見出し画像

世界史のまとめ × SDGs 第17回 ヨーロッパ諸国の拡大と各地の開発の進展(1650年~1760年)

 SDGs(エスディージーズ)は「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。 言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
 17の目標の詳細はこちら。
 SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
 一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
 しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
 「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。

目次

【1】植民地から独立した国は、どのような道を歩むことになったか?
【2】人類は「海の資源」とどのように関わってきたか?
【3】定住民の支配地域の拡大によって、移動生活を送る人たちはどのような変化を受けたか?
【4】この時代の人類はどうやって平和と安全を守ろうとしてきたか?(アジア編)
【5】この時代の人類はどのように平和と安全を守ろうとしてきたのか?(ヨーロッパ編)

* * *

【1】植民地から独立した国は、どのような道を歩むことになったか?

目標 8.a 後発開発途上国への貿易関連技術支援のための拡大統合フレームワーク(EIF)などを通じた支援を含む、開発途上国、特に後発開発途上国に対する貿易のための援助を拡大する。

―これ、どこにある国だと思う?

Photo by Bailey Torres on Unsplash

アフリカですか?

―黒人がいるからそう見えるよね。
 でも、ここ、アメリカのカリブ海なんだ。
 2010年に大地震が起きて、30万人近くの未曽有の犠牲者を出して以来、復興のけわしい道を歩んでいるよ(注:ハイチ大地震)。


どうしてそんなに復興が大変なんですか?

―もともとハイチは世界の中でも「最貧国」に位置する。
 貧しさと災害の二重苦が降りかかる形となったんだ。

どうしてそんなに貧しいんですか?

―その歴史にヒントがある。 
 ハイチはこの時期に、ヨーロッパ諸国によって連行されたアフリカ系奴隷たちが、のちのち反乱を起こしたことで建国された国だ。
 
 次の時期(1760~1815年の世界)のことになるけれども、反乱後の新しい国のトップには、アフリカ系の軍人(注:ジャック・デサリーヌ)が「皇帝」として即位した(注:ハイチ帝国)。

 しかし、もともと国の経済がサトウキビのプランテーションに依存していた島だから、独立してもその構造は変わらず続いてしまう。
 そのサトウキビからつくられた砂糖は、ヨーロッパ諸国に送られ、利益はハイチの人々の手元にはなかなか残らない。

ということはハイチはその後もなかなか自立できなかったのでしょうか。

―残念ながら…。
 独立したハイチ(注:ハイチ帝国)はサトウキビ栽培の利権をめぐる争いから分裂し、島にはいくつもの政権(注:ハイチ国ハイチ共和国ハイチ王国)が並び立ち(下図)、しかもフランスに莫大な賠償金を課せられたことで、なかなか立ち直れない状況がつづいたんだ。

悲惨ですね…。アメリカ大陸に進出しようとしたのは他にはなかったんですか?

―赤道に近い熱帯の島々が浮かぶカリブ海には、イギリス、フランスのほかにオランダも進出したよ。
 ここは島が多く、日本で言うところの「台風」であるハリケーンもたくさん発生するから警備が手薄になりがちな場所で、先に来ていたスペインがうまく支配することができていない場所だった。当時は「カリブの海賊」の根城になっていたんだ。

 でもサトウキビの栽培にもってこいの場所なので、当時ヨーロッパでヒットしていた紅茶に入れるための砂糖の多くが、ここに運び込まれた黒人によって生産されたことになる。

ちなみに、南アメリカは自立できていますか?

―ブラジルはポルトガルが支配し、その他のエリアはスペインが植民地にしているよ。各地からは特産品(ブラジルの金(ゴールド)など)がヨーロッパに輸出され、現地の人の気持ちを無視した支配が続けられた(注:17世紀ブラジルのゴールドラッシュ)。


―じつはこのブラジルの金によって得したのは、イギリスだ。

どうしてですか? ブラジルってポルトガルの植民地ですよね?

―たしかにブラジルから金はポルトガルに流れたけど、当時のポルトガルはイギリスの重要なマーケットだった。
 イギリス製の綿布を輸入したポルトガルは、ブラジルの金を代金として支払った。
 このようにして金はブラジル→ポルトガル→イギリスのように移動し、イギリスは金を大量に蓄えていくことになったわけだ。


なるほど。南アメリカは相変わらず、ヨーロッパ諸国のビジネスチャンスとして見られていたわけですか。

―そう。
 もともといた先住民族にヨーロッパ諸国を実力で倒せるようね「強いまとまり」はなかなかなかったし、ヨーロッパ人との結婚も世代を追うごとに普通になっていった。
 さらにそこへアフリカ人が奴隷として流れ込み、人種を超えたカップルも生まれていくようになる。

そうなると、とっても複雑な社会になりそうですね。

―「肌の色合い」を基準にすると、ユーラシア大陸よりもバリエーションが大きいね。
 その後も人の移動はつづくから、比率は地域によってまちまちだけど。

=アメリカの先住民、=ヨーロッパ人、=アフリカ人(アフリカ系の混血)、オレンジ=アメリカの先住民とヨーロッパ人の混血


じゃあ、南アメリカでは「さまざまな人種のちがい」をどう乗り越えていくかということが課題になっていったわけですね。

―そうそう。
 ただ、この時代には、かつて広い範囲を支配していたインカ帝国という国の、支配者の子孫を名乗る者が各地で反乱を起こすようにもなっている。成功はしなかったけどね。

 また、アメリカでスペイン人の両親から生まれた人たちの中には、「アメリカ生まれ、アメリカ育ち」という、「スペイン人とは違うんだ。俺たちはアメリカ人だ」という意識も生まれていく。

 こういった雰囲気が、次の時代になると「スペイン本国に対する反抗」につながっていくことになるんだ。

* * *

【2】人類は「海の資源」とどのように関わってきたか?


目標 14.4 水産資源を、実現可能な最短期間で少なくとも各資源の生物学的特性によって定められる最大持続生産量のレベルまで回復させるため、2020年までに、漁獲を効果的に規制し、過剰漁業や違法・無報告・無規制(IUU)漁業及び破壊的な漁業慣行を終了し、科学的な管理計画を実施する。

ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に向かったのは、砂糖が欲しかったからなんですね。

―それ以外に、魚の資源も重要だね。

 アメリカは、いちばん先に乗り込んだスペインと、あとからやってきたフランス、イギリスとの間で「植民地取り合い合戦」がはじまっている。

どうしてアメリカに進出しようとしたんですか?

―寒い地方の動物の毛皮や、魚をとることが目的だ。
 ヨーロッパにとってはアジアに向かう西まわりのルートをとる際に、カナダが地理的に重要だ。

 それに北アメリカの東海岸沖は世界的な漁場(注:北西大西洋漁場)で、水の深さが浅くなってくるところにタラ、ニシン、カレイなどが集まってくる。

 浅い海は魚が産卵する場所だし、魚のエサ(注:プランクトン)も多い。大陸のそばにある浅い海底(注:大陸棚)や、そのうちのさらに浅くなっている部分(注:バンク)は良い漁場になりやすい。

 漁師たちは魚を大量に捕まえて塩漬けにし、それをヨーロッパに売り込んだんだ。

スウェーデンの伝統料理 ニシンの酢漬け Inlagd sill(EURO TRAVELLER 記事より)

ヨーロッパの人たちは魚が好きなんですか?

―キリスト教ではお肉を避ける伝統行事(注:四旬節)があって、その間の食べ物として魚が重宝されたんだ(魚はOKとされた。直前にごちそうを食べて大騒ぎする民衆のイベントを「カーニバル」という)。
 それに、当時のヨーロッパの人たちはそこまでお肉を食べまくっていたわけでもないんだよ。

 魚のほかには寒い地方の動物の毛皮の取引もおこなわれ、その取引拠点として北アメリカ大陸が注目された。

ビーバーの革でつくられた山高帽wikicommonsより)

 「インディアン」と呼ばれた先住民族たちは、ヨーロッパの人たちが自分たちの土地を奪おうとしていることが分かると必死の抵抗をこころみるものの、持ち込まれた病気によって人口は減っていった。

 武器などの点でも圧倒的な差があったから多くが悲惨な結果に終わったけど、なかにはヨーロッパから持ち込まれた馬を駆使した民族や、逃亡した黒人たちと強力してヨーロッパ人に立ち向かおうとした民族もいたんだよ。

やられっぱなしではないわけですね。

―インディアンたちにとって面倒だったのは、ヨーロッパの国どうしの「駆け引き」に巻き込まれたことだ。
 たとえば、イギリスとフランスは、ライバルどうしの先住民族をそれぞれ応援し、武器を与えて戦わせている。

 こうした過程を経て、毛皮のとれる動物や海の資源の「とり過ぎ」という問題も起きるようになっている。
 「自分たちで使うための狩猟・採集」から「ビジネスのための狩猟・採集」に変わると、それに合わせて人と人のつながりも変わるし、自然も大きな影響を受けることになっていく。


* * *

【3】定住民の支配地域の拡大によって、移動生活を送る人たちはどのような変化を受けたか?


目標 16.4 2030年までに、違法な資金及び武器の取引を大幅に減少させ、奪われた財産の回復及び返還を強化し、あらゆる形態の組織犯罪を根絶する。


―この時代になると、定住民の軍事力が、草原地帯の遊牧民のパワーにいよいよ追いつくようになる。

大砲や銃の力ですね。

―そうだよ。火薬の力が馬の力に勝ったわけだ。

 草原地帯では、モンゴルの血を引く遊牧民のリーダーによる「最後の遊牧帝国」(注:ジュンガル)が勢力をのばす。

 彼らも銃や大砲の部隊をつくって応戦したんだけど、最終的には中国の皇帝に敗れ、砂漠地帯に住んでいたトルコ系のウイグル人たちとセットにされて、支配下に置かれることになってしまった。

(韓普景「清代の銅版画《平定準回両部得勝図》の制作について」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』 、62、pp.357 - 371 , 2017-03-15 , 早稲田大学大学院文学研究科より)

 この銅版画には、この「最後の遊牧民帝国」が銃火器を用いて戦った様子が描かれている。イタリア出身の宮廷画家(注:カスティリオーネ)の指揮で制作され、フランスのパリの王立画院におくられたものだ。

当時の中国の皇帝って、北部出身の民族なんですよね。

―もともと漢字も使えなかった女直(じょちょく)という民族だ。この時代に領土を拡大させていき、西から領土を拡大したロシアとの間に、国境線を引いているよ。


ロシアってヨーロッパの国なのに中国のほうまで拡大しているんですね…

―ロシアはかつて長い間モンゴルの支配を受けていたから、草原地帯の事情には詳しかった。

 北の方に広がるさむ~い森林や平原を東に東に進んでいったんだ。

 ウラル山脈というゆるやかな山脈(注:古期造山帯)を超えれば、低い平原(注:西シベリア低地)がどこまでも続いている。


そんなところまで遠征する兵隊はどうやって集めたんですか?

―モンゴルの子孫の人たちやトルコ系の遊牧民に頼んだんだ。「征服したら、そこに自由に住んでいいよ」っていうことで。
 外国を支配するために外国人を利用したわけだ。自分の手は汚さずに済む。

そんなところに進出して何かいいことがあるんですか?

―針葉樹林(注:タイガ)には、寒いところに適応した動物たちがたくさん分布している。
 この毛皮を集めてセレブに売ったんだ。
 中国では革製品の需要も高かったんだよ(⇒竹之内一昭「近世アジアの皮革 1.中国の甲冑と衣服」)。


【4】人類はどうやって平和と安全を守ろうとしてきたか?(アジア編)


目標 10.7 計画に基づき良く管理された移民政策の実施などを通じて、秩序のとれた、安全で規則的かつ責任ある移住や流動性を促進する。
目標 16.3 国家及び国際的なレベルでの法の支配を促進し、全ての人々に司法への平等なアクセスを提供する。

このころのアジアの様子は?

―この時期には寒かった気候がいったん持ち直し、各地で「開発」がすすみ、人口が増えている。

 日本でも、今まで田んぼのなかったところに新しく田んぼがつくられるようになったのもこの時代だ。

技術が発展したっていうことですか?

―文字の読める人が増え、新技術が伝わりやすくなったことも大きいね。だけどアジアの場合は人口が多いから、マンパワー(人の力)に頼ったところが大きいかな。お米は小麦に比べ、狭い面積で育ててもたくさんの人を養えるだけの収穫が見込めるから(注:人口支持力が大きい)。

収穫が増えれば、商業も盛んになりそうですね。

―そうだね。日本各地を結ぶ貿易ルートが整備され、大商人が特産品を仕入れて全国に売り出し、ヒット商品も数多くできた。

 日本には、沖縄にある琉球(りゅうきゅう)王国を通して、中国や東南アジアの特産物が流れ込んでいたよ。

あれ? 日本は「鎖国」(さこく)していたんじゃないんですか?

―実は日本は外国との関係を100%閉ざしていたわけではなく、窓口として4か所の関所が開かれていたんだよ。
 青森からは北海道のアイヌ。
 福岡の北にある対馬(つしま)からは朝鮮。
 長崎ではオランダと中国。
 鹿児島を通して、沖縄。
 窓口の所在地には外国の事情に詳しい支配者が置かれ、国の管理下で貿易が行われていたんだ。
 「付き合いをせずに引きこもっている」というよりは、国による「出入国管理」がおこなわれていたというイメージのほうが正確だ。

 この時代には、東アジア各国で「出入国管理」がおこなわれ、形式的には「中国の皇帝」がいちばんえらいという共通認識のもとで、「争いごと」の調整を図る仕組みがつくられていったんだ。
 

参考】荒野 泰典 「【第4回】「四つの口」と長崎貿易――近世日本の国際関係再考のために――」(東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜
「もちろん、海禁にも、単に国家権力(中央政府)がその理念を保持しているのみに等しい状態(例えば、中世日本など)から、17世紀中期の清朝による「大陸封鎖令」(遷界令、1661–83年)や近世の日本や朝鮮の「四つの口」による厳密な出入国管理、さらには、現代の近代国家におけるパスポートなどによる巧妙な出入国管理まで、様々な形態や歴史的位相がある。
 17世紀末には、日・朝・中・琉の4つの国家が海禁体制をとり、「人臣」の私的な出入国を管理することで国際関係を管理・統制下に置きながら、是々非々の政府間ネットワーク、すなわち国際関係を構築した。それ以後19世紀後半まで東アジアは平和を維持したが、それはこの国際関係がこの地域の国際間の矛盾の調整機構として機能したことによる。上述のような外交使節団の往来や貿易、彼我の漂流民の送還などはその表れでもある。」

なるほど。人の移動をコントロールすることで、社会安定させようとしたわけですか。
中国はこの時代、どんな状況だったんですか?

―当時、中国の北にいた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて中国の皇帝に即位していたよね。

 でも、この女直に滅ぼされた前の皇帝一族は、復活を夢見て南のほうに逃げていたんだ。


中国の南の方には港町がたくさんありますから、経済力がありそうですね。

―広州や泉州、寧波(にんぽー)といった港町だね。
 前の皇帝一族(注:南明)の中には、当時東アジアの海で活躍していた武装民間商人グループ(注:倭寇)と協力し、女直を中国から追い出そうとした人もいた。

 そこで女直人の皇帝は、この武装民間商人グループ(注:鄭氏(ていし)政権)のアジトである台湾を攻撃し、占領することに成功。
 前の皇帝一族を完全にやっつけることに成功したんだ。

北中国と南中国の対立って、この地域の「あるある」ですよね。
でも中国の外出身の女直人が、圧倒的多数の中国人を支配するのって大変じゃないんですか?

―その通り。
 だから、甘くするところはそれなりに甘く、でも厳しいところは徹底的に厳しい態度を見せて、批判が出ないようにおさえこんだ。「女直人に協力すれば有利になるぞ」と、中国各地の有力者たちをうま~く取り込んだんだ。税のとり方をシンプルにしたことも好評だった。

 それにこの時代には人口が1億人から3億人にまで増えている。

この時期の人口増加は、ヨーロッパと中国でみられた同時現象だ。(グラフはwikimedia commons "Great Divergence"の項よりFeuerwerker, Albert (1990), "Chinese Economic History in Comparative Perspective", in Ropp, Paul S., Heritage of China, University of California Press, pp. 224–241,)

えっ、もうそんなにたくさん…。どうしてですか?

―この時代に導入されたアメリカ産の野菜(トウモロコシやジャガイモ)の導入の効果が起きいよ。

 領土もかなり広がって、現在の中国の領土よりもちょっと広いくらいのエリアまでになったよ。
 庶民の文化も発展して、小説から人生論まで様々な書物が出回った。


海外貿易は認められていたんですか?

―皇帝は「海賊」対策のため、貿易ができる場所を4か所に限定した。
 ヨーロッパ人の進出を防ぐ意味でもあったんだよ。
 それを嫌った中国南部の商人たちは、こぞって東南アジアに移り住んでいった。東南アジアに今でも中国系の人たちがたくさん住んでいるのは、これがルーツだよ。

 でも、この時代の終わりごろにはヨーロッパ人が中国との貿易を求めて盛んに来航するようになり、皇帝は中国の南にある広州という港に限って、免許を与えられた民間のビジネスマンによる貿易も認められた。


中国の貿易は、皇帝に「あいさつ」する形での貿易が基本じゃなかったでしたっけ?

―「朝貢(ちょうこう)貿易」のことだね。伝統的にはそれが基本だったんだけど、この時代になるとついに民間人の貿易が場所を指定して許可されたわけだ(注:カントンシステム)。

中国からはどんなものが積み出されたんですか?

―ヨーロッパでブームになっていたお茶がヒット商品だ。
 イギリスはこのお茶代金によって貿易赤字になってしまうほどだった。


中国といえば烏龍茶ですよね。

―でもヨーロッパでは紅茶のほうが人気だよ。

 お茶は、日当たりがよくて雨がたくさん(少なくとも1300~1400mm以上)降る温暖なところでよく育つ。
 季節風の影響で夏場に雨が大量に降る中国南部は、世界有数のお茶の産地だったんだ。


 東南アジアでは貿易の利益を握った王国が、各地で栄えている。

 また、中国で貿易の制限が強まると、それを嫌った中国商人が拠点を東南アジアに移していくよ。

ヨーロッパの進出はどうなっていますか?

―前の時代にはスパイスの貿易が盛んだったよね。

スパイスって持ち帰るだけで高く売れたんですよね!

―はじめはね。
 でも当然ずっーとやってれば飽きられるし、珍しくもなくなる。
 この時代にはスパイスの価格は暴落し、もうからなくなったオランダは島の支配へととりかかるんだ。

 オランダは後から新規参入してきたイギリスを追い出し、現在のインドネシアの島々の支配地域を広げていくよ。
 貿易から支配への方針転換だ。
 この地を支配していたイスラーム教徒の王様たちは次第にオランダの言うことを聞かざるをえなくなり、コーヒーやお米を輸出向けに栽培させて利益を上げようとしたんだ。

ヨーロッパの支配は東南アジア全体に及んだのですか?

―まあ「支配」といってもこの頃のヨーロッパには、まだまだアジアの国々を支配できるだけの経済力も軍事力もない。
 特に大陸側の東南アジアでは、ビルマ、タイ、ベトナムにあった王国が貿易ブームの恩恵を受けて絶好調だ。

この地域は農業も盛んですよね。

―大きな川が北の高い山から大量の土砂を下流に運んで来るから、河口付近には「三角州(さんかくす)」という低くて湿った土地が広がっている。
 しかも季節風が大量の雨を降らせてくれるから、米の栽培にはもってこいだ。
 雨季と乾季の区別がハッキリしているところでは浮き稲という、水深が高くなるとそれに合わせて根っこが伸びるタイプの稲も栽培されている。

 南アジアにはムガル帝国というイスラーム教徒を支配者とする国が領土を広げていた。

 貿易が盛んで、ヒット商品だった綿織物の生産により、アジア有数のリッチな国にのし上がっているよ。

皇帝はイスラーム教徒だったけど、ヒンドゥー教徒に対して手加減をしていたんですよね。

―そう、現実的な支配を心がけたんだね。
 インドの建築様式を取り入れたタージ・マハルという巨大なお墓(皇帝の奥さんの墓)からも、インドの文化を柔軟にとりいれようとした跡が読み取れる。
 でも、その後即位した皇帝が、マジメにイスラーム教の決まりを実行しようとしたものだから、イスラーム教徒ではないヒンドゥー教徒からも税を取り立てようということになってしまった。

ヒンドゥー教徒からの税は免除されていたはずですよね。

―だよね。
 これがもとで各地のヒンドゥー教徒が反乱を起こし、帝国はバラバラに。
 そのスキに、東南アジアの支配をあきらめたイギリスが、インドを支配しようと沿岸の港町をゲットし、貿易の拠点をつくっていったんだ。

 イギリスは、同じ頃インドに進出したフランスを戦いで破り、インドの支配をほぼ独占することになるよ。


インドは完全にイギリスの植民地になってしまうんですね。

―その影響は今にも残っている。いまでもインドでは英語が公用語とされているし、イギリスで流行したクリケットというスポーツ大会には今でもる。


【5】この時代の人類はどのように平和と安全を守ろうとしてきたのか?(ヨーロッパ編)

目標2.4 2030年までに、生産性を向上させ、生産量を増やし、生態系を維持し、気候変動や極端な気象現象、干ばつ、洪水及びその他の災害に対する適応能力を向上させ、漸進的に土地と土壌の質を改善させるような、持続可能な食料生産システムを確保し、強靭(レジリエント)な農業を実践する。
目標 16.3 国家及び国際的なレベルでの法の支配を促進し、全ての人々に司法への平等なアクセスを提供する。

―この時代のヨーロッパは「17世紀の(全般的)危機」ともいわれるとっても「スランプ」にあたるんだ。

どうしてですか?

―気候が寒くなったことが、無視できない原因だ。

 農業が立ち行かなくなったため、特にイギリスでは農業の技術革新(注:農業革命)が起きている。飢えに苦しむヨーロッパの農民を救ったのは、アメリカ大陸から持ち込まれたジャガイモだった。
 この時期にはイギリスのロンドンを流れるテムズ川は冬にひんぱんに氷結。オランダの運河も同じように凍ってしまい、オランダ衰退の背景となったと言われている。

そんな時期に、ジャガイモは「飢え」をしのぐために導入されていったんですね。

―国をあげて栽培を奨励するところもでているよ。
 狭い土地でたくさんの収穫が見込めるし、手もかからない。
 ある意味、ジャガイモのおかげで「工業化」が実現できたといっても過言ではない。
 同じ時期にはトウモロコシの栽培も広まっている。

ヨーロッパはとっても大変な状況だったんですね。

―あれだけ盛んだったアジアの貿易も不振となり、「宗教がらみの戦争」も各地で起きていたからね。


「宗教」ってキリスト教ですよね? キリスト教の教会のパワーは弱くなっているはずなのに、どうしてまだ「宗教がらみの戦争」なんて起きるんですか?

―以前からキリスト教のローマ本部のパワーが弱くなり、各地で「独自のキリスト教」が生まれ、ローマ本部から独立しようとする動きが起きていたよね。
 ローマのキリスト教本部は、国なんて関係なく「全世界」のキリスト教を目指していたわけだけど、この時代には各国が「自分の国限定」のキリスト教」をバックアップするようになっていたんだ。

 だから、一見「宗教」と「宗教」の争いのようにみえるけど、実のところは「」と「」との争いというわけなんだ。

現在の「国」との違いはありますか?

―いちばん大きな違いは、「国民」は「国」の持ち物だっていうことだね。
 「国民」には、国に関する決定権なんてない。
 「国」は一部の王家や貴族が運営するもので、由緒正しい王家がいくつもの国の支配者を掛け持ちしていることだってある。
 ただ、それぞれの国が自分勝手に行動した結果、ドイツで史上最悪の戦争が起きてしまったことを反省し、「人様の国の中で起きているケンカには口出ししない」「ケンカが起きたら、関係各国の国が集まってミーティングをし、取り決めを決める」「普段から国と国との間に外交官を送り合って関係を取り合う」といった国を超えたルールがつくられていくよ。

今では当たり前のようなルールですけど、このころのヨーロッパで生まれたものなんですね。

―そうだね。
 ただ「ヨーロッパ」といってもこの頃には地域によって大きな差も出ているよ。

 例えば西のほうのヨーロッパでは、王様が商人の富を利用しつつ、あの手この手で強い国をつくろうとしている。イギリスやフランスが代表例だ。

 東のほうのヨーロッパでは、ロシアが西はバルト海、東はアジアのほうまで領土を広げているよ。
 バルト海はヨーロッパの北にある海で古くから貿易が盛んなエリア。周辺のスウェーデン、ポーランド、ロシアが支配権をめぐって争ったんだ。


ポーランドって強くて大きな国だったんですよね?

―今とは比べものにならないほど巨大な国だったんだ。でもこの時期になると、西からはドイツ人、東からはロシア人に挟まれて、しだいに衰えていくよ。
 国の大部分が真っ平らな平野だから、外からの侵入を受けやすいことが弱点だった。

ドイツ人の力も大きくなっているんですか?

―うん、ドイツ人の国として「プロイセン」と「オーストリア」という新興国が成長している。
 だけど、「ドイツ」というまとまった国はないよ。

どういうことですか?

―「ドイツ」を話す人の住む地域を「ドイツ」ということにすると、その地域をカバーしていたのは神聖ローマ帝国という国だ。
 でも、当時の神聖ローマ帝国はもはやいくつものドイツ人の国があつまったグループのような存在。皇帝は「名誉会長」のような存在だ。

「名誉会長」って必ずしもパワーがあるとは限りませんね。

―そうなんだ。でも、由緒はあるから威厳はある。
 当時の神聖ローマ帝国の皇帝(=「名誉会長」)を務めていたのはオーストリアの支配者だ。
 その頃、オーストリアは、地中海からアラビア半島に付け根のほうにまたがる巨大な国をつくっていたオスマン帝国から、ハンガリーを取り返すことに成功。
 オーストリアは、このハンガリーだけでなく、チェコというところの王様の位も兼任し、一大勢力になっていく。


どんどん強くなっているじゃないですか。

―だけど、他の国がオーストリアのいうことを聞いてくれるとは限らない。その代表がプロイセンだ。戦争を2回もおこない、工業地帯を取り合っている。
 「どちらが最強のドイツ人の国か」をめぐって争っているんだね。
 でも「どっちもどっち」のところもある。産業は盛んではないし、土地にしばりつけられた農民も多い。
 支配者の中からは「先進国」のイギリスやフランスの最新思想をとりいれて、支配の方法を改善しようとする人も現れるよ。もちろん「自由」や「平等」のような、支配に都合の悪い考え方までは取り入れないけどね。

イギリスやフランスはそんなに進んでいたんですね。

―平和な世の中だったとは限らないけどね。
 イギリスでは政治的に落ち着かない時期(注:名誉革命)が続くけど、この時代に「王様が無条件に偉い!」という考え方は否定され、「王様よりも議会の決定のほうが上!」という慣習が定着した。

 それに比べてフランスでは「イギリスよりも遅れている」という意識が強い。海外ではイギリスとフランスの植民地取り合い合戦が100年続き、経済的にフランスはイギリスに立ち遅れてしまった。


なぜそんなに差がついてしまったんでしょう?

―簡単にいえばイギリスは、国民からきっちり税をとる能力が高かったので他の国からの信用が高く、イギリスにお金を貸してくれるお金持ちは国内外にたくさんいたんだ。「イギリスにお金を貸せば必ず多くなって戻ってくる」という期待も高かった。
 それにこの時代のイギリスではとっても効率よく農業を行うテクノロジーが開発されて食料の増産ができるようになり(注:農業革命)、みんながビジネスに専念できるようになった点も大きいよ。

 国民の稼ぎが増えれば税金も増えるし、税金が増えれば軍隊を強くすることもできる。強くした軍隊でオランダやフランスと戦い、この時期には広大な植民地を世界中に獲得することになるんだ。


なるほど。それで「海の貿易ルート」を次々に広げることができたわけですね。

―そういうこと。
 ロンドンの中心地には、「イギリスの国や会社にお金を貸せばもうかる」と考えた人たちが集まり、シティという地区はヨーロッパの金融の中心地に成長していった。有名人の集まる「サロン」的な「コーヒーハウス」も流行する。ここでの発言や議論は、政治・経済に関する言論冊子とともに活発化し、やがて政治・経済を動かす大きな力となっていくようになるよ(注:世論)。

イギリスの初期のコーヒーハウス。「喫茶店」というよりも「会員制の情報交換クラブ」っていう感じである。Historic UK より)

そのコーヒーって、輸入品ですよね。

―コーヒーは熱帯地域、しかも限られたところでしか栽培できないからね。

 で、貿易が盛んになるにつれ、ロンドンでは港も整備され、大きな船が乗り付けることができるようにもなるよ(注:現在のドックランズ、地図)。

気候が寒くなって大変な時期だったからこそ、工夫をがんばってしたわけですね。

―たしかに、後世に影響を与えた科学者や哲学者が活躍するのもこの時期だ。

 「寒さ」によって 今までの価値観が崩れ、社会がひっくり返ると、それを乗り越える新しい「発想」が生まれたっていうふうに見ることができるかもしれない。

 国や宗教の違いで血が流れる現状に対し、「古い考え方は捨て、理性的になろうじゃないか(注:啓蒙思想)」と「広い心」を訴えた思想家もいる。

 しかし、この時期にヨーロッパで生まれた「1つのエリアは1つの政治権力によって強力に支配されるべきだ」「基本的によそのエリアに口出ししてはいけないが、外交や戦争はルール(注:国際法)に基づいておこなうことができる」という考え方(注:主権国家体制)は、のちにこのエリアに大きな戦争をもたらすことになっていくことになる。

どうすれば平和を守ることができるのか、まだまだ「答え」が見つかっていない状態ということですね。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊