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史料でよむ世界史 15.3.2 アフリカ諸国の独立と苦悩

サハラ以北の北アフリカでは、1951年に早くもリビアが敗戦国のイタリアから独立した。
そして1956年にはイギリスとエジプトの支配下にあったスーダン、そしてフランスの支配下にあったモロッコチュニジアが独立する

しかし、アルジェリアが独立するには、フランスと厳しい戦争を経る必要があった(アルジェリア独立戦争)。アルジェリアには、植民地化された1830年以降、すでにフランス人の入植者がたくさん暮らしていて、そのことが事態を複雑化させたのだ。
アルジェリアで独立運動を指導した「アルジェリア民族解放戦線」の闘争宣言(1954年)を見てみよう。

「われわれの政治綱領の主要な原則は、以下のとおりである。

目的——国民的独立と、そのための

1   イスラム諸原則の枠内で、主権をもつ民主的・社会主義的アルジェリア国家の回復
2 人種と宗教による差別のない一切の基本的自由の尊重

国内目標、国際目標 (略)

闘争手段
(中略)
1  単一にして不可分のアルジェリアの主権の承認という基礎のうえに、アルジェリア国民の権威ある代表者と交渉を開始すること。
2  すべての政治犯を釈放し、すべての弾圧処置を廃止し、また闘争勢力に対するすべての訴追を中止することによって、信頼の空気を醸成すること。
3  アルジェリア人民の歴史・地理・言語・宗教・慣習を無視して、アルジェリアをフランスの一部とした法令・政令・法律を廃止するという公式の宣言によって、アルジェリア民族の存在を承認すること。

その代わりに、
1  略
2  アルジェリアに残留を希望するすべてのフランス人は、フランスの国籍を保持してもよいし、アルジェリアの国籍を選んでもよい。(後略)
3  略」(参考『世界史資料 下』とうほう、1977年、528-529頁)


泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び、フランス大統領ド=ゴールが第五共和政を成立させることとなった。ド=ゴールは、1962年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込むことになる。

●エヴィアン協定(1962年)

A  アルジェリアにおける停戦の合意
第1条  アルジェリアの地域全体における軍事作戦および一切の武力行動は、1962年3月19日12時をもって停止される。(以下略)
(参考『世界史資料 下』とうほう、1977年、529頁)

植民地から独立するために、14万人以上のアルジェリア人が犠牲となった。


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独立の波は、さらにサハラ以南のアフリカ(サハラ砂漠より南に位置するアフリカのことを「さはらいなんのあふりか」とか「ブラック・アフリカ」と呼ぶ)にまで波及する。
1949年に設立された会議人民党による独立運動の結果、1957年にンクルマ(エンクルマ、1909~72。在任1960~66) がガーナをイギリスからの独立に導いた。

当時の映像から、その熱気を感じ取ってみよう。


●独立宣言(1957年)

「We have won the battle and again rededicate ourselves … OUR INDEPENDENCE IS MEANINGLESS UNLESS IT IS LINKED UP WITH THE TOTAL LIBERATION OF AFRICA.」
「We have awakened. We will not sleep anymore. Today, from now one, there is a new African in the world!」

エンクルマが、ガーナの独立を「アフリカ全体の解放」につなげようとする思いを抱いてことがわかる演説だ。


●ガーナの会議人民党の綱領

(1)黄金海岸の族長と民衆のための「いますぐ自治を」を完全に達成するため、合法的なあらゆる手段をつかって容赦なく闘うこと。
(2)あらゆる形の圧政を除去し、民主的な政府を樹立するための、強力な、目ざめた前衛として活動すること。
(中略)
(6) 西アフリカの統一と自治の実現を、可能なあらゆる方法で助長し、推進すること。

黄金海岸(ゴールド・コースト)というのは、植民地時代のガーナの呼び名だ。


さらに1958年にはギニアが独立している

そして、1960年、じつに17カ国が独立を達成。この年は「アフリカの年」と呼ばれる。

しかし、独立は新たな悲劇の始まりでもあった。
1960年にはコンゴ動乱(銅資源の眠るコンゴの独立後、ベルギーが反政府勢力を支援し、内戦となった)が勃発したのだ。
これは独立したコンゴ共和国の南部(カタンガという州)に眠る鉱産資源に目を付けたベルギーが、南部の反政府勢力を支援し、政府をたおしてしまうという、とんでもない事件。
動乱に先立ち、コンゴ共和国の初代首相のパトリス=ルムンバさんが、1960年6月30日の記念式典でおこなった、希望に満ちた演説を見てみよう。


「コンゴのみなさん
今日勝利をおさめた独立の闘士のみなさん、今後政府を代表してご挨拶いたします。

友人のみなさん、たゆむことなく私どもとともに闘ってこられたみなさん、この1960年6月30日という日をみなさんの心にしっかりときざみつけておくようお願いします。この大事な日付の意義をみなさんは誇りをもって子供たちに教えてください。この子供たちがまたその息子や孫たちに、私たちの自由を求める闘争のかがやかしい歴史をしらせることができるように。(中略)

この闘争は、涙と火と血にみちたものであり、私たちは心の底からこの闘争を誇りに思っています。なぜならこれは、高貴な正義を求める闘争であったし、暴力によって私たちに押し付けられた恥ずべき奴隷制に終末をもたらすために不可欠の闘争だったからです。

植民地制度下80年にわたる運命を通じて、私たちの傷口はあまりに生なましく、あまりに苦悩にみちていて、これを即座に記憶から追い出すわけにはいきません。(中略)

私たちは世界にたいして、黒人が自由に労働できるとき、どれだけのことをなしとげられるかを示しましょう。そして今後をアフリカ全体で太陽ののぼる中心地としましょう。(後略)」(参考『世界史資料 下』とうほう、1977年、527頁)


しかし結局ルムンバは逮捕され、殺害。その後、南部カタンガを支援する国軍のトップであるモブツがクーデタを起こし、大統領に就任した。彼の背後にはアメリカ合衆国の支援があった。

モブツ

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このように独立後も、天然資源をめぐって先進国が介入する事例は後をたたなかった。アフリカに地下資源が豊富に分布することが貧困の原因であるとする意見もある
ソ連グループとアメリカ合衆国のグループは、「近代化をしてあげる代わりに、資源をちょうだい」「援助をしてあげるから、いうことを聞いてね」と、アフリカ諸国に擦り寄っていく。
植民地からせっかく独立したのに、結局「上下関係」が温存される形となったのだ。

これに対し、アフリカの独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立し、一致団結して独立をみんなで守ろうとする(本部はエチオピアの首都アディスアベバに置かれた)。

●アフリカ統一機構の憲章の諸原則(1963年)

1 すべての加盟アフリカ諸国家の主権平等
2 加盟国に対する内政不干渉
3 各国家の主権と領土保全および固有の独立権利の尊重
4 交渉、仲介、調停、もしくは仲裁による紛争の平和的解決
5 近隣諸国に対する膨張活動のみならずあらゆる形の政治的暗殺の排除
6 未独立のアフリカ諸地域への全体解放への絶対的献身
7 あらゆるブロックに対してノン=アラインメント政策をとることの再確認
(参考『世界史資料 下』とうほう、1977年、530頁)

しかし、足並みはしばしば乱れ、しだいにソ連やアメリカの「冷戦」構造に巻き込まれていくこととなる。


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もちろん、アフリカ諸国の中には、ソ連やアメリカの経済手法をそのまま導入するのではなく、それらを元にしつつ独自路線を歩んだ国々もある。その代表がタンザニアだ。

タンザニアの「建国の父」ニエレレの言葉に耳を傾けよう。

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●ニエレレによる『ウジャマー社会主義―アフリカ社会主義の基礎』

「「ウジャマー」すなわち「家族愛」はわれわれの社会主義を表現している。それは人間の人間によ る搾取にもとづいて幸福な社会をつくろうとする資本主義に反対し、また、人間と人間の不可避の 対立という哲学によって幸福な社会をつくろうとする教条主義的社会主義にも反対する。
われわれは、アフリカでは民主主義を「教えられる」必要がないのと同様に、社会主義に改宗す る」必要もない。どちらもわれわれ自身の過去――われわれをつくりだした伝統的社会のなか―― に根をもっている。近代のアフリカ社会主義は「社会」を基本的家族単位の拡張として考える伝統 的遺産からひきだしうる。」
(ジュリアス・ニエレレ「家族的社会主義の実現」『アフリカの独立』平凡社、1973 年、所収、284- 285 頁)

しかし、このウジャマー村の試みによって生産がかえって停滞し、1980年代には挫折してしまった。


「近代化」を進めようとしても、いつまでたっても発展しないアフリカ。
なぜ、そうなってしまうのか。
1960年代には、次のような学説が一世を風靡(ふうび)した。

「世界経済というゲームのルールは、北側(欧米)がつくったものだ。このゲームは、最後には北側が有利となるようなルールになっている。だから、いくらがんばっても南側(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国)は豊かになれないのだ」

これを従属理論という。


「低開発の国々の経済と社会が、近代化を達成した先進資本主義諸国から孤絶して、「前近代的」な段階にとどまっているというような理解は間違っている。第三世界の低開発や貧困は、いまだ近代化を達成していない状態ではなく、むしろ、グローバルに展開してきた資本主義経済の一部分であり、その意味で、世界の近代化の一つの産物だという。」

(出典:西平等『グローバル・ヘルス法』名古屋大学出版会、2022年、185頁)


従属理論は、70年代末には歴史社会学者〈ウォーラーステイン〉(1930~2019年)による「世界システム論」に発展

「北側(中核)が中心になって、南側(周辺)の国々との間に主従関係のような経済のしくみが生まれ、それが世界中に広がった。このしくみにおいては、北側は経済発展するが、南側はいつまでも低開発(underdevelopment)の状態にとどまってしまう」というものだ。

特にアフリカは、植民地時代のモノカルチャー制度が残り、環境が破壊され、産業も未発達のまま。
さらにさかのぼれば、大西洋の奴隷貿易によって、労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも、傷跡として残っていると考えられた。


こうした構造を是正するため、国連が動く。
1964年に南側諸国が主導して国連貿易開発会議(UNCTAD、アンクタッド)が設立され、南北格差を是正するため不平等な国際分業体制を改める動きがはじまった。


なお、1975年には、ポルトガルで独裁政権が終わったことから、モザンビーク、アンゴラ、サントメ=プリンシペ、ギニアビサウがポルトガルから独立している


アフリカでは、「植民地時代に民族の分布を無視した国境線が引かれたために、民族紛争が起きている」という説明がよくなされる。しかし、複数の民族が分布しているからといって、その国で常に紛争が起きているわけじゃない。
紛争の背景には植民地統治に起因する教育水準の低さ、政権による政策決定の誤り、冷戦対立の構図、資源をめぐる大国の進出による民族同士の分断など、さまざまな要因があるのだ。

ちなみに、エジプトでアスワン=ハイ=ダムが建設された際、水没の危機にさらされた古代エジプトの遺跡を守る活動が呼び水となり

UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の総会で世界遺産条約が締結され、1978年には初めての世界遺産の認定が行われた。
人類誕生の地 アフリカにいて、人類や地球の生み出す普遍的な価値を地球人の “共有財産”として守っていこうという動きが、始まったのだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊