさにこのことだろう。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊