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新科目「歴史総合」入門(4)グローバル化

■3つ目のしくみ「グローバル化」


いよいよ最後、3つ目のしくみは「グローバル化」があらわれる20世紀半ばの時代をみていきましょう。


前回みたように、戦争が終わると、今度はアメリカとソ連の2つの世界に引き裂かれましたが、2度の世界大戦を通して縮小していた貿易や交流は、以前と比べれば回復に向かいます。

ソ連とアメリカは、それぞれの掲げるイデオロギーのもとで、世界をひとつにまとめようとします。

人々は、生活水準を高める憧れを抱き、どちらかの陣営に参加し、よりよい人生をおくることを願いました。たとえば敗戦した日本はアメリカ陣営に属し、1950年代以降高度経済成長を遂げました。「人々の自発的な参加を求める力」を実現させるマスメディアには、ラジオや映画のほかにテレビが加わり、大量にモノを生産・消費するライフスタイルの魅力が世界に発信されました。


■途上国の問題

しかし忘れてはならないのは、そのような生活の基盤にあったのは、アジアやアフリカで植民地から独立したばかりの途上国が、安い資源を輸出してくれるおかげであったということです。
世界はソ連とアメリカの東西2つ世界のみならず、先進国と途上国の南北2つの世界に分断されていたのです。

1950〜60年代頃までの世界では、農業が中心の途上国は、工業中心の先進国とは、そもそも「出来」がちがうのだ、とする二重経済論が素朴に信じられていました()。

しかし開発援助をすすめても、途上国がいかに経済成長をめざそうとしても、なかなか発展の兆しはみえません。
そこから1960〜1970年代には、これってつまり、先進国の発展が、途上国の発展を犠牲にして成り立っているんじゃないのか?という発想が生まれるんですね。これを従属理論といい、1970年代には近代世界システム論へと発展していきます。

資本主義のもつ、世界経済を「ひとつにまとめようとする力」によって、途上国が苦しんでいるのなら、先進国・途上国の力関係や世界経済のルールを変える必要があるんじゃないかという声も、1960年代以降さかんになっていきました。


)たとえばアメリカの経済学者ロストウは、このギャップを解消し、途上国が工業国に「離陸」するには、投資の率を高めるといった措置をほどこさなければならないとします。



■オイル・ショックの衝撃

こうした途上国と先進国の関係を根本的にかえるきっかけとなったのは、1973年のオイル・ショック(第一次石油危機)でした。石油をはじめとする資源価格が高騰し、先進国が謳歌していた高度経済成長にブレーキがかかります


これを解決するために登場していった動きが、グローバル化のしくみと新自由主義です。

3つ目のしくみに挙げられる「グローバル化」から、順番に見ていきましょう。



■グローバル化って何だろう?

グローバル化は、経済活動が国という単位を越え、世界全体にひろげていこうとする動きのこと。

もともと資本には、国境をこえて自在に移動しようとする傾向があります。ここにはない何かを、どこか遠くから持ってくれば高く売れますし、ここだけでは売り足りないから、もっと遠くに行ってたくさん売りたいということにもなりますよね。

そういう意味でヒト、モノやカネの「グローバル化」自体は、もっと前の時代から存在していたわけです。
たとえばアメリカ大陸とユーラシア大陸の結びつきが強まった15世紀末以降の大航海・大交易の時代は、「グローバル化」の画期としてよく挙げられます。



しかし、歴史総合という科目における「グローバル化」は、20世紀なかば以降の世界で、次のような変化がもたらされたことを指します。

・冷戦が終結し、グローバルな規模に市場経済がひろがったこと
・人と資本のグローバルな移動が激増したこと
・インターネットによってグローバルに飛び交う情報量が激増したこと
・食料生産・人口がともに急増し、グローバルな不公平がうまれていること
・グローバルな開発が進み、資源・エネルギーの持続性が問題になっていること


■経済のグローバル化は先進国の「苦肉の策」


なかでも、「経済のグローバル化」とよばれる動きが深化したのは、1973年のオイル・ショックがきっかけです。

低成長にくるしむ先進国は、モノ、ヒト、カネが国境を越えて自由に移動できるしくみをととのえることで、危機をのりこえようとしたのです。

この恩恵を受けたのは、中東の産油国新興工業経済地域(NIEs)とよばれた新興国です。特に東アジアでは経済成長を果たす国・地域が次々に現れ「東アジアの奇跡」とよばれることになります。

しかし、これをすすめていけばいくほど、先進国の労働者の仕事が、途上国の労働者に奪われてしまいます。ところが先進国の政府はこれを仕方がないものとみなし、「人々の自発的な参加を求める力」の源であった福祉国家の制度をやめるようになります。このように、とくに社会保障の分野で国の役割を縮小させる動きを、新自由主義といいます。今までとは別のかたちで、国を「ひとつにまとめようとする力」が考えられるようになっていくわけですね。

イギリスのサッチャー首相(在任1979〜90)
新自由主義の担い手の一人


なお、グローバル化を支えたのは、情報通信技術の発達です。特にインターネットは1990年代以降急速にひろまり、民主化運動など、人々の「自由であろうとする力」を支えた面がありました。


■グローバル化から自由になろうとする動き

一方で、世界のどこでも「お金」という同じ指標で価値を測り、お金もうけの対象としていくグローバル化には、世界の人々のライフスタイルを「ひとつにまとめようとする力」があります。

特に1991年にソ連が崩壊すると、ソ連陣営だった地域にも「グローバル化」の波がひろがり、ロシア経済の混乱や、ユーゴ内戦、ルワンダ内戦といった地域紛争の一因となりました。

自国の経済のルールを世界におしつけようとするアメリカと、影響力を保持しつづけようとするロシアは、冷戦が終ってからもしばしば世界各地の紛争に介入し、対立をつづけます。そのなかで、反グローバル運動のように「自由であろうとする力」も活発となりました。

1999年、米シアトルのWTO会合に対したおこされた反グローバル化デモ。これを境に、市民社会は、国連や各国政府との激しい対立は沈静化し、MDGs、SDGsのような市民社会も包摂した開発政策が主流となっていきます。


■ひとつにまとまった世界? バラバラな世界?


2000年代に入ると新興国はいっそう存在感を増し、社会主義を掲げていた中国も、アメリカを脅かす大国に変貌していきます。

そんな中2020年にはじまった新型コロナウイルスの世界的流行が、引き起こされました。
観光客やビジネス、留学のために人々が国境を越える動きはおおきく制約された一方で、デジタル技術によって人々の交流を可能としたり移動を管理したりする技術革新もすすんでいます。

これがどれだけ歴史の動きを変えることになったのか、渦中にあるわれわれた評価するのは難しいですが、「グローバル化」の動きに一時的にブレーキがかかったのは事実でしょう。
また、西欧やアメリカのかかげる経済体制や価値観によって世界を「ひとつにまとめようとする力」に対する異議申し立てが、中国やロシアからはっきりと唱えられるようになったことも、大きな変化です。

今後の世界が、18世紀の世界がそうであったように、複数の地域大国が、たがいに異なる価値観をもちながら許容しつつ交流する体制に移行するのか、それとも対立が生まれるのか。あるいは普遍的な理想のもとに世界を「ひとつにまとめようとする力」が実現するのか。
先行きは未知数ではあります。





■歴史を踏まえていない「SDGs」の問題


しかし、現在の世界を見渡せば、途上国の貧困は依然として未解決のままですし、18世紀後半にはじまる開発には限界があることも、はっきりしています。

歴史総合の教科書も、巻末にしっかり2015年に国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)が掲載されています。
小中学校のときに、ジェンダーやフードロスといった身近な地域や国際的な課題に引きつけて学習した経験をもつ今どきの高校生にとっては、もちろん生徒により差がありますが、「社会や地球にとって良いことをする目標」というような理解を、ある程度もっているものです。

他方、大人にとっては、積極的な推進派もいれば、「流行りにのっかっているだけではないか」と冷ややかに見る人もいるでしょう。


いずれにせよ、あまり議論にのぼらないのは、「SDGsを歴史的にとらえる」という作業です。

結論から言えば、SDGsは、一つ前のMDGs(ミレニアム開発目標)に比べると、国際開発にとりくもうとするトーンが明らかにうすくなっています(参照:
山形辰史2015「MDGsを超えてSDGsへ -- 国際開発の行方 (特集 ミレニアム開発目標を超えて -- MDGsからSDGsへ」、『アジ研ワールド・トレンド』232


20世紀半ば以降、本格的にはじまった国際開発は本来、歴史的につみあげられてきた途上国における深刻な問題を解決しようとする営みでした。

しかし、実際には、近所の商店街の衰退をとめる問題と、生きるか死ぬかの飢餓を解決しようとする問題が、まったく同じパッケージのなかで同列に掲げられているのが現状です。

持続可能な開発を、単なるスローガンに終わらせるのではなく、私たちの未来をひらく。そのためにこそ、日本史と世界史を総合させた歴史に立ち返り、考えていく必要ではないでしょうか。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊