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【ニッポンの世界史】#21 反戦と世界史の60年代:映画の映した世界とサブカルチャーとしての漫画

ベトナム戦争の衝撃


 日本が高度経済成長を驀進していた1960年代。
 しかしちょっと視線を国外に向けてみれば、依然として世界のあちこちでは冷戦構造が緊張をもたらしていました。

 1962年にはキューバ危機が勃発し、世界が冷や汗をかかされたと思ったら、その後しばし和解ムードとなりますが、63年にはケネディ大統領が暗殺。これに代わったジョンソン大統領は65年から北ベトナムの空爆(北爆)を開始し、のべ50万人の地上軍を投入することとなるベトナム戦争の火蓋が切って落とされます。


 これに対して、大規模な反戦運動が世界的に展開されました。1968年革命とも呼びうるグローバルな現象です。
​​ 戦後の先進諸国では、アメリカ合衆国を筆頭に、1950年代以降「豊かな社会」が現出します。ここでいう豊かさとは物質的な豊かさのことですね。
 しかし1960年代末から、物質的な豊かさを追い求めようとする人々の姿勢には、変化の兆しが現れるようになります。
 その原因や主張は多様ですが、ベトナム戦争批判や文化大革命への共感、黒人や女性といった社会的マイノリティに注目するなど、国をこえる共通点も持っていました。
 特にフランスにおける五月危機とアメリカにおける反戦運動・公民権運動の持つ影響が見逃せません。新たな社会運動は、ニューレフト(新左翼)とも呼ばれ、資本主義国、社会主義国を問わず、さまざまな国で展開されました。

 特に若者たちを中心に、ロック・フェスティバルが開催され、既成の社会が暴力と戦争を容認していることに対する批判が、ロックや映画、小説などを通じて発信されました。長髪にジーンズを身に纏うヒッピー文化に代表される文化は「対抗文化(カウンターカルチャー)」と呼ばれます。約40万人をあつめたウッドストックのロック・フェスティバルが有名です(1969年)。支配的な文化に対抗する文化という言葉が成立するほど、当時の「文化」とは、教養の高いエリート知識人が大学などを中心に独占する高尚なものとみなされていたのです。

 日本でははやくも65年4月には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が結成されます。 ここに加わったのは、小田実鶴見俊輔開高健堀田善衛らの面々です。たとえば作家の開高健は直接戦地に向かい、現地の声を生々しく伝えました(『ベトナム戦記』1965年)。

 ほんの10年前には「現代アジア」とアフリカの独立が、インドのネルー首相やエジプトのナセル大統領がアンバサダーとなり、日本人の心をとらえていました。堀田善衛は1956年に、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問した経験を、『インドで考えたこと』(岩波新書)にまとめています。


日本映画の描き出した世界


 なお堀田は中村真一郎、福永武彦らとともに、映画『モスラ』(1961)に関わっています。小野俊太郎によれば、『モスラ』の原作小説執筆にあたって「モチーフとして中村が「変形譚」、福永が「ロマンス」、堀田が「ヒューマニズム」を分担」したとのことで、『モスラ』が単なる怪獣映画ではなく、堀田による社会性の付与により、日米安保と米ソの冷戦構造を暴き出す構図を備えていたと指摘しています。

 『モスラ』はアメリカのコロンビア映画との日米合作映画でしたが、同様の日米合作映画は1950年代に流行りました。沖縄を舞台とする『8月15日の茶屋』(1956)や、アメリカ兵が日本文化に感化され心中を試みる『サヨナラ』(1959)がそれにあたり、いずれも日本女性にアメリカ男性が愛されるという構図をとります。ここには征服者の男性性が被征服者の女性性に優越するディスコースを読みとることができるでしょう。


 なかには羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』(1965)のように、アフリカ人を人間味あふれる姿で描き出す作品もみられますが(佐藤忠男「多様化の時代」、『講座日本映画7』岩波書店、1988、28頁)、かつての満映の『支那の夜』を彷彿とさせるタイトルである『香港の夜』(1961)や『バンコックの夜』(1966)のように、アジアの女性に愛される日本男子というモチーフで海外ロケをおこなう作品のように、同時代の日本映画の主流は1950年代半ば頃から、往時の帝国意識をよみがえらせていきます。

 そういえば東宝が、独立を果たしたインドネシアを舞台に、終戦後に現地へ残り、インドネシア独立のため共闘した元日本兵の作品を企画したもののボツになり、代わりに出たのが『ゴジラ』(1954)でした。


 映画評論家の佐藤忠男は、こうしたところに明治以来の「西洋への対抗意識」の残滓がよみとれること、それが960年代初めまで時代劇映画が、1963〜73年まで続いた任侠映画ブームに引き継がれていったことを指摘します。そして、それらが観客層を失っていったのは、日本がそうこうしているうちに経済成長を果たしたことで「西洋の劣等感も薄れてしまったことに気づいた」ために、ことさら「日本の伝統」を美的にうちだす必要がなくなったからなのではないか分析しています(佐藤忠男「危機と模索」『講座日本映画6』岩波書店、1988、54頁)。 

 とはいえ、戦後の日本映画の制作は、配給数・興行収入ともに1960年代初めに最初のピークを迎えていました。
 対抗メディアであるテレビが普及していったことが最大の原因です。

社会実情データ図録、https://honkawa2.sakura.ne.jp/5666.html


 そのテレビがブラウン管に映し出したのは、ベトナムの人々がまさに今、独立をめざして立ちあがろうとしているところに、アメリカが強大な軍事力を投入している、まさに巨象と蟻の戦いの映像でした。

 1950年代半ば以降に台頭する戦後派知識人による「戦争責任意識を自力でつくり出す動き」は、アジア・アフリカの第三世界への共感と接続し、1959〜60年には日米安保という形で、アメリカ軍と同盟関係にある日本の立ち位置を問い直す動きにつながりました。
 「経済」の季節に入ってからもその熱は完全に冷め切ることはなく、戦後生まれの団塊世代の若者、とくに大学生たちのエリート知識人(進歩的知識人)の教養主義に対する反発と結びつく(竹内洋『教養主義の没落』)。それが1968〜69年の大学紛争となって現れたわけです。


カウンターカルチャーとしての漫画


 日本におけるカウンターカルチャーとして重要なのは、漫画です。
 いささか教科書的な話をすれば、戦後の漫画は形式的「ストーリー漫画」の形を備え、はじめは貸本屋向けの雑誌、そして週刊誌を舞台として発達していきました。
 第一次ブーム(1946〜49年頃)のときには、手塚治虫が映画的な表現手法を児童漫画に導入し、大きな影響を与えます。その後、1954年創刊の『漫画読本』(文芸春秋社)が第二次ブームを生み、貸本屋に対応した漫画誌(『影』や『街』(1956、1957)が創刊。このなかで特に人気を博した青少年向けストーリー漫画は「劇画」と呼ばれ、司馬遼太郎が『梟の城』(1958)でつくり出した忍者ブームに乗った白土三平 (1932〜2021)の『忍者武芸帳』(1959)が劇画ブームをもたらし、その作風は少年漫画・少女漫画にも影響をあたえました。


 では、そうした漫画が年少者向けだったのかといえば、ちがいます。学生運動にした大学生も、少年漫画誌『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』(ともに1950年代末に創刊)を読みました。漫画雑誌には主流文化に対抗する意味があったのです。
 べ平連を率いた小田実は、1984年に書かれた予備校講師としての経験を綴ったエッセイのなかで「最近の若者は漫画ばかり呼んでいる」という批判に対して、次のように切り返しています。

最近の若者は本を読まない。マン画ばかり読んでいるというはやりの意見があるが、私はこれは実情を知らない人の意見だと思う。べつに若者が本を読んでいるというのではない。実情はこうだ。彼らはマン画を読まなくなってきている。そしてまさにそれゆえに、本を読まない。かつては一年が終って寮生たちが立ち去るときには、彼らの部屋から厖大な量のマン画の本が出て来たものだが、ここ数年、急激に減った。つまり、若者たちは本を読まなくなったばかりではない。マン画も読まなくなった。これはマン画に熱中することは、本を読むことにつながる可能性を持っていたということだ。それでは何を読んでいるのかと言うと、教科書と参考書だろう。教科書と参考書しか読まなければ、ピラミッドの底部のひろがりはできない。つまり、そこで学力はいやが上にも低下する。マン画に熱中するから学力が低下するのではない。ことはまったくその逆だ。

小田実『小田実の受験教育』講談社、1984


 昔の若者は、もっと漫画を読んでいた、というのですね。それが、今(1984年)のように教科書や参考書ばかり呼んでいるようではダメだ、と。
 なお、べ平連のデモには、加藤芳郎、サトウサンペイ、富永一朗といった漫画家も名前を連ねていました。漫画はカウンターカルチャーの一角を占めていたのです。

 ただ、1960年代の時点では、忍者ものや講談をベースにした作品はあるものの、近現代史に取材し、しかもよく読まれたストーリー漫画は見当たりません
 先ほどの『梟の城』と『忍者武芸帳』の関係のように、当時は司馬遼太郎のような小説家の作品が、1970年代の「歴史ブーム」の読者層の下地をつくりだしていた段階にあったといえます。


 なお、少年漫画ブームと重なり合う形で、少女漫画誌でも1962年に『週刊少女フレンド』が、1963年に『週刊マーガレット』が創刊します。のちの歴史もの漫画に大きな影響を与えることになる歴史フィクション漫画『ベルサイユのばら』(池田理代子)の登場は、1970年代初めのこととなります。少女漫画が世界史とどう関わっていったかについては、のちのち見ていくことにしましょう。

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