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マノーリンはかもめの夢をみる(3/10)

 リョウヘイは、船だまりのところでリュウとトモキと別れた。そして、湾の町の西の端にある家に帰った。
 リョウヘイの両親はそれぞれに、父は町役場、母は漁協に務めているが、祖父は漁師だった。なので、リョウヘイの家は漁師の家と同じつくりをしている。広い門口から敷地に入ると、ほとんど同じ大きさの納屋と母屋あって、こういうつくりの家はこの町にたくさんあった。納屋は、今では物置になっているけれど、祖父が現役の漁師だった頃にはここで魚を仕分けたり捌いたりしていたと父に聞いたことがある。
 リョウヘイは母屋にはすぐに上がらずに、母屋と納屋を隔てる細い路地のような隙間を通って納屋の裏に出た。すぐそこまで迫っている崖地の斜面とのわずかな隙間には井戸がある。井戸はもう使われておらず、ふたで閉じられている。しかしその脇には、水道の蛇口がしつらえてあり、母はよごれのひどい洗濯物をいつもそこで洗った。リョウヘイは、その蛇口で砂まみれの脚を洗い、ついでに裸になって、潮でべとつく頭と体を流水で流した。
 そして、肌がさっぱりするまで体を洗ってやっと、リョウヘイは玄関から母屋へ上がった。
「ただいま」
 昔は応接間として使っていた居間の前を通る時に、昼のワイドショーを眺めている母に声をかけると、生まれたての赤ん坊のように濡れた裸のリョウヘイを見た母は、「なーに、また海寄ってきたの?」と呆れた。
「また寄り道なんかして。遅いから、そうじゃないかと思ってたけどさ。まったく、海なら昼からいけばいいじゃない」
「昼過ぎたら、暑いだろ」
「海に浸かったら、関係ないでしょうに」
 リョウヘイが水滴の跡をつけながら廊下を歩いて行くと、その背中に母の苛立たしげな声が投げつけられた。
「廊下、拭いておいてよ。それから、シャワーもちゃんと浴びなさい。あと、お昼食べたら、食器は水につけておいて」
 返事はしなかったけれどもリョウヘイは、去年リフォームしたバスルームに行ってシャワーを浴び、体を拭いたバスタオルで板張りの廊下の濡れたところも始末し、新しい着替えを身につけた。そして食事部屋に入った。
 台所とつづきになっている食事部屋には、バスルームのリフォームと同じタイミングで買い換えたイケアの四人掛けテーブルに、そうめんが用意されていた。母は、リョウヘイの帰りが遅いので先に済ませたのであろう、リョウヘイが食べる分だけのそうめんが、不相応に大きなガラスの器に盛られている。そうめんを冷やす氷は溶けかかっていた。
 居間からはテレビの音がしている。リョウヘイはささやくような声で「いただきます」と言い、手を合わせてからそうめんをすすった。
 五分もかけずにそうめんを平らげて箸をテーブルに置き、リョウヘイは「ごちそうさま」と手を合わせる。そしてすぐに、二階にある自分の部屋へ上がった。しかし、宿題をするためのタブレットを持って、すぐに一階に降りてきた。
 二階には、階段をあがってすぐにリョウヘイの部屋、そしてその奥に父の書斎がある。夏の間、特に日中、二階の部屋は殺人的な暑さなのだ。部屋にはクーラーも設置してあるが、リョウヘイはクーラーの冷気が苦手だった。夜になって窓を開ければ風が抜けて快適なので、日が暮れた後には部屋で過ごすのだけど、夏の日の高いうちに自宅にいる時は、一階の山際の方にある仏間にいるのがリョウヘイのやり方だった。
 リョウヘイは、薄暗い仏間の畳に寝転がると、タブレットを起動して、ごろごろと転がりながら宿題をした。その様子を、仏壇の脇に飾られた祖父の遺影が見下ろしていた。仏壇には、盆はまだまだだというのに、もうホオズキがかざられている。
 仏間は、以前は祖父の寝室でもあった。数年前に往生してからここは、ただの仏間ということになっている。リョウヘイは祖父が存命の頃から、ここで過ごすのが好きだった。ここは母屋の中で一番涼しい。リョウヘイは祖父のことも好きだった。祖父とは釣りをよくした。祖父は、漁師として働く時には網を使うが、リョウヘイと海に出る時には竿を持ち出した。そして、リョウヘイの釣り針にワームをつけてやりながら、「網もいいけどな、糸と針で釣れねえ漁師は、本物の漁師じゃねえ」と言うのが口癖だった。
 祖父は漁師仲間から「ヤゴさん」と呼ばれていた。そのあだ名の由来は誰も知らないが、誰もが祖父をそう呼ぶ。だから、祖父の漁師仲間が仏壇に手を合わせにくることがあると、そのお供えを母に預ける時に、「これはヤゴさんにだから」というふうに言い添える。そういうわけで、祖父にも当たり前に普通の名前があるのだけど、その名前を誰かに言われても、リョウヘイはそれが祖父のことだとはピンとこない。
 ヤゴさんと釣りに出る時には、手漕ぎの小さなボートで防波堤まで行って、そこで防波堤の外に向かって釣り糸を垂れるのが、ヤゴさんとリョウヘイのいつもの釣り方だった。ヤゴさんがリョウヘイを釣りに連れ出してくれるのは、昼網の後だったので、必ず夕方だった。釣りながら、「朝も昼も暮れも魚釣ってよぉ、これが漁師ってもんだ」というのもヤゴさんの口癖だった。
 リョウヘイは釣りが下手で、とぼけた魚がたまにリョウヘイの針を食っても、釣り上げる時に外れてしまう。小さな魚がぽちゃんと海に戻るとヤゴさんは笑って「続けてりゃそのうち、うまくいくようになる」と言ってリョウヘイの肩に手を乗せた。釣りは今でも得意ではないし、そもそも、ヤゴさんが死んでから釣りをする機会もなくなった。
 今でも、こうやって仏間でごろごろしていると、リョウヘイは時々ヤゴさんのことを思い出した。そして、祖父のヤゴさんとの思い出のほとんどは、防波堤の上での釣りと、そこから眺めた湾の外の海の風景だった。
 とりわけ強く印象に残っているのは、夕暮れになって灯りのともった灯台の美しさだった。リョウヘイの記憶の中で、群青に暮れていく空を背負った灯台は、虹色の光芒をフレネルから放っている。傾いた淡い日に照らされた灯台には、群れからはぐれたかもめが一羽まとわりついている。そのかもめは、もう世界は闇に閉ざされようとしているのに、灯台のまわりで急上昇をしたり、きりもみになって落ちてきたりを繰り返している。そのかもめに、たまたまフレネルの光があたると、白いかもめが一瞬、きらりと虹色に輝く。
 幼い頃のリョウヘイは、もしあのかもめみたいに飛べたら、やっぱりああやって灯台の光の中を飛んでみたいと思ったことがあった。その夢をヤゴさんに話すと、「人間は飛べねえんだよ」と言ってとりあってくれなかった。しかしリョウヘイは、仮に飛ぶことはできないにしても、いつかあの虹色の光に触れることができたら、と今でも思っている。
 リョウヘイがタブレットの宿題を終えた頃、母が台所から呼ぶ声がした。
「スイカ切ったから、食べにおいでー」
 リョウヘイはタブレットをスリープさせて台所に顔を出した。カーテンを引いた窓が白く光っている。薄暗い仏間から出てきたリョウヘイの両目は痛みを覚えた。
 母は流しの所でスイカを捌いている。半分捌き終わっていて、もう半分を今切ろうとするところだった。
「お皿、自分で出して、こっちからいる分だけ持っていってちょうだい」
 切り終わって山形の短冊になっているスイカを、母はあごで示した。
 テーブルの上に、さっきリョウヘイが平らげたそうめんの皿がまだ残っていた。リョウヘイはそうめんの皿を手に取ると、氷がすっかりとけてしまった後の水を、母の手元の隙間から流しに捨てて、そこへスイカを二切れとった。
「新しいお皿使えばいいのに」
「これでいい。ヤゴさんには?」
「ああそうね、じゃあ、ひと切れ持っていってあげて」
 リョウヘイは新しい皿を出して、そこへもう一きれスイカをとると、仏壇に供えて鐘を打った。そして、食卓のある部屋へもどってきてさっきの二切れのスイカを平らげ、その皿を流しに置いた。流しのところでは、スイカを切り終えた母が立ったままスイカを食べ、タネを三角コーナーのところに吐き出していた。
「出かけてくる」
「今から? 暑いわよ」
 さっきは、昼から遊べばいいなどと言ったくせにと思いつつも、リョウヘイはそれを言い返すことはせず、布巾を濡らして食卓を拭いた。
「父さんは? ていうか、母さんは、なんで家にいるの? 漁協は?」
「父さんは仕事よ。私がなんで家にいるかって・・・そりゃ、あんたが給食食べずに帰ってくるからに決まってるじゃない」
「あ、そ」
「あ、そ、って、あんたねえ・・・」
「いってきます」
 リョウヘイは玄関から飛び出した。
 飛び出してから、仏間にタブレットを置きっぱなしにしてきたことを思い出したが、まあいい。帰ってきてから片付ければ済むことだし、ひょっとしたら母が勝手に部屋に運んでしまうかもしれないから。
 そしてリョウヘイは、また浜に出た。
 真夏の日差しをうけて、浜の砂も海の水も、眩しいほどに輝いている。防波堤の向こうには、真夏の午後の訪れを告げる入道雲が背伸びをしている。そして、岬の先では灯台が、もくもくと伸び上がる入道雲を見上げ、一羽のかもめがまどろむようにその間を行ったり来たりしている。
 まっすぐに浜を横切ったリョウヘイは、着替えたばかりの服がまた濡れるのも構わずに、ざぶざぶと波を蹴って海に入り、そのまま泳ぎ始めた。そしてクロールで一息に防波堤まで泳ぎ切り、濡れて重い服に難儀しながら防波堤に上った。
 はっ、はっ、と荒い息を吐きながら、リョウヘイは湾の町を見た。海水浴場の準備がすすむ浜と、船だまり、父の働いている町役場、学校、自分の家や、トモキやリョウヘイの家も、バナナのように細長い町なら全部見渡せた。すべてがいつも通りの町、すべてがいつも通りの夏。そのはずなのに、何かが違う、とリョウヘイは思った。しばらく考えた後リョウヘイは、そうかあそこには自分がいないのだ、と気づく。気づいた瞬間、リョウヘイはめまいを感じた。世界が、ぐらりと揺れた。
 おやあそこに、子どもがいる、とかもめは気づく。湾の町の防波堤の上に、子どもが。子どもだろうか。子どもには違いないが、もうすぐ子どもではなくなる。そういう子どもは、時々、防波堤の上にいる。

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