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マノーリンはかもめの夢をみる(9/10)

 かもめは、他のどのカモメよりも早くねぐらを抜け出し、群青の空と漆黒の海の境界面を滑るように飛ぶ。そして、灯台の放つ虹色の光線へ飛び込み、ほとんど音速で横方向にスライドしつつ、光のはしごを駆け抜けていく。フレネルにむかって目一杯加速をかけ、フレネルに衝突する寸前の所で尾翼を起こし、急上昇に転じると、光のカタパルトから放たれたかもめは、水平線の向こうにまだ隠れている太陽をのぞいてやろうと、打ち上げ花火のように垂直に上昇した。すると、かもめは地球の影を飛び出し、上昇の頂点において太陽の光を捉え、きらりと白く光る。
 太陽の輝きをまとったかもめは、孤独な重力に従って下降へと姿勢を変える。その時にはもう、やっと起き出した他のかもめたちの騒がしい声が湾に満ちている。そして、海が、浜が、湾の町が明るくなりはじめている。
 かもめは浜に、ふたりの少年の影があることを認める。目を細めて注意深くその子どもの表情を見るとかもめは、ああ、あれは確か、ヤゴと呼ばれた漁師の孫たちだと気づく。

家族を起こさないようにそっと家を出たリョウヘイは、まっすぐ浜へと向かった。泳ぐつもりだった。この時間であれば海水浴客もいないし、朝網の漁船も出払った後なので見咎められることもない。だから、まだ生乾きの水着を履き、上にはTシャツを羽織って、サンダルで浜に出てきた。
 外は、半袖ではもう寒く感じるほど涼しかった。風は穏やかだが、空気が首筋を撫でるたびにリョウヘイの肌は粟立つ。砂浜に降りると、砂が足の指の股に入った。その砂も、夜の間に冷え切っていて冷たかった。
 昨日の夕方の風のせいで、浜は汚れていた。サンダルで踏む貝殻混じりの砂には、ペットボトルやレジ袋の残骸が埋まっている。流木もあった。大きくて黒々とした流木の影は、リョウヘイの体ほどに大きいものもある。そこまで大きいものはさすがに珍しいので、リョウヘイはその流木に近づいていく。すると、流木の向こうに人影があることに気がついた。
 それは、トモキだった。リョウヘイが人影の正面にまわってみると、小さくうずくまっているトモキが顔をあげた。二人は驚いた。しかし、驚きが去ってお互いを認め合うと、ぎこちなく挨拶を交わした。
「なにやってんだよ」
 リョウヘイがトモキに問うと、トモキは「別に」とそっぽを向いて大きな息をした。
「座ってるんだよ。朝日でも見てみようかと思ってさ」
 ようやく白みはじめた空の青白い光が、トモキは疲れた顔を青白く照らしている。いくらかやつれたようにさえ見えるトモキの頬に気づき、リョウヘイは胸がきゅっと縮こまるのを感じて、目を反らした。その胸の苦しさをまぎらわすように、リョウヘイも大きく息をした。生暖かい海風がリョウヘイの肺を満たし、言葉にならない空気が喉を駆け抜けて大気へと飛び出した。
 ふたりは、しばらく波と風の音を黙って聞いていた。東の空はだんだん明るくなってくる。いつもなら、そろそろ灯台の灯りが消えるはずの頃なのに、灯台のフレネルはいつまでも廻っていた。リョウヘイがそのことを言うと、「リレーが壊れて、しばらく点きっぱなしだってオヤジが言ってた」とトモキが応えた。トモキの父親は町役場の、リョウヘイの父とは違う課に務めていた。
 ふたりとも、何か話そうと思うのに、言葉がみつからなかった。まずは他愛ない話をと考え、夏休みの間のことでも尋ねればいいのに、それを話させるのは相手に悪いような気がして、波の音の中にヒントを探すように海に耳を澄ませた。海は何も語らなかった。ただ、波の音の向こうから、かもめの鳴き交わす声がしている。その声が、いつもより大きくはっきり聞こえている。まるで呼ばれているようだとリョウヘイは思った。
 ずっと、風が吹いている。その風は海から吹いてくる。風は、リョウヘイのTシャツの裾から入って背中を膨らませている。風は、同じようにトモキにも吹いているはずなのに、流木を背にしているせいか、あるいは背をまるめて座っているせいか、袖のところがすこし揺れているばかりだ。リョウヘイは、立ち上がれよ、風が気持ちいいぞ、とトモキに言ってやりたかった。しかし、あまりにも長く続いた沈黙のせいで、リョウヘイはそれを言い出せなかった。沈黙の連続が、沈黙それ自体をより頑固なものにしていた。リョウヘイはそれが息苦しかった。だから、大きく背伸びをしながら「あーあ」と、わざとらしいほど大きな声で風を割った。リョウヘイの肺から声と一緒に噴き出した熱い息が、風に流れて口角と頬を這い、その行方を振り返って追うと、トモキがリョウヘイをまぶしそうに見上げていた。
「泳ごうぜ、トモキ」
 トモキはびっくりした顔をした。
「泳がねえよ。バカじゃねえの」
 そうトモキは応えたが、リョウヘイは首をふって灯台の方を指さした。
「泳ぎはじめないから、泳げないんだ。泳ぎ出せば、泳げる。それだけだよ。なあ、一緒に泳ごう」
「意味わかんねえ。泳いで何になる? 今度こそ、漁船に頭かち割られるぞ」
「俺たちなら泳げる。灯台までだって・・・ほら、リュウがそう言ってただろ」
「リュウの言うことなんか、真に受けるなよな」
「とにかく、泳ごう。俺は行く」
 その時、ごうっと音が鳴って、海から強い風が吹いた。リョウヘイが体ごと振り向くと、Tシャツ全体がおおきく風船のようにふくらむ。風は、リョウヘイの髪を逆立てた。見れば、水平線のところから銀色の朝日が上ってくるところで、リョウヘイは思わず目を細める。深呼吸をしようと口を大きくあけると、風と光が、リョウヘイの口の中へ飛び込んできた。
「やめとけって。無理だよ。・・・先生に言うぞ」
 阿修羅のように髪を逆立てたリョウヘイの背中に向かって叫んだトモキの声は、風に流されて、リョウヘイの耳に届いたかどうかはわからない。トモキは立ち上がった。リョウヘイがサンダルを脱ぎ捨て、砂を蹴り上げつつ、海に向かって歩き始めたからだ。トモキはリョウヘイの脱ぎ捨てたサンダルを拾いながら後を追った。
 そして、トモキは見た。明けていく空の頂上を、一羽のかもめが飛んでいるのを。かもめはちょうど、フレネルを光らせ続ける灯台がまっすぐ指し示す天球の一番高いところで静止している。かもめがあんなに高いところを飛ぶのだろうか。いや、あれはかもめではなくて鳶か。しかし、翼の形は確かにかもめだ。かもめに、間違いない。トモキは立ち止まって、ぽかんとその鳥を見上げた。
 かもめは、気流の山のホルンの先端から、ふたりの子どもを見下ろしている。太陽が昇ればその熱によって雲を生じる気流の山だ。こどもの一人は、かもめをまっすぐに見上げ、もう一人は今、波打ち際にたどり着いて、泳ぎだそうとしている。そう、まさに、今。

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