見出し画像

歴史総合入門(10)2つ目のしくみ:冷戦の開始

■冷戦の開始


 第一次世界大戦とともに現れた「大衆」を戦争に動員するしくみは、世界に第二次世界大戦という破局をもたらしました。

 しかし戦争の終結とともに、新たなしくみが出現します。
 「大衆」を経済成長のために動員するしくみでした。
 これはまったく新しい代物ではなく、前者の体制の多くが引き継がれていたという視点が重要です。

 戦争への動員を可能にする総力戦体制では、戦場で傷を追った軍人や、のこされた遺族を救うために、厚生労働省が中心となってさまざまな年金制度が整えられました。
 国力を高めるために奨励された郵便貯金への貯蓄も、戦争をとおして残高を増やし、戦後はインフラなどへの投資における重要な元手となります。
 また、国が米の生産・流通を保護する食糧管理制度も、総力戦を勝ち抜くためにつくられたものです。

 このように、「戦前」と「戦後」は、さまざまな面でつながっています
 戦後日本の経済成長を支えた官僚のなかにも、かつて戦時中に戦時経済を支える政策を立案した人々がおおぜいいました。


■アメリカとソ連の対立

 このように「大衆」をどのように国に「動員」していくかということが問題となった点で、戦前も戦後も本質的に変わりはありません。
 しかし戦後の世界では、経済成長という目的をどのように達成するかをめぐって、アメリカとソ連の間に深刻な対立が表面化します。

 アメリカは、自国のやり方のほうが「自由」であり、ソ連のやり方は「全体主義」で、敵として戦っていたドイツやイタリアと似たようなものだと攻撃しました。
 他方ソ連も、アメリカの「自由」は、社会全体の幸せを無視し、一部の個人の利益を追い求める悪いやり方だと批判します。


 こうして2つの国は、戦後の世界の主導権をにぎるべく、それまで世界中に植民地をもっていたアジアやアフリカ諸国に、それぞれの経済を成長させる方法の売り込みをはかっていきました。


■アメリカ陣営に入った日本


 明治維新から77年、近代化を果たし、国際秩序の転換と大衆化を経験した日本は、敗戦と占領いう並々ならぬ挫折を経験し、そのうえでアメリカ陣営に組み込まれることとなりました。

 敗戦は日本では「終戦」と表現され、一般に1945(昭和20)年8月15日の終戦の詔勅の玉音放送をもって、その日とみなされます。
 歴史総合では、占領期(〜1952年)も含めて「2.国際秩序の転換と大衆化」の期間とみなされます。これは先にも述べたように、「戦前」と「戦後」をひと続きとみなそうとする考えによるものだと思います。 


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊