見出し画像

クスッとしたい方におすすめ!短編小説「やすべえ」

(3182文字)
東西線、高田馬場駅。
戸山口という出口から下りのスロープを通ってT字路に出ると、真ん中の道が登り坂になっている。新宿の隣街なだけあって、その両脇に雑居ビルがぎゅうぎゅうになって建ち並び、その足元では人の熱を肌で感じさせる飲食店が僕を出迎えてくれた。

今日は、忙しくて昼ご飯も抜いたから、お腹がペコペコだ。
何にしよう。そうだ、久しぶりに東京に来たんだし、やすべえのつけ麺を勢いよく啜り上げたいなぁ。
よし、今日の夕飯は決定。

Google mapで検索する。
おっ、駅から徒歩で10分圏内にあるぞ。これは、付いている。T字路の真ん中の登り坂を進み、横断歩道を渡ってすき屋を左手にさらに真っ直ぐ進むと、赤い地面のT字路が二つ重なった場所を右に曲がって100mほど進むと、左手に赤煉瓦と木造でできた外装にやすべえという黒の太文字看板が見える。

おー、あったあった。
これだよ、これ。

店前の目に飛び込んでくるようなつけ麺の写真と「お持ち帰りいただけます」と書いた三角立て看板を見て、さらに胃袋からこの太麺を食べたい意欲が増していることを感じとる。

おー。

横引きの自動ドアから、入って、右側に券売機がある。

うーん。今日は、何を食べよう。普通のつけ麺と、辛麺は860円か。味噌味にすれば、960円なんだな。昨日の夕飯は節約したからとはいえ、さすがに1000円までに抑える必要があるなぁ。本当は、今日も仕事を頑張ったんだし、瓶ビールでも注文したいところだが、今夜は大事なクライアントのコーチングセッションがあるので、飲めん。ここは我慢だ、積徳。
よし、いつも通りだが、いつも心がそそられる辛麺にしよう。値段も同じだし、なんと言ってもやすべえの最大の良さは、麺の量を変えても同じ値段ということだ。僕は完全にこのメニューに泥酔している。心からやすべえのオーナーに感謝している。
財布から1000円を取り出し券売機に入れて、辛麺大盛り、辛味MAX、煮卵のボタンを軽快にポンポンポンと押し、値段は960円。ふぅ〜、なんとか1000円以内に収まった。なかなかの自己コントロールだ。偉いぞ積徳。

アジア系の20代の女性が、席に案内してくれた。

「麺は熱ですか、冷やですか?」
外国人としては、かなり聞き取りやすい日本語の中にも、アジア人特有のイントネーションが混じっていて、昔、頑張って勉強したことを感じさせる。

おっとぉ、そうだそうだ。ここが肝心なんだ。麺の温度を熱か冷やかでは、満足度が180度と言っていいくらい変わってしまう。これまでも何度も伝え忘れて後悔したし、新宿店や秋葉原店ではこの一言がないんだよなぁ。このアジア系の店員、かなり気が利くなぁ。そう言えば、さっきの声掛けや、水の出し方もテキパキ動いていたもんなぁ。うちの会社のアシスタントの子も少しは見習って欲しいもんだよなぁ。

そんなことを考えていると、アジア系の店員が、早く食券をよこせと言わんばかりに静かに待っていた。
何も言われてないのに「あっ、すみません」と言って食券を渡した。

アニメのワンピースのルフィが2年修行した後、シャボンシティーで仲間と合流した時に背負っていたリュックの様な大きな営業カバンを椅子の上に置いて、トイレに手を洗いに行った。
さて、これから麺を食らうぞと、トイレの鏡に写った自分に、静かに気合いを入れて席に戻った。

高田馬場店では、カウンター席のみになっていて、全席に食べ放題の微塵切りの生玉ねぎと、粉末がつお、お酢、胡椒が常備されている。
これらの使い方に寄って、やすべえのつけ麺は大きく幸福度が変わるのだ。
ポイントは、食べ放題だからと言って節度を守ること。入れ過ぎても美味しくないし、使わなくても、最後、少し飽きてくる。どれだけかけるかは、その時の自分の心次第だ。

サイズは麺440gの大盛りだ。この上に特盛りもあるが、550gを食べると動けなくなった経験がある。

麺とスープが来た。
麺山の上から、むふぅわ〜立ち起こる真っ白な湯気。麺も僕の心もアッツアツなのだ。
スープが冷めないまま、最後まで食べ切りたい。僕にはそんな思いがある。
両手を合わせ、では頂きます。
プラスチックの黒の箸を手に取り、麺を赤黒いマグマの様な濃厚スープに2往復、麺によ〜く絡み付けるように浸け、一気に麺を啜り上げる。

スールッズルズルズル。

啜り上げた瞬間、唐辛子魚介濃厚スープと、もやし、メンマが少量絡み付き、太麺の歯応えと共に食す。そこから伝わってくる味の全てを、僕の身体全身で、味わい切る。

ぅぅぅぅぅーん、うまい。
心の底から、声が出る。

まるで、大海原に身を投じ、様々な魚達と高速で泳ぎ渡る爽快感と同時に、
頭の真上からマグマがドォーンと噴火するかの様に、辛味が伝わって来る。

ぅぅぅぅぅーん。これ。
これなんですよ、これ。

そして、次の麺を麺山から取り、口の中に入れる。
美味しい。うんうん。たまらん。これだよ、これ。

次は、粉末がつおを濃厚スープの中にひとサジいれて、粉末がつおがスープの表面で、さーっと広がりを見せたところに、太麺をどっと漬けて、口に運ぶ。

スールッズルズルズル。

辛味、魚介、もやし、メンマ、チャーシュー、太麺全部の味に粉末がつおの風味が溶け込んで、同じように全身で受け止める。
そうだ、そうだ。これだよ、これだよ。この僅かな味変があるから、最後まで楽しめるんだ。本当に有難い。やすべえのオーナーありがとう。

次は、生玉ねぎを漬け汁に入れてみる。実は僕は、この生玉ねぎのトッピングは、好きではない。なぜなら、漬け汁が冷めてしまうからだ。だから、いつもは最後の方で堪能することにしている。でも、今日は久しぶりに来たので、冷めることを忘れていたのと、少し生玉ねぎの味を忘れていたので、どんなだったか、味わってみた。

一口食べる。スープの辛さが、和らぎシャキシャキと高い音がなる。生玉ねぎの瑞々しさが、スープの辛味を優しくする。久しぶりに食べたが、やはりこれもうまい。
また、幸せになった。

どんどんその調子で箸を進めていく。さっきの麺山が、麺丘くらいになっている。だいぶ、お腹の中が、この太麺で満たされてきた。

ふぅー。あと一息。まるで登山をしているようだ。一歩一歩一歩。一口一口一口。よーし、もうすぐ頂上だ。一歩一歩一歩。一口一口一口。
さすがにここまで来ると、少し飽きを感じている。そんな時は、お酢を入れたり、胡椒を掛けたりして、僅かな味変を試みる。その違いを感じ取ろうとすることで、飽きを忘れる。

そもそも、飽きの感覚はどこから来るのだろうか。きっと、脳の動きが停止して、感じる力が低下した時だろう。
そんなことを考えながら、また、箸を麺に伸ばし、口へ運ぶ。

遂に来た、最後の一口。麺山が麺丘に、そして今、目の前にあるのは、大皿の底ばかりが見えて、まるで池の水を吸い上げたようだった。我ながら良く頑張った。
このタイミングで恒例のルーティーンがある。店員に「スープ割り」と声を上げるのだ。すると、手のひらサイズの、深さのある陶器でできた小鉢に、魚介出汁スープが貰える。つまり、本物の漬け汁に味付けなしのスープだ。これとこれまで味わってきたスープを混ぜ合わせ、最後の麺を入れる。この時、追加のスープの熱で全体の漬け汁の温度も上がり、満足感が増すのだ。

スールッズル。

あ〜
ありがとう。
ご馳走様でした。

ふぅぅ〜。

これぞ、万人誰しも平等に味わえる幸福というものだ。
今日僕は、つけ麺を食べ切った。お腹も心も頭も、大満足。
いいんだよ、これで。この満たされた感じはまさに、僕のものだ。独り占めだ。誰にも渡さない。いいんだ、これで。僕は幸せなんだ。

再び、重い荷物を背負って、店員にお礼を行って店を出る。
夜風が僕の頬になつくように通り過ぎていく。
その風に身を委ねるように、今日の寝床へと足を進める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?