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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第24話 帝国の解体と、アメリカによる占領と独立(1945年~1953年)

ヨーロッパ中心の植民地帝国が崩壊に向かい、2つの「新しいシステム」がせめぎ合う時代へ

―未曾有(みぞう)の被害をもたらした第二次世界大戦が、ようやく終わりを迎えた。


じゃあ戦争が終わって、世界は平和に向かって歩み出せますね!

―まあ、「日本の歴史」だけを見ているとそういう印象を持つかもしれないけど、ここでは しっかりと、”世界史の中”から日本の歴史をみてみよう。


戦争が終わって平和になったんじゃないんですか?

―もちろん改善されたところもある。
 でも、すべてが「リセット」されたわけじゃないよ。


【1】植民地だらけの世界が揺らぎ始めた

―変わったことといえば、まずイギリスやフランスによる「植民地だらけ」の世界が、さすがにグラグラし始めるということだ。

 これは少し前から始まっていたことではあるけれども。

色の塗られたところが、日本が敗戦した年の植民地とその宗主国(=元締め)を示すwikimedia。植民地は、アフリカ大陸の全土と、赤道周辺のアジアに多いことがわかる。


 この時代には、戦争で大きな被害を受けたイギリスやフランスに代わって、核兵器を保有することに成功したアメリカとソ連が、それぞれの「正義」(注:イデオロギー)を掲げて世界の主導権を握ろうとしていったんだ。


アジアやアフリカの植民地はどうなっていますか? 独立できていますか?

―この時代には、アジアの一部 ( 東アジアの韓国・北朝鮮、中華人民共和国。東南アジアのフィリピン、ビルマ、インドネシア。南アジアのインド、パキスタン、セイロン。西アジアのシリア、ヨルダン ) とかアフリカ北部の一部(リビア)で独立が成功するけど、まだ大部分( 東南アジアのラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア。アフリカの大部分 )は植民地のままの状態だ。


 これらの地域では住民たちによる独立運動も起きる。
 だけど、その地域に眠る鉱山やマーケットを手放したくないヨーロッパの国々や、新たに「子分」にしたいアメリカやソ連が口出しを始めている。


そのアメリカとソ連は第二次世界大戦では同じチームで戦ったわけですよね?

―そうだよ。

 ソ連は途中からアメリカチーム(注:連合国)に加入したよね。

 当時のイギリスの首相としては、戦争が終わったらソ連とともにヨーロッパを「はんぶんこ」して、ある程度の支配権を及ぼし続ける予定だった。

 でも、イギリスはすでに戦争「へとへと」だ。

 実際にはイギリスに代わるアメリカと ソ連が戦後のヨーロッパを「はんぶんこ」する形で、にらみ合う体制が生まれるよ。


【2】戦勝国によって「集団で安全を保障する組織」が作られたが、核の恐怖はつづいた

アメリカもソ連も「核爆弾」を持っていますが、大丈夫なんでしょうか…。

―核爆弾の威力は、今までの兵器とは比べ物にならないよね。
 たった一発で街を消滅させるほどの破壊力を持っている。

 唯一の被爆国である日本では、当時はまだ被害状況に関する情報は十分に公開されていなかったけど、スウェーデンで核兵器反対運動(注:ストックホルム・アピール)が起きると、日本の中からも反対運動が盛り上がっている。


核兵器は恐ろしいですよね。

―お互いが核兵器を使って戦争を始めたら、両方とも「自滅」する結果になる。だから、結局「核兵器は恐ろしすぎるがゆえに、使われることはない」「でも、持っていれば相手に対する、これ以上ない威圧になるから「お守り」のようなものとしては有効だ」と信じられるようになった(注:核抑止論)。


つまり、武装することで平和を維持しようとしたわけですか。

―そう。そうやって勢力圏を広げることを「核の傘を広げる」という言い方もする。

 でも、だからといって戦争が起こらなくなったわけではない。

 アメリカとソ連は、真正面から戦うのを避けるようになっただけで、それぞれの「子分」にあたる国や地域をあるときはひそかに、あるときは公然とサポートする形で対決した(注:冷戦)。


なるほど。直接はつばぜり合いしなくても、子分たちに代わりに戦わせるということですか(注:代理戦争)。

―そうそう。
 でも、両国とも表向きはお互い同じグループ(注:国際連合)に加盟しているからやりにくい

 第二次世界大戦のときの「戦勝国」が、そのまま戦後の世界平和を守るための組織(注:国際連合=the United Nations=連合国)に発展した。


世界平和を守るためにどんなことが重んじられたのですか?

―アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国(中華民国)に「強い権限」が与えられた。
 どこかの国が「国際社会」の秩序を乱すことをしたら、この5か国を固定メンバー(注:常任理事国)とする会議(注:安全保障理事会)で、「強い措置」(注:武力制裁)がとれるようにしたんだ。
 それまでの国際連盟には大国が加入せず、経済的な制裁しか措置を発動できなかったことに対する反省からつくられた制度だ。

負けた国に対してはどんな措置がとられたんですか?

―第一次世界大戦のときには負けたドイツなどに莫大な賠償金を課したことが、ドイツの「恨み」を買ったんだったよね。
 そういうことが起きないように、負けた国の「政治のしくみ」をつくりかえることで、もう一度戦争の道を選ばないようにすることにしたんだ。

 そのために、戦勝国を中心に敗戦国を占領し、平和な国づくりをすすめる改革を実行していったんだ。


【3】日本はアメリカの占領下に置かれ、自由主義グループに引き込まれた

日本も占領されたんですか?

―されているよ。
 天皇と政府の代表(注:重光葵(しげみつまもる))と、軍の代表(注:梅津美治郎(うめづよしじろう))が降伏文書に調印、その後、約7年間の間、完全な「独立国」とはいえない状況が続くんだ。

(注)降伏文書に2人が調印したのは、軍の統帥権は政府から独立していたため、政府が調印しても軍が止まらぬ恐れがあったからだ。
 文書がサインされた船は、約100年前にアメリカ(注:ペリー)が日本の「開国」を約束させたときに使われた船と同じ位置に停泊された。

 その年の10月、連合国の最高司令官がやって来て、占領支配のための総司令部(注:GHQ-SCAP(ジーエイチキュー・スキャップ))がつくられた。

 ちょうど前の世紀にアメリカで大規模な内戦が勃発した際、勝ったほう(北軍)が負けたほう(南軍)を支配するのに行ったような方式で支配が進んでいった(注:レコンストラクション)。


でもどうしてアメリカ人の彼が日本を占領することになったんですか?

―アメリカによる本土空爆と2度の原爆投下の「おかげ」で日本が降伏したのだと考えられていたからだ。

 日本を「更生」させるための国際機関(注:極東委員会)は一応存在した。アメリカ・イギリス・ソ連・中国(中華民国)、オランダ、さらにフランス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、インドがメンバーだ。
 でも、この機関が本格的に動き出すより先に、アメリカ政府が主導して日本への占領政策をすすめていったんだ(注:「降伏後における米国の初期の対日方針」「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」)。

 ()アメリカ政府の占領地区担当(注:アメリカ合衆国国務次官補)の下で、軍隊の最高機関(注:統合参謀本部)のコントロール下に置かれていた「アメリカ太平洋陸軍総司令部」が、そのまま「連合国軍総司令部」として日本を占領支配した。 
 アメリカ太平洋陸軍最高司令官が、アメリカ政府の方針を受け、そのまま連合国軍司令官として日本を占領・管理していったのだ。
 なお、ほかにも東京に日本に対する最高司令官の諮問機関(しもんきかん。対日理事会)が置かれたけれども、実質的なパワーはほとんどもっていなかった。

なんだかアメリカが1か国だけで占領しているみたいですね。

―そう。実質的には単独占領だ。
 ただ直接支配したわけではなく、日本の政府や役所はそのまま残した。
 連合国総司令部はその政策をメモや口伝えで政府に伝え、それをもとに政府や役所が「命令」を出したんだ。

 場合によっては、事前連絡なしで総司令部が実力行使することも認められていた。
 とくに最高司令官(注:マッカーサー)の権限は絶大だった。


)最高司令官は天皇と11回会談している。最初の会談のときに天皇は「全責任を負う」と発言されたとされる(こちらや下記参照)。


すごい権限ですね。

―日本に対してソ連のパワーがおよぶことを防ごうとしたことも背景にあるね。

 新たに皇族を首相として成立した内閣(注:東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣)は「平和な国づくり」を進め、総司令部に協力する姿勢をとった。
 
 しかし、戦争中に犯罪行為をおこなった人の裁判を日本人の手でおこないたいという主張が総司令部と対立した。
 また、社会主義の思想をもつ人を取り締まる戦前の法律を廃止することにも消極的だった

 戦前に禁止されていた政治活動家の取締をゆるめ、政治的な理由から犯罪者として牢屋に入れられていた人を釈放するように総司令部が要求(注:人権指令)。
 これは政府への事前の通告がないダイレクトな処置だった。

 こうした一連の改革に対する責任が負えないということで、内閣は総辞職することになる。

何が問題だったんでしょうか?

―総司令部側は「戦争をはじめた責任」(注:開戦責任)を追究しようとした一方、政府は「戦争に負けた責任」(注:敗戦責任)に限定して議論をすすめようとした。国民の間でも、「敗戦をもたらした軍や政治家の責任」に注目する声も多かった。

 戦争を始めたことには問題はない。
 でも、負けたことには「誰か」に問題がある。

 ―というわけだ。

 その後の内閣を引き継いだのは、前の時代の初めまで、国際社会と協調しながら外交をすすめた元・外務大臣(注:幣原喜重郎(しではらきじゅうろう))だ。
 その後、天皇が「」ではなく「人間」であるという宣言(注:人間宣言)、海外の権益との関係の深かった大企業グループの解体(注:財閥解体)、禁止されていた政党の活動の自由化(注:治安維持法廃止、治安警察法廃止、)、戦争に積極的に関わった人物の公的な職業からの追放など、さまざまな政策にかかわった。
 連合国の手による日本の戦争指導者に対する裁判にも積極的にかかわった。

)総司令官は天皇と何度も直接会談する中で、「もし天皇を退位させたら、日本は大混乱となる」という認識を深め、「むしろ利用したほうがよい」と考えるようになっていた。
 天皇周辺の人たち(注:例えば内大臣の木戸幸一)に戦争責任の追求が及ぶ中、すでに総司令部は、政府と神社・神道との関係を断ち切り、政治と宗教の分離を図っていた(注:神道指令など)。
 国内の混乱をおさめ、国際社会の理解を得るために、天皇や総司令官、外務大臣、首相を含めたさまざまな人たちの手によって「人間宣言」の文言が作成されたことがわかっている。



誰が裁かれたんですか?

―通常の戦争犯罪(B級)で裁かれた人がほとんどだ。
 それだけでなく、「平和に対する罪」(A級)、「人道に対する罪」(C級)という罪が新たにもうけられた。
 A級とかB級というのは、レベルの高さを表しているのではなく、罪の項目の違いを示したもの。
 「平和に対する罪」が適用されて日本の国家指導者が裁かれた。いわゆるA級戦犯だ。

C級で裁かれた人はいなかったんですか?

―ドイツではユダヤ人に対する大量虐殺について裁かれたけど、日本では該当しないものとされたよ。 
 十分な審理が確保されていないものも多く、A級戦犯に対する裁判官たちの意見には対立があった(注:インドのパール判事)。
 

―また、アメリカは天皇制を維持しながら、日本の民主化(=国際社会に対して戦争を仕掛ける独裁的な国が生まれないような国づくり)を進めるため、憲法を変えるプロセスも進めていく。

国民たちも議論に参加したんですか?

―新しい憲法づくりの情報は国民にはクローズドにされていた。
 日本政府が一度委員会(注:憲法問題調査委員会)をつくって案をつくるけど、総司令部はこれを拒否。

 最高司令官(注:マッカーサー)と総司令部のメンバー(注:ホイットニー、ケーディス)らを中心に、新憲法案(注:マッカーサー草案)がつくられ、ただちに翻訳された(注:翻訳にかかわった白洲次郎(しらすじろう)は内容には検討を要すると総司令部に回答したが、急ぐように指示される)。
 最高司令官は内閣を説得。
 こうしてアメリカ政府と日本占領に関する最高機関(注:極東委員会)にも認めさせることに成功したんだ。

 なお、総司令部の新憲法案に「両性の本質的平等」を盛り込んだのは、総司令部(民政局)に採用されていたユダヤ人女性(注:ベアテ・シロタ・ゴードン)だ。


新憲法案は国民がつくったわけじゃないんですね。

―直接、国民の間で議論されていたわけではないね。

)民間にも新憲法制定に向けた動きはあり、総司令部も民間案(注:憲法草案要項)を内容を参考にしていた。



 同じ頃、天皇が「退位」したほうがよいのではないかという問題も、天皇の周りでもちあがるようになっていた。

 アメリカ政府としても、天皇の退位を回避し、混乱は防ぎたいところ。

 天皇のポジションは「象徴」(シンボル)という形にして、平和主義を盛り込めば、国際社会への理解を取り付けることもできる。そんな思惑も見え隠れする。

 憲法はその後、政府(注:第9条2項の芦田修正など(下記リンクを参照))や議会における検討や、占領組織による内容の要請(注:第66条2項)により、内容が追加されたり修正されたりした後、公布・施行されることになった(注:日本国憲法)。

 「ふたたび日本が戦争を企てるのではないか」という国際社会の厳しい目と、アメリカ政府の世界戦略に向けた思惑。
 そんな中、平和な時代を望み、ダメージを最小限に止めようとした日本側の苦肉の対応が、日本国憲法の成立過程から読み取ることができるだろう。

追記)なお、現在では「保守派」と呼ばれているグループには、このとき定められた平和主義の規定を改め軍隊を持つことができるようにしようと考える人が多く(=憲)、「革新派」にはその反対に平和主義を守ろうとする人が多い(=憲)。
 しかし、制定当時の事情は逆で、「革新派」のほうが自衛のための再軍備(=憲)が必要だと訴え、それに反対していたのは「保守派」(=憲)のほうだったのだ。
 現在の構図とはまったく逆だったのだ。


 憲法の制定(注:政府見解としては明治憲法を改正したということになっているけど、規定の手続きは取られなかった)と同時に地方行政法(注:地方自治法)や警察に関する法(注:自治体警察の導入)も定められ、民法も改正されている。

* * *



 第二次世界大戦後の「世界平和」に向けた取り組みの話に戻ろう。

 世界的な不況の結果、各国が「自分の国」のことしか考えない経済政策をバラバラにとったことも、戦争に突き進んでいった原因の一つだよね。
 そういうことが起きないように、アメリカが中心となって自由な貿易のしくみをつくる取り決め(注:GATT(ガット))や、自由なお金の貸し借りを促進するための組織(注:IMF,IBRD)がつくられていったよ。


でも、自由な貿易って、社会主義の制度をとったソ連では認められているんでしょうか?

―ソ連では「自由なお金儲け」は禁止されているから、できないよね。
 世界中どこでも自由にビジネスができるようにしたいというのはアメリカの主張であって、それに反対するソ連との間には大きなミゾがあったわけだ。

 こうしてこの「水と油」の考え方を持つ2か国が、植民地に基づく ”古い” しくみで世界を牛耳るヨーロッパ諸国を抑え、戦後の世界の主導権をめぐって争うようになる。

 「世界平和のための組織」ができたといっても、世界はまだまだ穏やかではないんだ。


結局「グループ」に分かれて対立する構図が再開したわけですね。
ヨーロッパの国々はどういう対応をとったんですか?

―ソ連がドイツから解放してやった地域は、のきなみソ連の「子分」(注:共産圏)になったよ。

 首都ベルリンを含むドイツの東半分、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどだ。

アメリカはソ連グループの拡大を「封じ込める」ためにあの手この手をつかった。
この地図ではソ連の「お友だち国家」に色が塗られている。
視点1:大西洋では、中央アメリカの一部(キューバ、ニカラグア)を除いては勢力を伸ばすことが成功。(wikimediaより)
視点2:アフリカは守りが固い。守り薄の元・ポルトガルの植民地(アンゴラ、モザンビーク)やエチオピアなどに点々と「営業活動」。
視点3:ユーラシア大陸からインド洋・太平洋への南下はなかなかできない。「親友」の中国も途中でケンカ別れ(黄色いところは中国と、一時中国グループとなるカンボジア)。


 他方、ユーゴスラビアは自分たちで追い出すことに成功したので、「子分」になるのを嫌がった。
 なんとかしてヨーロッパの西のほうがソ連の勢力に入らないようにしなければと、アメリカの大統領は考える。

 そこでアメリカは、公然と「ソ連立ち入り禁止エリア」(注:封じ込め政策)を設定し、お金をばらまいて「ソ連の側につかないよう」に要請した(注:マーシャル・プラン)。


なんだか、第二次世界大戦が終わっても、全然平和になってないですね。むしろ複雑になっている…。

―そうなんだ。

従来は、

ファシズム大嫌い」:アメリカ+イギリス+ソ連+中華民国+ドイツ占領下のフランスなど

植民地いっぱいの勝ち組大嫌い」:ドイツ+イタリア+日本など

  …という対立構図だったよね。

 それが、いざ戦争が終わってみると、

 アメリカは次のように対立構図を「変更」したわけだ。

自由で民主的な国」:アメリカ+イギリス+中華民国+フランス
 対
不自由な独裁国家」:ソ連

 …というように。

 アメリカは「平和」のためには「自由な貿易」ができる環境づくりが必要不可欠だと主張して、イギリスやフランスの植民地の壁を壊し、ドルを中心とする自由なビジネス環境を整えていった。

 ヨーロッパとしては、東からソ連の勢力が広がるのを防がねばならないんだけど、かつてのようにイギリスやフランス一国で立ち向かうことは困難だ。

 ヨーロッパの小国、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクにとったら、もっと怖い状況だ。そこでこの3国は、フランス、ドイツの西半分、イタリアを誘って、集団防衛のためのグループを立ち上げた。

 それでも不安だったので、アメリカを誘って同盟を拡大した(注:NATO;北大西洋条約機構)。アメリカの核兵器の威圧によって、ソ連の核兵器に対抗しようとしたのだ。

なんだかヨーロッパの存在感が薄まっていますね。

―ヨーロッパの国々も、「もう仲間割れしている余裕はない」と考えたわけだ。

 長い歴史を見てみても、ヨーロッパの戦争の発端というのは、フランスとドイツとの争いがきっかけとなっていることが多い。

 そこで、「ヨーロッパ」の国々をひとつにまとめて、対立のない「統一ヨーロッパ」をつくろうじゃないかという運動もはじまるよ(注:シューマン・プラン)。これが今のEUの原型となるんだ。


日本はアメリカの占領下に置かれたわけですから、政治もアメリカ寄りになっていくわけですよね?

―このへん、実は少し複雑だ。

 占領当初のアメリカ政府は「日本が軍国主義に戻らないこと」「日本が再軍備しないこと」に力点を置いていた。

 だから、とりあえず「どの政党でもOK」ということにして、戦前・戦時中に活動を禁止されていた政治家たちを表舞台に戻らせた(戦争に負けた翌年に総選挙がおこなわれた)。

 例えば、活動を禁止されていた日本共産党(平等な社会をつくろうという政党。徳田球一(とくだきゅういち)、志賀義雄らが中心)。

 日本共産党よりも穏健な形で、労働者や農民に優しい社会をつくろうという日本社会党(注:片山哲(かたやまてつ)が書紀)。
 資本主義のマイナス部分を産業組合の活動によって補おうという日本協同党(注:千石興太郎(せんごくこうたろう))。
 政府と距離を置いていた議員たちによる日本自由党(注:鳩山一郎が総裁)や日本進歩党(注:町田忠治(まちだちゅうじ)が総裁)。


でも「どれでもOK」ということにすると少なからず戦前の指導者に近い人たちも紛れ込みませんか?

―そうだよね。そこで総司令部は、敗戦の翌年に「良からぬ人物」(注:アメリカに開戦したときの内閣に推薦され当選した議員のほとんど)を一斉に公職から追放したんだ(注:公職追放令)。


でもそれだけで民主化できるんでしょうか?

―総司令部は、政治の表舞台だけではなくて、経済のしくみも土台から「自由」なものに変えるべきだと考えていた。
 戦前、海外の支配権を獲得するため、大企業グループ(注:同族支配の財閥)が政府と歩調を合わせ、鉱工業・農業を「特殊権益」として握っていた。そうしたことから、こうした大企業グループの解体が行われ、経済の独占を防止する法律も制定された(注:独占禁止法、過度経済力集中排除法)。
 ただ、大企業グループの解体は徹底されず、じっさいに対象となったのは11社にとどまり、大企業グループ系の銀行はそのまま残されるという甘い処置に終わった。

どうしてですか?

―総司令部は、急激な改革が経済に悪影響をおよぼすことを心配したんだ。経済が不安定になれば、社会主義をめざす主張も通りやすくなってしまうからね。
 総司令部は日本政府を通じて、さまざまな経済復興プランを、政府の強い主導で実行していく(注:金融緊急処置令復興金融公庫(巨額のお金が企業に融資されたため副作用としてインフレが起きた)、傾斜生産方式(まるでソ連の計画経済のように鉄鋼・石炭の生産目標を設定した))。

 また、地主が小作人を支配する仕組み、企業が労働者を支配する仕組みをやめさせていった(注:農地改革(ただし総司令部の当初の方針には含まれていなかった)、労働組合の合法化・労働三法の制定)。



敗戦直後の暮らしは厳しかったんですよね。労働者による運動は起きなかったんですか?

―労働組合がみとめられたことで、日本共産党や労働組合グループが指導して、全国同時のストライキ(注:ゼネ・スト。公務員も含めて、鉄道・郵便・電気などのサービスをいっせいにストップさせることで、賃上げの要求を通す行動)が計画された。

そんなことしたら大変なことになりますね。鉄道がストップしてしまうんじゃ…。

―そこから革命につながる恐れもあると判断され、総司令官はストライキの中止を指令。
 総司令部は、労働者の側に立つ政党の勢力を削ぐため、社会主義に反対する政党をつくらせようとしている(注:民主党(平成時代の民主党とは別物))。



 混乱から数ヶ月後におこなわれた総選挙では、日本共産党よりも穏健な日本社会党が多くの票をかせぎ、その委員長(注:片山哲)が連立内閣(注:民主党(芦田均外相)と国民協同党(三木武夫逓信相)との連立)を組んで首相になることとなった。
 これでひとまず、革命をめざす政権が成立しなかったということで、総司令部はホッとする

しかし、その後、日本社会党で内輪もめがあり、その後は、政治的には「まんなか」(中道)の立場で「資本主義の悪いところを修正していこう」とする民主党がやはり連立内閣を組むことに(注:芦田均内閣。日本協同党と日本社会党との連立)。

* * *

 そんな中で、国際情勢は刻一刻と変化していた。
 この年の初め、アメリカが、公然とソ連を批判するようになっていたのだ(注:トルーマン・ドクトリン)。
 アメリカでは、少しでも「労働者側」に立ち「平等を求める」ふうな姿勢をとると、「ソ連の手先」とみなされる風潮が盛り上がっていく(注:赤狩り)。

となると、この内閣(注:芦田内閣)も危ないですね…。

―目をつけられるおそれがあるね。
 実際に総司令官はこの首相に直接手紙を送り、「今後いっさい公務員はストライキをしてはいけない。雇い主である国や地方との交渉(注:団体交渉権)にも宣言をかける」と命令(注:政令201号)。法律が改正された(注:国家公務員法改正)。


日本の占領政策には、国際情勢の変化やアメリカの外交政策が関係していたんですね。

―占領下にあったのだから、よけいに影響を受けるよね。

 で、けっきょくこの内閣はスキャンダルの発覚によって短期間で倒れてしまった(注:昭和電工事件)。総司令部内部における、日本に対する政策の転換をめぐる対立(それまで通り民主化を進めるか、規制を強化するか)が背景にあったともいわれる。



急激な改革が進んでいますが、同じ頃、敗戦国のイタリアやドイツはどんな状況だったんですか?

―イタリアでは国民投票によって、独裁者の出現をゆるした国王が否認され、王様のいない共和国になった。
 経済状況は依然として厳しく、アメリカの援助を頼むこととなった(注:マーシャル・プラン)。
 当時のイタリアは物価が安く、アメリカ映画のロケ地としても使われているね。

 一方、ドイツは、資本主義の制度を導入したいイギリス・アメリカ・フランスと、社会主義を実現させたいソ連の4か国によって分割占領されてしまった。
 アメリカが中心となって占領した、日本との大きな違いはここにある。

 複雑だったのは、もともと首都だったベルリンという街が、ソ連の支配エリアにあったことだ。

 ベルリンの街も、同じように西側のフランス・イギリス・アメリカ占領地区と、東側のソ連占領地区に分裂してしまった。
 ベルリンの支配権をめぐる西側と東側の対立によって、結局ドイツは資本主義をすすめる西ドイツと、社会主義をめざす東ドイツに分裂してしまうことになる。


【4】アメリカでは日系人の活躍が再開した

―日本の敗戦から2年経ち、アメリカとソ連は「対立」を深めていくようになった。


あれっ、ソ連ってアメリカ側で一緒に戦っていたんじゃないでしたっけ?

―「共通の敵」である日本やドイツがいた間はね。
 でも、根本的に「どんな社会をつくるか」っていうところは「真逆」なわけだから。

 ひと昔前ならイギリスがソ連の「対抗馬」だったわけだけど、イギリスにはもはやそんな力はない。
 そこでアメリカの大統領が、「ソ連つぶし」の役を買って出たのだ。


アメリカはどうやってソ連をつぶそうとしたんですか?

―「お友達を増やす」作戦だ。
 当時、ソ連は世界中に自分のパートナーを増やそうとしていた。アメリカもそれに対抗したんだ。
 「お友達」っていっても、実質は「子分」だけどね。

 で、アメリカが特に重視したのは、中央アメリカや南アメリカだ。
 ソ連がアメリカ大陸にまで「子分」を増やそうものなら、危機的な事態だからね。


ソ連の側に立った国は出てきたんですか?

―メキシコ、ブラジルやアルゼンチンでは、アメリカに対抗して自分の国の資源を守ろうとする強いリーダーが指導者になっているよ。
 でも、グアテマラという国ではアメリカに対抗する政権(注:グスマン政権)ができた。アメリカの会社が、大規模なバナナ農園をつくってグアテマラの人たちを苦しめていた結果だ。

 ニカラグアという国では、そんなことが起きないようにアメリカのいうことを聞く軍人(注:ソモサ)一族が、国じゅうの土地を独占している状態だ。

 ちょっとでも「国民の平等を目指す政策」がとられると、アメリカから「ソ連の側につこうとしてるんじゃないか」と目をつけられてしまう面倒な状況に、次第に反発も起きるようになっていくよ。


ところで戦前のアメリカには日本人の移民がいましたよね。

―そうだね。
 日本人の移民が制限されるまで、アメリカは多くの日本人移民を受け入れていた。
 戦時中には「敵国」に関係するということで、日本人移民たちは強制収容所に入れられてしまっていた。母国とアメリカとの間の「板挟み」となった人たちも少なくない。

 戦後、アメリカの日系人たちはそれぞれの生活へと戻っていくこととなった。


【5】日本はオセアニアから撤退した

オセアニアの島々は日本の占領から、アメリカが解放していったんですよね。

―そうだよ。
 もともと第一次世界大戦後に、赤道以北の「ミクロネシア」や「メラネシア」という地方の島々は日本に支配が任されていた(注:委任統治領C式)。

 戦後はアメリカが、国際連合から頼まれる形をとって「代わりに」支配するようになった(注:信託統治領)。

 この地域はイギリスやフランスが植民地にしていた地域が多かったけど、今回の大戦で両国とも植民地を支配する余裕が次第になくなっていった。

 アメリカは「そのスキをねらってソ連が勢力を拡大するのではないか」と心配した。
 そこでオーストラリアとニュージーランドを誘って、軍事同盟(アンザス;ANZUS。下図(wikimedia))が結成されたんだ。


あれ、国際連合っていう「世界平和のための組織」があるのに、軍事同盟なんてつくっていいんですか?

―矛盾しているようだけど、これが大戦後の世界の現実だったんだ。
 「世界平和のため」と言っておきながら、さっそくアメリカ・チームとソ連チームの間に「にらみ合い」が起きているからね。


アメリカが確保した太平洋の島々は、今後独立することができるんでしょうか?

―結論から言えば、今も「完全にはできていない」。
 国の防衛などはアメリカに任せる「自由連合」という形をとっているからだ。国が小さすぎて立ち行かないということもあった。

 ただ、この時期のアメリカが太平洋の島々を確保したい理由はほかにもある。

なんですか?

―核実験だ。
 太平洋のミクロネシアという地域のビキニ環礁というところ(水着のビキニの語源)では、広島・長崎に原爆を落とした1年後から、何度も核実験がおこなわれている。現在でもその爪痕は生々しく残されている


核実験がおこなわれたところ
中国は広いので自国内で。アメリカは広いので始め自国内、のちに太平洋で。イギリスは初期はオーストラリアで、のちインド洋や太平洋で。フランスは太平洋のタヒチ近くで。ソ連は北極圏の島や、ソ連の加盟国で。


【6】中国では内戦の結果「社会主義」の国が成立する


日本は戦争に負けましたね。

―負けましたね。
 日本は満州からも撤退し、中国に台湾などを返還することになった。


どうして日清戦争で獲得した台湾も中国に返すことになったんですか?

―日本が降伏を受け入れたときの文書(注:ポツダム宣言)の第8条に、中国に対して「台湾」を含めた領土を返還することにふれていた(注:カイロ宣言)もちゃんと守りなさいと書いてあったからだ。
 どちらも日本が降伏する前に、連合国が中国も含めて話し合ってつくったものだった。

)ポツダム宣言第8条 カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。

 アメリカは日本を占領し、ソ連の影響から外すことできたわけだけど、中国はそういうわけにはいかなかった。

どうしてですか?

―中国では政権を国民党の指導者(注:蒋介石)が握っていた。
 日本との戦闘が本格化すると、ライバルだった国内の共産党と一緒に日本と戦う組織がつくられていった。
 だけど、実際には「団結」していたとはいいがたく、戦争末期になると共産党は日本軍を背後から追い込みつつ、農村に支配エリア(注:解放区)を広げていくようになっていたんだ。

 両者の話し合いは決裂し、こうして国民党と共産党との内戦が勃発した(注:国共内戦)。

 国民党の軍人の中には、中国にのこされた日本人たちとともに共産党とたたかった人(注:閻錫山(えんしゃくざん))もいたんだよ。
 共産党側の軍にも日本人がいたこともわかっている。
 事態はそれほど流動的だったんだ。

―なお降伏間際には、満州や、中国側モンゴルの東部(東部内蒙古)にはソ連軍が占領して来て、ここにいた日本人の多くが犠牲となった。
 軍人はシベリアに連行され、長年に渡って強制労働をさせられた。

 しばらくすると、アメリカから提供された船によって日本への「引き揚げ」が始まる。
 日本人を載せた船が大陸から日本に向かい、その帰りに日本からは朝鮮人や中国人を載せた船が大陸に向かったんだ。

 


戦後の朝鮮はどうなっていますか?

―日本の占領していた朝鮮は、北部ではソ連が占領、南部はアメリカ軍が占領していた。
 連合国(国際連合)によって代わりに支配される(注:信託統治)ことになりそうだったけど、朝鮮半島の人々は自分たちの国づくりを始め「朝鮮人民共和国」を建国。
 しかしソ連の影響力が強まっていたことを懸念したアメリカが介入した。

朝鮮でも、ソ連とアメリカの「綱引き」が起こっていたんですね。

―そう。朝鮮南部ではアメリカがソ連に協力的な勢力を封じ込めるようになり、朝鮮北部にはソ連の支援によって「北朝鮮臨時人民委員会」がつくられた(注:初代指導者は金日成)。

 結局、アメリカが主導し朝鮮南部だけで選挙がおこなわれ、別々の国として独立することになってしまった(注:朝鮮戦争)。

南北分断直前には、今では観光地になっているチェジュ島では、ソ連の支援する社会主義グループが、南北の分断に反対して蜂起。25000~30000人の人が弾圧で命を落とした(注:済州島四・三事件)。


 この戦争直前の日本では、朝鮮の影響がおよぶことを恐れた総司令部が、職場や役所から共産主義者を追放し(注:レッド・パージ)、戦争開始後には逆に元・軍人の公職追放を解除している。



政策がガラっと変わっていますね。

―その頃中国では、共産党が国民党に対する勝利を確実なものとし、北京を首都として社会主義の社会をつくろうとする中国が誕生した。


資本主義の社会をつくろうとした国民党はどうなっちゃったんですか?

―国民党の指導者(注:蒋介石)は、台湾に政府をうつすことになった。アメリカやイギリスに「中国は頼むぞ」と期待され、連合国の一員であった国民党政権が敗北したことに、アメリカやイギリスは大きなショックを受けた(国際連合の常任理事国のポジションは失わずにそのまま続いた)。

 台湾では、植民地時代に日本式の教育を受け、日本語を話すことができる若者が大勢いた。
 しかし、台湾にやって来た国民党の軍人は、そうした日本語ペラペラの人々を厳しく取り締まった。
 こうして台湾にいた漢民族(注:本省人)や先住民と深刻な対立を引き起こす(注:二・二八事件)と、それから約40年もの間、台湾では非常事態(戒厳令)がしかれ、国民党による実質的な独裁体制がしかれることとなったんだ。


日本がいなくなったことで、台湾の人々は翻弄されたんですね。

―植民地時代には台湾と日本の壁は低く、日本で生活する台湾人もいたし、台湾で生活する日本人もいた。
 しかし、敗戦後に台湾が「日本ではなくなった」ことは、多くの人の人生に影響を与えることになった。


一方、中国ではソ連のように「みんなが平等な社会づくり」が目指されていったわけですね。

―そうだよ。
 経営者や大地主は追放されて、すべての土地や資産は国のものとなった。
 将来的には、みんなが平等な社会をめざそうとしていくよ。

 アメリカが「この動きは“病気”のように伝染していく。どこかで無理にとめなければ」と焦る中、なんと北の朝鮮が南部を占領する事態が起きてしまう!


えっ。

―アメリカは国連の場で事態をおさめようとしたものの、中心グループのひとつソ連が会議に欠席して判断ができない状況となってしまった。
 「平和を守るため」につくられたはずの戦勝国の組織は、戦後すぐに「機能不全」におちいってしまったわけだ。
 そこで、アメリカ軍が中心になって特別な軍をつくり、北の朝鮮を北に追い返す作戦に出た。アメリカ軍は一時、原爆を使おうとまで考えたけれど、大統領はそれに反対しているよ。


このときの日本の対応は?

―戦争の途中まで占領下にあった日本は、アメリカ政府を全面的にバックアップした。
 すでに「日本をむりやり民主化・非武装化させるのではなく、経済発展させて軍備も持たせ、東アジアでアメリカのパートナーになってもらったほうが都合がいい」と判断するようになっていたアメリカは、この戦争を日本の経済発展の「足がかり」ともみなしていた。
 アメリカが大量の援助で日本を復興させようとした(注:ガリオア資金、エロア資金)ことにも、批判があったのだ。

 そこで大統領の肝いりで改革がはじまった(注:経済安定九原則)。当時の内閣(注:第3次吉田内閣)のときに、アメリカの銀行の頭取(注:ドッジ)のプランが実行にうつされた。
 国の支出をコントロールして物価を安定させることが目的だ。

具体的には?

―国が会社のことを支援しまくるのではなく、「ひとりでがんばらせる」ことを促進した。

 例えば、これまでは国が産業や商品によって個別に為替レート(円とドルの交換比率)を設定していたんだけど、そうやって甘やかしていたら、いつまでたっても国際競争力はつかない。

 そこで、円とドルの交換比率を、たった一つに固定したわけだ(注:単一為替レート(1ドル=360円))。

 そうすれば、がんばれない会社はつぶれ、がんばって国際競争力をつけた会社が生き残る。
 それにより輸出は増える。
 日本経済は「本当の意味で復興することができる」というわけだ。


けっこうな荒療治(あらりょうじ)ですね…

―自由な競争によって経済復興をめざそうという考え方だね。
 物価が安定したのはよかったけど、これによって辛い状況になったのは中小企業だ(注:安定恐慌)。
 失業者も増え、労働者による運動も活発になった。


総司令部は労働者の運動を懸念するでしょうね。

―そう。
 この時期には、国鉄がからむ「謎の事件」が3つも起き、多くの人が犠牲となった(注:下山事件、三鷹事件、松川事件)。
 実行犯は労働組合や共産党の関係者だという発表が出されたことで、「労働組合や共産党は危ない」というイメージが広まっていくこととなった。
 


 なお、この時期にはあわせて効率的に税をとれるような改革もおこなわれていった(注:シャウプ勧告)。

 そんな中、日本は戦場となった朝鮮半島のアメリカ軍に物資を供給。総司令官の指示を受け、占領改革の一環として、””というべき組織もつくられている(注:警察予備隊(元軍人も応募可能だった)、海上保安庁)。
 ドイツのように国内での議論がもとでの「再軍備」というわけにはいかず、難色を示した当時の内閣(注:吉田内閣)も「あくまで軍ではない」という形で了承せざるを得なかった。
 憲法の内容との矛盾(政府は矛盾しているという見解ではなく、最高裁は判断を回避)を抱え込んだままとなったわけだ。

)警察予備隊令 第1条 この政令は、わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため警察予備隊を設け、その組織等に関し規定することを目的とする。
 ※これは法律ではなく、ポツダム政令。憲法では「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とあるため、上記のような表現となった。


 こうして日本は、朝鮮における戦争によって、経済復興と「再軍備」への「足がかり」をつけることになる。

)マッカーサーが、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道である。(略)将来の見込としては国連は益々強固になって行くものと思う」と新憲法の精神を説いたのに対して、天皇はたまりかねたように本音をぶつけた。

「日本の安全保障を図る為には、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待して居ります」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』)



でも、まだ占領は続いている状態ですよね。いつになったら独り立ちできるんでしょうか。

―それどころか、戦勝国との間の「仲直り」も済ませていない。

 しかし、日本が「更生した」ということを国際社会がしっかり認めないことには、「仲直り」(講和)もむずかしい。

 しかも日本は経済的な復興をすすめ、実質的に「軍」を復活させようとしている。
 当時の首相(注:吉田茂)は、それに対する批判を交わしつつ、アメリカを納得させるためのアイディアを模索。

 結局、あらたに50000人の武装組織(注:保安隊)を組織し、日本にある基地をアメリカ軍に提供することを「落とし所」にしようという方向に進んでいった。
 反対派によるデモに対しては厳しい措置で臨み、暴力的な行為をする団体を規制する法律(注:破壊活動防止法)をつくらせ、国内の治安のための諜報組織(注:公安調査庁)も設立した。


アメリカの方針は?

―アメリカとしても日本は東アジアにおけるパートナーとしておきたいところ。
 各国を説得する形で、日本との仲直り条約(注:サンフランシスコ講和条約)が結ばれることになった。


すべての国と仲直りできたんですか?

―52か国が参加したけど、そのうちソ連とソ連グループのポーランド、チェコスロバキアは調印してくれなかった(調印したのは48か国)。
 インド、ユーゴスラビア、ビルマ(現在のミャンマー)も、条約の内容への不満により出席していない。
 それに「中国」をめぐって争っていた、中華人民共和国と中華民国も呼ばれなかった。


すべての国との仲直りというわけにはいかなかったんですね。

―ともあれ日本に対する占領は、この翌年で幕を閉じた。

 アメリカとの新しい条約(注:日米安全保障条約)や、それにもとづく協定(注:日米行政協定)によって、日本にアメリカ軍を「駐留」(占領ではなく”駐留”)する許可を得ることとなった。

 また、沖縄や小笠原諸島などは引き続きアメリカが占領を続けた(奄美諸島は朝鮮戦争休戦の年に返還)。
 天皇自身が、アメリカの沖縄軍事占領を希望していると総司令部につたえていたこともわかっている。


 敗戦後には、沖縄の外にいた沖縄出身者が、故郷にかえることができないという問題も起こった(注:沖縄人連盟が支援)。
 沖縄には「新しい憲法」が適用されることはなく、アメリカ軍の支配下に置かれることとなった(注:琉球列島米国軍政府→琉球列島米国民政府)。

 また、講和条約の発効とともに、日本にいた朝鮮人は日本国籍を失った。一律に「朝鮮籍」ということになって、外国人登録法の適用を受けることになった(注:敗戦時点で200万人に達していた朝鮮人のうち約60万人は日本にとどまっていた)。

その頃、朝鮮半島の戦争の状況はどうなっていましたか?

― アメリカ軍による占領が終わった翌年には、ソ連側の独裁的指導者(注:スターリン)が亡くなった。
 それがきっかけとなって、朝鮮の戦争は一旦「休戦」ということになったんだ(注:板門店における休戦協定)。


なんだか日本がいなくなった後の東アジアは、非常に混乱していますね。

権力の「空白」エリアが生まれたことで、アメリカとソ連の世界をめぐる争いの影響を直に受けることになってしまったんだね。

 日本が植民地支配していた朝鮮や台湾で「日本人として」育った人たちや、現地で生活していた人たち、それに日本で生活していた朝鮮・台湾の人たちにとっても、たいへんな苦難が待ち受けていたんだ。


日本の「再軍備」の方針はその後も変わらなかったんですか?

―長期政権を実現させていた首相(注:第2次~第5次吉田茂内閣(6年以上))としては、憲法はそのままにして、「再軍備」はすすめていけばよいという考えだった。



 一方、「憲法との『矛盾』があるんだから、いっそのこと憲法を変えて、堂々と再軍備をすすめるべきだ」という派(注:鳩山一郎派)も、与党の中に勢力を持つようになっていた。


「再軍備」そのものに対する反対意見はなかったんでしょうか?

― 一方、朝鮮戦争の休戦の年におこなわれた総選挙では「再軍備に反対し、軍事組織(保安隊)も解散するべきだ」とする、社会党内部のグループ(社会党左派)が議席を伸ばしていた。


日本だけでなくアメリカ政府の意向もあるでしょから、よけいに複雑ですね。

―「独立国」なのにね。
 この「再軍備」問題をめぐっては、次の時代に政治の世界が大きく変化することになるよ。


【7】日本がいなくなった後の東南アジア


東南アジアから日本が撤退して、ヨーロッパ諸国からの独立は実現できましたか?

―地域によっては、そうカンタンにはいかなかった。
 植民地の「うまい汁」をすすっていた各国は、独立させるにしても、なるべくそのまま「首輪」をつないでおきたかったわけだ。

 フィリピンは以前から独立への準備が進んでいたから、もっとも早い時期にアメリカから独立することができた。
 スペインに植民地されて以来、実に500年弱ぶりの独立だ。

 一方、フランスの支配していたインドシナは、カンボジアとラオスとベトナムを「むりやりつなぎあわせた」地域だった。

 とくにベトナムでは独立に向けた運動が激化。ソ連のバックアップを受けた北の指導者が、フランスのバックアップを受けた王様と対立し、大戦争に発展(注:インドシナ戦争(第一次ベトナム戦争ともいう))。
 戦争はソ連側の指導者が亡くなって、両者が「クールダウン」するまで続けられた。

* * *

 オランダもインドネシアを手放したくないがために反乱を鎮圧しようとするけど、戦いの結果独立が認められている。


 ビルマはこの時期にイギリスから独立した。

 独立がすすまなかったのは、イギリスが「こだわった」マラッカ海峡の周辺だ。
 特にシンガポールはインド洋と太平洋を結ぶ「重要な通り道」。イギリスはなかなか手放そうとせず、すぱっと独立への動きが進まなかった。


【8】日本がいなくなった後の南アジア

―インドはイギリスの「大切な植民地」でしたよね?

―別格扱いだったよね。
 でも、独立運動が盛り上がりを受けて、この時期になってようやく独立を認めた。
 しかし、イギリスが支配していたエリアが「ひとつにまとまって」独立したわけではなく、ヒンドゥー教徒の多い地域とイスラーム教徒の多い地域に分かれて独立することになった。

なんでそんなことになったんですか?

―以前からイギリスの植民地担当部署は独立運動が「ひとつにまとまる」ことを恐れて、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒それぞれが中心とする独立組織が「互いにケンカする」ように仕組んでいた。
 その結果、イギリスが支配していた「インド」は、イスラーム教徒の多い地区(北西のパキスタンと、北東の現・バングラデシュ)と、ヒンドゥー教徒の多い地区(今のインドの大部分)に分かれて独立することになってしまったんだ。

領土は平和的に決まったんですか?

―北部のカシミールをめぐって戦争が起きている。

 カシミール地方は、宗教的には西方のイスラーム教と、東方・南方の仏教・ヒンドゥー教の狭間に位置するエリア。
 文字的にも西方のアラビア文字系と、東方・南方のインド系の文字の境界エリアである。
 古くはユーラシア大陸中央部とインドの間の「文化の交差点」として名をはせ、家畜を遊牧させて毛をとり高品質な織物産業(カシミヤ)が盛んだ。
 水資源や鉱産資源の利権もからみ、住民を巻き込んでいる。


インドと日本と関係は?

―戦時中に殺処分され、ゾウがいなくなっていた上野動物園にインドゾウをプレゼントしているよ。

 インドは、日本が世界各国と結んだ講和会議に出席しなかったけど、その後個別に講和している。
 アメリカ側にもソ連側にも立たない外交方針をとろうとしていたため、距離をとっていたんだ。



【9】日本と戦後の西アジア


西アジアはどうなっていますか?

―むかしオスマン帝国だったところに、イギリスやフランスが「代わりに支配」していた地域があったよね。
 そこでとてつもない量の「石油が見つかった」ばっかりに、先進国の「ターゲット」になるよ。
 でもさすがに「植民地」をつくるなんて時代遅れだし、イギリスやフランスにもここをソ連の進出から食い止める力も残されていない。
 だから、アメリカはこの地域の国々と同盟を結んで、ソ連の進出に備えたんだ。


なるほど。アメリカの進出に対して、住民たちは一致団結して立ち向かうことはできなかったんですか?

―パレスチナという地域にイェルサレムという町がある。
 ここには大昔にユダヤ人の建てた神殿跡もあるし、キリスト教のイエスのお墓や、イスラーム教の開祖が天国にのぼったとされているところもある。


いろんな宗教にとって大切な場所だったんですね。

―そうだよ。
 昔オスマン帝国の支配下だったときには、どの宗教の「持ち物」でもなくゆる~く支配がされていた。だけど、この時代にユダヤ人のグループのひとつが、この場所に「ユダヤ人の国」(注:イスラエル)を建国したんだ。

 それに対してアラブ人は一致団結してユダヤ人を追い出そうとしたけれど、失敗。たくさんの「家を失った人」が発生してしまった。

 そんな中、エジプトでは王様が軍人に倒されている。イギリスをはじめとする外国との仲のいい王様を追い出して、「アラブ人の国」をつくろうとしたんだ。

 一方、アメリカやイギリスはソ連が南に下がってこないように、イランの国王と協力してイランに埋まっている石油を確保しようとしていた。

 それに対してイランの首相(注:モサデグ)は「イランの石油はイランのものだ!」と宣言した。

 イギリスとイランの関係が悪化する中、日本の貿易会社はイギリス海軍をかいくぐってイランに船を派遣し、石油を初めて直接産油国から輸入する交渉をとりまとめている(注:日章丸事件)。



 しかし、アメリカの作戦によってこの首相は退陣させられてしまった。これ以降イランは、アメリカに対してはむかうことができなくなっていくんだ。

西アジアはみごとにバラバラって感じですね。

―そうだね。
 おなじアラブ人であっても、国ごとにバラバラになってしまっている。
 これもまた、アメリカ側の作戦でもあるよ。
 とくにサウジアラビアの王様はアメリカとの関係を良好に保って、石油を輸出してボロもうけしていくことになる。「アラブの石油王」のイメージはここからだ。

なんだかせっかく独立できたのに、どんどん混乱していくんですね…。

―植民地から独立する過程で「うまく問題が解決できなかった地域」では、現在でも不安定な情勢が続いてしまったんだ。

―でも「うまく問題が解決できなかった」といっても、現在のその地域の人に「責任」があると考えるのは正しくないね。歴史的な事情をしっかりと考えるべきだろう。


【10】1945年~1953年のアフリカと日本

―ドイツと日本とイタリアのグループを破った後、「勝ち組」の中心となったのはアメリカとソ連だ。

イギリスやフランスは…?

―戦争で疲れてしまって、もうへとへと。体力がないんだ。
 そこでアメリカもソ連も、「イギリスとフランスが世界中にもっている植民地を、いかに解放させるか」ということを考え、両国を含めヨーロッパ諸国に植民地を「手放す」ようプレッシャーを与えた。


独立運動も活発しそうですね。

―その通り。
 でも、植民地を「ベース」に新しい国をつくるにしても、もともとあった国や民族の境界線とは一致しない。

直線的な国境が多かったですね。

―住民の事情はほとんど考慮されていない。地形を考慮した線引き(自然的国境)もあるけど、直線的な機械的な線引き(注:数理的国境)が多い。

 そうなると、植民地にいたいろんな民族が新しい国の実権を握ろうと「競争」する事態になる。
 それに、国づくりにはお金が必要だから、資金を提供してくれる「親分」に頼らざるを得ないところもある。


どうしてですか?

―植民地はヨーロッパ諸国だけが得するように経営されていたから、住民のことを考えた国づくりはほとんどなされていなかったんだ。
 例えば、道路、病院、水道、学校などなど。


輸出向けに嗜好品を栽培するプランテーションや、鉱産資源の採掘くらいしか産業もありませんよね。

―そうだね。
 たとえば、のちにガーナやコートジボワールして独立する地域(西アフリカ)の熱帯雨林地域ではカカオばかりが育てられている。

 まだこの時期に独立できたのは、イタリアの植民地だったリビアくらいだ。この先アフリカの人たちには過酷な試練が待ち受けているよ。

リビアは独立してやっていけるんですか?

―石油を欧米諸国に売って収入源にできたんだ。

 また、イタリアによる併合から解放されたエチオピアは、朝鮮で戦争が送るとアメリカ合衆国を中心とする軍隊に兵を送った。このときにエチオピア兵は横浜に立ち寄っていたようだ。



【11】1945年~1953年のヨーロッパと日本

―ソ連は「2度目の大戦」ではじめはドイツの側に立って戦ったけど、途中で「寝返って」、イギリスとアメリカ側についた。

どうしてですか?

―序盤はドイツと組むことで、とれるだけの領土をとった。
 でもドイツが負け気味になると、こんどはイギリス・アメリカと組んでドイツを「はさみうち」にしたほうが、もっと領土が取れると計算したわけだ。

でも、国の「設定」はソ連と、アメリカ・イギリスとでは大違いですよね。
―そうだね。


◆ソ連とアメリカの「設定」の違い

 ソ連は、「人間の世の中は、みんなが平等な国になるべきだ」ということを「正義」に「設定」し、「社会全体」を重視して特定の個人に「持ち物」や「手柄」が集中するのを認めなかった。

 アメリカは、「人間の世の中は、みんなが自由に個性を発揮できる国になるべきだ」ということを「正義」に「設定」し、「個人」の自由な競争を認めた。

それぞれ「いい考え」に思えますが…

― 一見そう見えるけど、どちらにも「欠点」はある。
ソ連のやり方だと、「社会全体」が重視される代わりに「個人」の自由はおさえこまれる。

一方、アメリカのやり方では「個人」の自由を大切にするあまり、「社会全体」の平等は保障されにくい。
 ただ、戦後のヨーロッパでは、どちらも「新しい時代」にふさわしい魅力的な考えにうつったわけだ。

じゃあ、ヨーロッパはこの2つの考えのうちのどちらかを受け入れていくわけですね?

―そう。
 西のほうはアメリカの影響力が強く、東はソ連の影響が強かった。
 ドイツを追い出して解放することができた土地では、ソ連の影響力が強まったわけ。
 で、それぞれの地域で経済の復興をしていく。


どうやって復興させていったんですか?

―まずは鉄鋼の生産だね。石炭の産地近くに工場がつくられることが多かった。
 その原料である鉄鉱石や石炭をめぐって揉め事が起きることのないように、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリアで共同管理グループ(注:ECSC)も作られている。フランスとドイツの国境近くの産地は、長年に渡る対立の火種だったからね。


イギリスはどうなっていますか?

―戦争を率いた首相はすでに選挙で負けて引退し、労働者の支持を得た新しい首相が、国民の福祉を最優先に考えた政策を進めている。
 会社を国有化したり、生まれてから死ぬまで国が安心を保障したりと、至り尽くせりだ。

 この時期には、日本との国交も回復している。


では、ドイツはどうなっていますか?


―先述したように、西側はアメリカ・イギリス・フランスの3か国が、東側はソ連が「分割して」占領することになった。
 国がバラバラになってしまったわけだ。
 でも首都は東側に位置していたから、首都は首都で東西に「分割して」支配されることになった。

なるほど、それで「ベルリンの壁」が作られたんですね。

―それはもうちょっと後の時代。この時期にはまだない。


 ただ、さっそく東西の対立が深刻化して、戦争に発展するんじゃないかというところまで行ってしまった(注:ベルリン封鎖)。
 でも、なんとかギリギリおさまったんだけど、ドイツは結局「東のドイツ」と「西のドイツ」の「2つのドイツ」に分かれてしまう結果になってしまったよ。
 こうした深刻な対立は、ソ連側の最高指導者(注:スターリン)が急死するまで続くことになる。


日本に対するイメージはどんなものだったんでしょう。

―この時期に、日本映画(注:黒澤明監督の『羅生門』)がヴェネツィア映画祭でグランプリ、カンヌ映画祭でグランプリ(注:衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)の『地獄門』)を受賞するなど、文化的な評価は高いよ。


今回の3冊セレクト

  

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊