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ゼロからはじめる世界史のまとめ⑭ 800年~1200年の世界

いったんバラバラになった世界が再びまとまる時代②

―前の時代から、広い地域をまたぐ“まとまり”が各地で生まれていたわけだけど、この時代にはその“まとまり”の中でも各地でいろんな“個性”が生まれていく時代だ。

 たとえば、ヨーロッパではキリスト教の考え方が正義とされたわけだけど、各地の支配者によって細かい部分には差が生まれている
 西アジアから北アフリカにかけてのイスラーム教、インドのヒンドゥー教、東アジアの仏教や儒教なども同様だ。

広い範囲を一人の支配者がコントロールするのは、やっぱり難しいってことですね。
―そうだね。逆にいえば、狭い範囲だけでも十分強い国がつくれるようになっていたってことでもあるんだよ。
 この時代は世界的に気候が暖かかったといわれていて、人々の交流も盛んになった。人と人の「出会い」が増えれば増えるほど、知識や情報もさまざまな人の「共同作業」(*コレクティブラーニング)によって発達するよね。技術が発達して、各地で開発がすすんだ時代でもあるんだよ。

なるほど。遊牧民の活動もさぞかし積極的だったんでしょうね。
―その通り。この時代には「トルコ系の言葉」(*テュルク諸語)を話す遊牧民がユーラシア大陸の広い範囲に移動して、定住民の世界で国をつくっているよ。遊牧民と定住民のコラボレーション国家だ(*農牧複合国家)。

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◆800年~1200年のアメリカ

―この時代は気候が温暖になっていったのが特徴だ。
 北アメリカの北部の氷におおわれた世界で、イヌぞりを利用し氷でつくった家に住んで、アザラシやセイウチの狩りをして暮らすグループ(*チューレ=イヌイット)が勢力範囲を広げる。現在にもこの地域に暮らすイヌイットという人々のご先祖だ。

 気候が暖かかったおかげで、ヨーロッパからはヴァイキングというグループの一派が、船に乗って北アメリカ(*ヴィンランド)にたどり着いているよ。

逆に言えば、今まではヨーロッパから北アメリカへは人の移動はなかったんですね。
―おそらくね。北アメリカにはヴァイキングの生活した跡(*ランス=オ=メドー)が残っている。

 北アメリカの乾燥地帯では都市が大規模になって、巨大な建造物もつくられている(*プエブロ)。
 東のほうの大きな川(*ミシシッピ川)の流域でもお墓のサイズが巨大化しているから、支配者のパワーが強くなった証拠とみられている(この時期にトウモロコシ栽培が本格化したようだ)。

北アメリカの南の方のマヤ文明は、伝統的な都市が見捨てられて、中心が移動していましたね。
―その通り。マヤ文明の中心は従来よりちょっと北に移動している(*マヤパン)。外から別の民族(*トルテカ人)の侵入があったのかもしれないともいわれているけど、記録が少ないのでなんともいえない。
 メキシコの高原地帯ではいくつもの国(*トゥーラ)が建ちならび、さながら“戦国時代”のようになっているよ。この中から次の時代のアステカという大きな国が生まれることになるんだ。

南アメリカはどうですか?
―いままでの歴史の中では最も広い範囲を支配する国が出現している。どれもアンデス山脈のあたりの国で、標高の違いを利用して“海の幸”“山の幸”などバラエティ豊かな特産物をコントロールしていたようだ。
 高い技術でアクセサリーや建物がつくられていたけど、鉄や車はつくられていないよ。

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◆800年~1200年のオセアニア

―この時期のオセアニアでは大きな建物がつくられ、島々を支配するリーダーも現れている(*ラッテ=ストーン)。
 とくに農作物の栽培に適した火山島では強力な支配者も現れているけど、南の島の土地や資源には「限界」があるからユーラシア大陸ほどの強いパワーを持つ支配者はそうそう出てこない。
 場所によっては、一定の決まりにしたがって島を超えた物資の交換をするところもあったよ。
 ちなみにあの有名なモアイ像が作られ始めるのもこの時代だ。

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◆800年~1200年の中央ユーラシア

―この時代の草原地帯の主役は「トルコ系の言葉」を話す遊牧民たちだ。
 もともとモンゴルのあたりで活動していたんだけれども(*ウイグル)、しだいに西へ西へと移動して、各地で定住民エリアを支配する国をつくっている(*カラ=ハン朝)。

 彼らは、西のほうでは広範囲で“正義”とされていたイスラーム教を柔軟に受け入れ、もともと活躍していた「イラン系の言葉」を話す人々(*ソグド人)とも張り合っている。
 また、高い軍事的な才能を生かして、各地の王様の下に奴隷身分の「雇われ兵士」として仕えた。
 スキをねらって王様を倒し、国を乗っ取った者さえいるんだ。

 インドの北のほうの高原地帯では、チベット人という民族が広い国(*吐蕃(とばん))を作り、「トルコ系の言葉」を話す遊牧民とともに中国の皇帝の国に対抗しているよ。

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◆800年~1200年のアジア

◇800年~1200年の東アジア
―この時代には、黄河流域を中心に広いエリアを支配していた大きな国(注:唐(とう))の支配が弱まる。
 各地で開発が進み、唐のいうことなんて聞かなくてもやっていける有力者が現れるようになったからだ。

国内が分裂すると、周りの民族にとってはチャンスですね。
―そうだね。
 東アジアでは、中国の皇帝が陸でも海でも「警察官」みたいな役割を果たしていたからね。
 中国の皇帝のパワーがなくなると、かえって東アジアは混乱してしまう。

結局どうなるんですか?
―唐という国が滅ぶと、各地の有力者が自分たちの国を建てて栄えるよ。
 黄河流域では唐を受け継いで「皇帝」を名乗る国が現れるけど、支配層には遊牧民出身者も参加していたんだ。
 また、南の方では北の皇帝のいうことをきかない国が多数建てられて、なかには「皇帝」を名乗る国もあったよ。

 結局、北の軍人が「皇帝」として混乱をおさめ、宋という国を建てた。宋は南の方も含めて統一したけど、東アジア各地の民族たちは完全に宋をナメきっているよ。

そりゃそうですよね。こんな有様じゃ…
―宋は、かつて広い範囲を支配していた「過去の栄光」にすがろうとするけど、現実はめちゃめちゃ弱いし領土も狭い。
 しかも、北からは遊牧民が貿易や土地を求めて頻繁に挑発してくる。
 遊牧民の支配者たちも「自分こそが中国の皇帝だ」と主張するものだから、事態は面倒だ。

南の方をコントロール下に置いたとしても、他にまだ「皇帝」を名乗る国があるんじゃ、「統一」もくそもないじゃないですか。
―そうなんだよ。

 でも中国の唯一の強みは「経済力」だ。
 長江流域ではたくさんお米がとれるし、巨大な港町がいくつもあって貿易がさかんだ。
 中国の皇帝は「欲しいものならあげるから、お願いだから手は出さないでくれ」と、周りの民族にお願いをした。

かなり下手(したて)に出ていますね。
―でしょ。
 ベトナム、朝鮮、日本などの支配者も、この時代には中国とは今までよりも“距離”をとって活動ができるようになっているよ。



◇800年~1200年のアジア  東南アジア

―大きな川のある場所では、有力者が中国の進出をブロックする動きも起きている。特に、中国が支配のために軍隊を派遣していたベトナム北部では、土地の有力者が中国を追い出すことに成功。
 西アジアでイスラーム教徒によって広い国が生まれると、ひっきりなしにビジネスマンが船で訪れるようになっている。東南アジアに行けば特産品のスパイスが、中国製のシルクや食器といったヒット商品が手に入ったからだ。

南の島のほうにある港町も栄えていますか?
―現在のインドネシアには巨大な仏教モニュメント(*ボロブドゥール)が建設された。おそらく東南アジア一帯の貿易を一挙ににぎった王様が、自分のパワーを誇って尊敬を集めるために仏教の「ふしぎな力」を利用したのだろう。

 これだけ巨大なものがつくれた背景には、この時期に農業が非常にさかんになったことがある。
 現在のインドネシアのあたりには大きな火山がたくさんあって雨も多いので、米づくりに適していた。
 内陸で広い田んぼを支配下においておけば、港町のホテルに船乗りやビジネスマンがたくさん滞在しても、十分な量のお米をレストランに提供できるわけだ。

港町だけではなく、お米の産地も支配下に置くことで、支配者はさらにリッチになっていったんですね。
―そうだよ。通行料や入港料をとり、貿易をコントロールして栄えたわけだね。
 安全に貿易してもらうためには「海賊」退治が大切だ。重要な海上ルートをめぐって、各地の支配者はしのぎを削ったんだ。

 いくつもの港町が力をあわせて同盟(*三仏斉(さんぶっせい))し、“親分”である中国の皇帝の「お墨付き」を得るために使いを送ることもあった。

当時の東南アジアは貿易の「先進地帯」だったんですね!
―そうだよ。
 ユーラシア大陸の東にある中国と、西のほうの世界を結ぶ役割を果たしたんだね。
  “お隣さん”の南アジアからも、東南アジアの王様もコントロールを及ぼそうと軍隊を送っている。

 それに対抗した東南アジアの強国がカンボジアの王国(*アンコール朝)だ。この国の王様は西はベトナム、東はタイのほうに進出し、大きな川の流れをコントロールして巨大なため池(*バライ)を建設し、大量の米を生産することのできる大都市をつくった。そのど真ん中に建設した巨大なお寺がアンコールワットだ。
 西のほうではビルマでも王様(*パガン朝)がお米の生産と貿易をコントロールし、仏教を保護することでパワーと尊敬を集めたよ。



◇800年~1200年のアジア  南アジア

南インドは東南アジアの”お隣さん”ということもあり貿易が盛んなんですね。
―そうだ。広い範囲を統一する国はあまりなく、各地で港町や畑を支配した国々が発展している。

「バラバラ」って、必ずしも「めちゃくちゃ」っていう意味ではないんですね。
―そうだよ。「バラバラ」でもやっていけるほど、開発が進んでいるということでもあるからね。それぞれの地域の個性も磨かれていくよ。この時代にはヒンドゥー教の「聖地巡礼」がブームとなって、インド各地で人の移動も盛んになる。

北のほうはどんな感じになっていますか?
―仏教やヒンドゥー教を保護する支配者が領土をめぐって競っているよ。
 そんな中、西のほうからはイスラーム教を旗印にインドの人々を支配しようとした軍人が進出してきたから大騒ぎだ。今でもインドにイスラーム教徒が暮らしているのは、これがルーツなんだよ。


◇800年~1200年のアジア  西アジア

―西アジアでは「イスラーム教徒」という共通点の下、各地で支配者が個別に活躍するようになっています。

イスラーム教徒の「まとめ役」はいなかったんですか?
―開祖の「代理人」であるカリフという「まとめ役」がいたんだけど、みんな言うことを聞いている「ふり」をするようになったんだ。
 とくに草原地帯からは「トルコ系の言葉」を話す遊牧民が移動してきて、「イスラーム教を守るから言うことを聞け!」とあちこちに国を建てるようになったんだ。でも彼らは定住民を支配することには慣れていなかったから、書類仕事は「イラン系の人々」に任せた。


イスラーム教という「共通点」に合わせて、いろんなバックグラウンドをもつ人たちが協力をしていたわけですね。
―そういうこと。
 別々の場所でみんながてんでバラバラのことをやっているよりも、「共通点」をもとにまとまっているから、いろんな分野でコラボレーションが進んでいく。だから、学問も芸術も発展していくんだ。
 西アジアには昔のギリシャ人やローマ人の研究所がたくさん残されていたから、彼らのハイレベルな研究を下敷きにしたので、ゼロから研究する手間も省けたわけだ。

なるほど。ギリシャやローマというと“お隣さん”のヨーロッパが受け継いでいるイメージがありますが…。
―じつは当時のヨーロッパの人たちは、キリスト教の考え方に縛られていて、ギリシャやローマの時代の自由なものの考え方をおおっぴらに研究することが難しかったんだ。
 そんな中、ヨーロッパの人たちは人口拡大に対応して、イスラーム教徒の暮らす地方に「十字軍」と呼ばれる大遠征を始めていたんだけど、そこでヨーロッパ人が出会ったのは、びっくりするほどハイレベルなイスラーム教徒たちの科学研究の成果だった。


 イスラーム教徒たちのレビューの「★」の多さを思い知ったヨーロッパの学者たちも、イスラーム教徒の本をせっせと翻訳し始めていく。これがのちのヨーロッパの科学の発展につながっていくんだよ。

ヨーロッパの科学の発展はイスラーム教徒のおかげだったんですね!

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◆800年~1200年のアフリカ

―東アフリカでは、イスラーム教徒が貿易をしに南へ下がってきている。インド洋の沿 岸には貿易商人の集まる大都市として発展しているよ。


アフリカの中央部から東や南に移動していたバントゥー系の人たちはどんな感じですか?
―よく覚えているね。日本人からみると「黒人だ。」って単純な判断になっちゃうけど、実はいろんな民族に分かれて、アフリカの東や南に広がっているよ。
 牛などをサバンナの草原地帯で放牧して、もともといた狩りや採集をして暮らしていた人々を追いやりながら、南へ南へ移動している。

 彼らは「眠り病」という怖い病気を広めるハエ(*ツェツェバエ)が分布しない安全な所を探して移動していった結果、アフリカの南東の高原地帯は住むのに都合がよいということで、大きな町ができていったよ。
 金や象牙がとれるから、これを川の下流にある港町に輸出してリッチになる王様も現れたんだ。


西のアフリカはどんな感じですか? まだサハラ砂漠を超えたゴールド(金)と塩の貿易はやっていますか?
―ラクダをつかった塩金貿易は、サハラ砂漠を流れる“一本川”(注:ニジェール川)流域の王様がコントロール下に置いていたんだけど、この時期にサハラ砂漠の北にいた遊牧民(注:ベルベル人)がの一派が攻めてきて、貿易ルートを支配下に置いたんだ。これ以降は、サハラ砂漠の南のほうにまでイスラーム教が広がっていくよ。

エジプトはどうですか?
―イスラーム教の多数派にとってのリーダー的存在を「カリフ」といったよね。開祖の「代理人」という意味で、イラクにお住まいだった。

 でもこの時期にはカリフがイスラーム教徒からもナメられるようになっていて、エジプトでは「われこそがカリフだ」と、カリフを名乗る支配者(*ファーティマ朝)が現れるようになっていて。それだけエジプトには国力があったわけだ。


どうしてエジプトには国力があったんでしょうか?
―まず、位置がいいよね。
 地中海(ヨーロッパ方面)とインド洋(アジア方面)を結ぶ中間地点にある。このころから輸出用サトウキビの栽培も始まったことも後押しになっているよ。

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◆800年~1200年のヨーロッパ

―この時期のヨーロッパを一言で表すと「拡大」だ。
 森に覆われていたヨーロッパでは、あちこちで森林伐採がすすみ、畑が広げられ人口も増えた。気候が暖かかったことも関係している。


そうなると、今までヨーロッパで活躍していた民族とは違う、新しい人たちも登場しそうですね。
―そうだね。今まではローマ人とかゲルマン人だったよね。
 この時代には東のほうから、現在のロシア人のルーツであるスラヴ人とか、スウェーデンなどの北欧の人たちのルーツであるノルマン人といった人たちがヨーロッパに入ってくるよ。

 もちろん「これがヨーロッパ人の基準だ!」という縛りはないわけだけど、この時代にはこれら「新入り民族」たちは、こぞってキリスト教を社会の“正義”として受け入れ、文字としてローマ字のアルファベットを使いだすんだ。
 キリスト教をゆるーい「つながり」というか「共通項」として、ヨーロッパという「まとまり」がだんだんと広がっていった時代といえるね。


支配者はどんな人たちだったんですか?
―はじめはゲルマン人という民族の一派であるフランク人の王様が、今のフランスとドイツとイタリアを足したエリアをひろーく支配する国を支配していたよ。
 強さの秘密は、ローマを本部とするキリスト教を保護したことにあった。


ローマを本部とするキリスト教はどうしてフランク人の王様に保護してもらったのですか?
―このころになるとキリスト教はいくつもの教会に分かれていて、そのうち一番発言権の強い教会のひとつはコンスタンティノープルというヨーロッパの東のほうの大都市にあったんだ。
 ここは由緒ある町で、これまた由緒正しいローマ帝国(東西に分かれたうちの東側)の皇帝が直接支配していたから、実力も十分にあった。

 それに対してローマは当時はもはや辺鄙(へんぴ)な“ど田舎”の町に成り下がっていた。でもローマの教会にも歴史とプライドがあるし、コンスタンティノープルの教会とは教義面でもモメていた。
 だからローマの教会の親分は、フランク王国に泣きついたんだ。
 でも、そのフランク王国はカリスマ的な王様の死後、分裂する。それが現在のフランスとイタリアとドイツのもとだ。

 跡継ぎ国家では血筋が重んじられたけど、乳児死亡率の高い当時、スムーズに跡継ぎを残すことは難しく、国によっては有力な家柄が王様を担当するようになっていった。


王様はどうやって国内を支配したんですか?
―王様は家来たちに「住民」「土地」を与え、外から敵がやって来たときに自分に忠誠を誓わせようとした。
 でも実際には言うことを聞かない家来も多く、決して王様の力は強いとはいえないよ。とくにドイツの王様は国内の有力者をまとめるのにもひと苦労で、「自分が偉い」ことをアピールするために、ローマの教会に「キリスト教徒の世界のリーダー」であることを認めてもらおうとした。


ドイツ人が、キリスト教徒の世界のリーダーになったんですね?
―まあ、そんなことしたらフランスとかイギリスとか、周りの国の王様は良くは思わないよね。だからローマのキリスト教会が「イスラーム教徒と戦うから、兵隊募集!」と声を上げると、各国の王様はわれ先にと戦場に向かったよ。
 手柄を立てて、ローマ教会にほめてほしかったわけだね。

 混乱ぎみの西ヨーロッパに比べ、ヨーロッパの東のほうでは商業も盛んだった。東のほうからは遊牧民などがしょっちゅう侵入してきて、各地で国を建てているよ。
 ブルガリアとかセルビアとかハンガリーとか、今につながる国のルーツになっている。
 また、北ヨーロッパから貿易ルートを求めてノルマン人も南に下がってきている。
 当時の「貿易の中心」がアジアのほうにあった証拠だね。

 彼らはローマの教会ではなくて、コンスタンティノープルに本拠地のあるキリスト教徒の教会のいうことをきいている。そのほうが貿易に有利だからだ。
 今でもヨーロッパの文化が西と東で違うのは、こういう事情からなんだよ。


ブルガリア、セルビア、ハンガリー…どれも馴染(なじ)みがありません…。
―それもそのはず。
 日本人はどちらかというと、明治時代以降、西側のヨーロッパの影響を強く受けてきたから、あまりブルガリアセルビアなどの東側のヨーロッパ(*東ヨーロッパ)との「お付き合い」がないからなんだよね。

 代わりにイギリスには「親近感」があるでしょ。当時のイギリスは、わりかし王様のパワーはほかのヨーロッパの国々に比べると強い。
 「島国」ってまわりから孤立しているイメージがあるかもしれないけど、古来さまざまな民族が上陸を繰り返して来たいきさつがあるんだ。

 この頃には、フランスから軍隊を進めて征服した(*ノルマン=コンクェスト)王様が、王国をつくっている。その後もフランスの有力者が王様になって、イギリスとフランスに「またがる」巨大な国(*プランタジネット朝)を建設するなど、当時はまだイギリスとフランスの「線引き」はハッキリしているわけではないよ。


スペインのほうはどうですか? イスラーム教徒が上陸しているんでしたよね。
―そうだったね。
 この地方の王様たち(*タイファ)は「キリスト教徒の土地を取り返すんだ!」という使命感を抱いて、「イスラーム教徒退治」(*レコンキスタ)に乗り出している。
 ちょっとずつ取り返していくんだけど、この時期にはまだまだイスラーム教徒の国のほうが面積が広いね。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊