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「大航海時代」は、すごいのか? 史料でよむ世界史 8.1.1 大航海時代

「大航海時代」というネーミングは適切か?


「大航海時代」を辞書で引くと、次のようにある。

大航海時代    15世紀から17世紀前半にかけて、ポルトガル・スペインを中心とするヨーロッパ諸国が地球規模の遠洋航海を実施して新航路・新大陸を発見し、積極的な海外進出を行った時代。バスコ=ダ=ガマのインド航路開拓、コロンブスのアメリカ大陸到達、マゼランの世界周航などが行われ、世界史上に、近代植民地体制の確立という転機をもたらした。発見時代。

なるほど。ヨーロッパ諸国が新しい航路、新しい大陸を発見した時代というわけだ。
じつはこの言葉は和製の歴史用語であり、海外ではむしろ「発見の時代」と呼ばれることが多い。

「大航海時代」と「発見の時代」。
この二つの言葉の共通するのは、どちらも主語が「ヨーロッパ」にある点だ。
ヨーロッパが大航海をした時代。
ヨーロッパが新航路と新大陸を発見した時代。

ヨーロッパ中心の歴史の見方をすれば、この用語は適切だろう。
しかし、ヨーロッパが進出した側から、ヨーロッパの進出を眺めた場合、果たしてこの用語は事態を正しく言い表していると言えるのだろうか。


ヨーロッパの地理的知識はとっても乏しかった

ヨーロッパはユーラシア大陸の “端っこ”に位置し、13世紀(今から700年ほど前)のモンゴル帝国以降わき起こっていた「ユーラシア大陸東西の海上貿易ブーム」の恩恵にもあずかることはできず、「低成長」に甘んじていた。また、ヨーロッパ以外の世界に対する正確な知識も乏しい状態だ。

次の地図は中世ヨーロッパにおけるキリスト教的な価値観を象徴する地図であり、その形状からTOマップ(TO図)と呼ばれる。

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この図には直接描かれていないが、円の中心部には、キリスト教の五本山の一つであり、イエスが処刑された都市であるイェルサレムがある。
「T」字の横棒はドン川を示し、縦棒は地中海を表している。上部はアジア、左下側はヨーロッパ、右下側がアフリカを表している。周囲が海で囲まれているのは、古代オリエントや古代ギリシア以来の伝統的な価値観のあらわれとも言える。


TO図の形式を受け継ぐのが、以下のヘレフォード図である。

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1300年頃のイングランド(イギリス)で作成されたこの地図は、基本的にはTO図の構成を踏襲しているものの、上記よりもはるかに細かく正確な知識が盛り込まれている。その理由としては、1300年までの間に十字軍がおこなわれたことにより、地理的な知識や視野が拡大したことが挙げられる。



地理的な情報は、イスラーム教徒の世界のほうが豊かだった。

そんなヨーロッパに比べると、同時代のイスラーム教徒やユダヤ教徒たちの世界は、古代オリエントの時代より受け継がれた知識の成果を生かし、科学的な知見に基づく地図を制作していた。


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これは12世紀のイドリーシーという地理学者の作成した世界地図を、地球儀の形に修正したものだ。彼は地球球体説を主張し、コロンブスなどの大航海時代の探検家や地理学者に大きな影響を与えている。

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これは、そのイドリーシーがシチリアに王宮を構えた神聖ローマ皇帝に捧げたものだ。

上下逆にしたほうがわかりやすいかもしれない。

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かなり正確に情報が書き込まれているのがわかるよね。


この地図と似た構図をもつのは、次の地図だ。

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これは古代ローマの天文学者プトレマイオスの著した『地理学』に基づき作成された地図であり、少なくとも2世紀のローマで知られていた。

地図の右端の の部分には「SINAE」という表記が見られ、「中国」のことであると考えられる。
アフリカ大陸の南部は、東南アジア方面とのあいだで陸続きになっているが、実際にはアフリカ大陸の南方には海がひろがっている。
また、インド洋は、まわりの閉ざされた「内海」として描かれているのも特徴だ。

それに比べると、先ほどのイドリーシーの地図では、インド洋の東方は、外部に開かれた形で描かれているね。

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ヨーロッパにもたらされた「黄金の国ジパング」伝説

情報の限られている中、魅力的な噂も、ヨーロッパに次々と流れ込んでいった。

・ヴェネツィアの商人 マルコ=ポーロが『世界の記述』(東方見聞録)で言うには、アジアには“黄金の国ジパング”とやらがあるらしい(ジパング→ジャパン→日本?)。


・イスラーム教徒たちの東の果てには、伝説のキリスト教の司祭(プレスター=ジョン)の国があるらしい。協力関係を結べば、イスラーム教徒を挟み撃ちにできるかもしれないぞ!


・アジアには、香辛料がざくざくとれる産地があって、そこに直接行けばイスラーム商人たちを“中抜き”することができるはずだ。
・アジアに到達するために、従来のルートに代わる新たなルート(インド航路)があるはずだ。

一方、こうした真偽不明の情報が“真実”かどうかを確かめることを可能とする、新たなテクノロジーや研究も進みつつあった。


・かつて宋代の中国で開発された羅針盤(らしんばん)の改良
・高速で遠洋航海が可能な帆船(はんせん)の普及
・正確な海図(かいず)の製作
・地球がテーブルのような円盤状ではなく、ボールのような球体をしているのだという知識(地球球体説🌏)

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「大航海」は、ポルトガルから始まった

そして迎えた15世紀前半。アジアへの到達をめざす巨大プロジェクトを実際に展開しようという動きが盛り上がるようになっていく。その火蓋を切ったのはポルトガル王国だ。

領域内からイスラーム教徒の勢力を追放する「国土回復運動」(レコンキスタ)を進めていたポルトガルは、すでに15世紀初頭にはアフリカ大陸西岸の探検に乗り出していた。
支配層にとって、イスラーム教徒を追い出し、キリスト教を布教させることは”名誉“あること。

ポルトガルの目的はプランテーション

のちに「航海王子」と呼ばれることになるエンリケ(1394〜1460年)は、自身は船酔いがひどく乗船できなかったものの、西アフリカ沿岸への航海を進めるプロジェクトを推進。
1415年には北アフリカのセウタという都市を攻略し、ちょっとずつアフリカ西岸を南へ南へ探検していった。


ポルトガル人を突き動かしたものは何か?

アジアの香辛料を直接ゲットすることも大きな目的だが、それと同時にサハラ砂漠の彼方にあるとされた金(きん)の産地も、大きな魅力だった。

また、大西洋上の島々で、サトウキビのプランテーションを始めたのもポルトガルだ。
エンリケ王子はこうしたプランテーションでの労働力だけでなく、ポルトガル本国にまで、多数の黒人奴隷をアラブ人から購入。1470年代に西アフリカで金の直接取引がスタートするまで、ポルトガル南部における奴隷市場は大賑わい。
1450年代には毎年アルギンから700〜800人の黒人奴隷がポルトガルに連れて行かれたのだという。


ゴメス・エアネス・デ・アズララ『ギネー発見征服誌』(1454年)の記録

(エンリケ航海王子をたたえるために書かれた年代記の一部。1444年8月8日、ポルトガル人は西アフリカのブランコ岬に到達し、1441年から沿岸の住民を捕獲してポルトガルに連れ帰るようになっていた。以下は、住民を捕獲する様子を記録したもの。)
......かれらの中であるものは色がかなり白くて美しく、均整がとれていた。またあるものは肌がそれほど白くはなく、むしろ黒色混血人に似ていた。さらにまたあるものはエチオピア人のように黒い色をしており、顔も体つきもすこぶる醜悪で、かれらを眺めていると、さながら地底の世界(地獄)の化物を見ているごとく思われたのである。


地獄の化け物...なんともすごい言い方だ。

とは言え、いかに冷酷な心であろうとも、この集団を目の前に見て、憐れみの情に痛まぬ心とは、いったいどのようなものであろうか。......
殿下〔エンリケ航海王子〕は逞(たくま)しい馬にうちまたがって、家中の者たちを従え、恩賞を分かち与えておられた。......この人たち〔アフリカの住民たち〕は、われわれ〔ポルトガル〕の言葉についての知識を得るや否や、ごく僅かの努力でキリスト教徒になったからだ。
(以上、『世界史史料5 ヨーロッパ世界の成立と膨張 17世紀まで』岩波書店、280頁)

その後、ポルトガルは現在のガーナにあるエルミナを占領。現地の王の認可を得て砦をつくり、大砲と要塞でがっちり防備した。ここでは、金を直接取引すると同時に、小規模ではあるが黒人奴隷貿易も行われている。


こうして見てみると、「大航海時代」の先鞭を切ったポルトガルの行動は、いきなりアジアの香辛料をゲットしようとしたわけではないことが見えてくる。
ポルトガルは、サハラ砂漠を横断するアラブ人やベルベル人などによる貿易に、海上ルートで参入しようとし、金を直接ゲットしようとしたわけなのだ。



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南アフリカの南端を突き止める


ポルトガルは、その後も南へ南へ進んでいく。
そして貴族の反乱をしずめることで王権を強化したジョアン2世(在位1481〜95年)の下、1488年にバルトロメウ=ディアス(1450頃〜1500年)が、当時のポルトガル人にとってまさに”地の果て“であるアフリカ大陸南端近くに突き出た岬に到達したのだ。

「アフリカの南端には海はない」とする、当時のヨーロッパ人の常識を180度ひっくり返す世紀の大発見なのだった。
この岬には「良い知らせ」ということで、日本語では「喜望峰」(きぼうほう)と訳される名前が付けられた。
「峰」だけど、山のことじゃないよ。

アフリカ南端の岬の秘密を手にしたポルトガル王マヌエル2世は、ヴァスコ=ダ=ガマ率いる海軍を派遣。ガマの軍は大西洋を南下して、喜望峰からインド洋に入り、アフリカ東岸の未知の領域を北上した。

しかしそこは、古来アラブ商人やペルシア商人の集まるインド洋交易エリアであり、大きな港町が点々とし、さまざまな商人や商品が行き交っていた。

だが、ガマはそんなことなど構いもしない。
インド洋の商業上の慣習を守ろうとせず、武力もちらつかせながら各都市を威圧した。

ガマの記録を見てみよう。

 「この土地〔東アフリカ〕の住民...はマホメット教徒であり、モーロ人の言葉を話す。...彼らはみな金の意図で縫 いとった絹の帽子をかぶっている。また彼らは商人であり肌の白いモーロ人たちと貿易を行なっている。その時もモーロ人の船が 4 隻港にいて、金、銀、布地、丁子、胡椒、生姜、たくさんの真珠、
ルビーのついた銀の指輪などを積んでいた。原住民達はこれらの品々を全て持っている。
...金を除けばモーロ人たちが持ってきたもの...。

また彼らはこんな話しもしてくれた。プレステス・ジョアン (プレスター=ジョン)がその近くに住んでいて...奥地にいるのでらくだに乗ってしか訪ねることはで きない。...われわれは嬉しさの余り泣き出してしまい...。この土地の船は大きく、甲板は張ってい ない。板は釘でなく草のひもでとめてある。

...水夫達はジェノア人の羅針で舵をとり、四分儀と航 海図を有する。...彼(現地の領主)はその後、総司令官(ガマ)にいろいろな品を贈った。このよう な扱いを受けたのも、彼はわれわれがどこか他の土地から来たモーロ人かトルコ人だと思ったからである。彼らはしきりにトルコから来たのかと尋ね、お国の弓を見せてくれとか、コーランを見せてく れとせがんだ。

...王はすぐにキリスト教徒の水先案内人を送ってよこしたので...水先案内人とともにおどりあがって喜んだ。」(野々山ミナコ訳『ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海記』『大航海時代叢書 I-1』)

東アフリカの当時の様子が読み取れるね。


そして、現在のケニアにあるマリンディという港町国家で、アラブ人の地理学者・船乗りであるイブン=マージドの協力を得ることに成功したガマ軍は、ついに1498年にインド西岸の港町国家カリカットに到達する。

カリカットの王とガマとのやりとりの記録を見てみよう。

「(ガマのブカ)はキリスト教徒と香料を探しに来たと〔カリカットの王に〕答えた。
...司令官は、自分が多くの国を所有し、付近のいかなる王よりも富裕なポルトガル国王の使節であること、過去60 年間先代の王達 が、自分達と同じキリスト教徒の王がこのあたりにいると伝え聞いてからこのあたりは毎年船を送って探させたこと、そうした理由でこの地方の探検を命じたのであってそれも金や銀が欲しいからではない、
...ただキリスト教徒の王を発見する目的のために、幾人もの司令官が1年2年と海をさまよい、食料つきて何も見つからぬまま空しくポルトガルに引き上げてきたことなどをのべた。

...司令官 は王への贈り物として次の品々を準備した。12 枚の帯、緋色の頭巾 4 枚、帽子 6、四連の珊瑚の 玉 3、6 個の鉢を入れた包み、砂糖の箱 1、油入の樽 2、蜜入りの樽 2。
...すると彼らはそれらの贈り物を嘲笑し、とてもこんなものは王様にさしあげるべき代物ではない、メッカやインド各地から来る もっとも貧しい商人でさえこれよりはましな贈り物を持ってきた...王様はとてもそんあものはお受取 なさるまいといった。司令官はそれを聞き意気消沈した。

...ポルトガルでは 300 レアルする薄手のシャツがこの地では 30 レアルに相当する 2 ファノでしか売れなかった。...シャツだけではなく他のものも同じ用に安い値段で売り、その金で見本にこの土地の品を買った。町で売られている丁字、 肉桂、宝石などを。」


対等に交易をしようとしたポルトガルだったが、あっさりスルーされてしまったことが読み取れる。
なんといっても当時のインドは、インド洋交易の中心地。
辺鄙なヨーロッパ人の扱う、しけたシャツなんぞに、たいした価値が付くはずもなかったのだ。

このようにポルトガルの差し上げた贈り物が、カリカットの王を満足させることができないとわかると、ガマの艦隊は大砲をぶっ放すなどの狼藉(ろうぜき)をはたらき、港を占拠。こうしてカリカットはポルトガル王国の拠点となった。

ガマはカリカットから香辛料を満載して王様に配達。
王室はこのインドとのダイレクトな貿易売り上げによって莫大な富を獲得できたわけだ。

こうして、地中海の反対側に位置しヨーロッパの片田舎であったポルトガル王国の首都リスボンは、突如としてアジアとの“貿易センター”へ大化けしていくこととなる(現在のリスボンの街並みは大津波被災後に復興されたもの)。



すでに15世紀からアジアは「大交易時代」を迎えていた

このように、15世紀末(今から550年ほど前)から始まった、ヨーロッパ人の「ユーラシア東西貿易ルート」「地中海やインド洋につながる物流ルート」に“新規参入”しようとする時代を、欧米では「発見の時代」(the Age of Discovery)という。

でも、「発見」って言われても、“発見された側”であるアジアやアフリカの人々にとっては、「おいおい、それはこっちのセリフ。お前らヨーロッパ人を “発見” したのは自分たちだ」っていう感じだよね。

そこで、「発見」という言葉に込められた “ヨーロッパ人目線の世界史” を矯正するために、日本の研究者が「大航海時代という呼ぼう」と提唱し、一般に広まったんだ。

でも、「大航海時代」っていうとヨーロッパの商業の力がとっても強かったかのように思えるけど、当時の世界の貿易中心地はあくまで「インド洋沿岸」。
すでに15世紀初め(今から600年ほど前)には、中国人の鄭和(ていわ)率いる大艦隊がアフリカにまで到達していたくらいだ。

そこで「ヨーロッパが海に進出しはじめたこと」だけを「大航海時代」というのではなく、それ以前の鄭和(ていわ)の南海遠征ころからの“商業ブーム”の時代をスタート地点に「大交易時代」という時代の区切り方も提案されている。


そうすれば、ヨーロッパ勢力が後から遅れてやってきた “新参者”だということもハッキリするし、ユーラシア大陸という大きなスケールの歴史的な波動の中で人々の動きを捉えることも可能になる。

つまり、アジアの人々にとってみれば大砲で武装したヨーロッパ人の船団は、対等な貿易相手というよりは、むしろ外部から侵入した招かれざる客にすぎず、ましてや魅力的な商品を販売する貿易相手としても不適格な存在だったのだ。


このように、歴史用語のなかには、当時の人がそのように呼んでいたわけではない言葉が少なくない。


たとえば当時の人は「今は大航海時代だ。」と認識していたわけではないわけだ。


その用語は、どのような意図でもって名付けられたものなのだろうか?
違う言い方をするならば、どんな言い方ができるだろうか?
さまざまな事実をもとに考えてみると、まったく別の見え方が現れてくるかもしれないね。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊