【「選択肢を増やす」ことや「個人の自由な選択」について】

近年「選択肢を増や」すことは良いことであるという風潮が醸成されつつあり、「個人」が「自由に選択」できるようになるべきだと主張する人が増えてきた。特に選択的夫婦別姓や同性婚など、家族の在り方に関わる話題と関連付けられて語られることが多い。

しかし、「選択肢を増やすこと」や「自由な選択」については、色々と考えされられることが多い。

同じ人でも自分の選択について考えが変わらないとは限らない。自分が置かれている状況が変わるかもしれないし、単に自分の気持ちが変わることだってあり得る。個人の選択の自由を重んじるということは、各々が自分の選択に責任を持つ必要があることでもある。しかし、究極的にそのようなことは可能だろうか。

複数人から構成される「家族」に関わる問題は、「個人」の「選択の自由」という自由主義を前提とした概念と相性が悪い。同じ家族の中にも色々な人がいて考え方が異なる以上は、例え「個人」の「選択」「自由」という名目で行われたことであっても他人を振り回してしまう可能性がある。例えば選択的夫婦別姓の議論において、「これは夫婦の氏の問題であって子供は関係ない」と主張する人もいるが、本当にそうだろうか。子が親の氏を引き継ぐことになっている以上は夫婦だけの問題ではない。しかも、生まれてすぐに自分、そして両親との氏の関係性を選ぶ権利は、子にはない。したがって、親の選択が子にどんな影響を及ぼすかについては考慮されるべきだろう。いわゆる「宗教2世」の問題についても同じことが言える。宗教は親から子への影響を受けやすい。中絶についても、「女性の選択」の問題であることを強調されるが、胎児の問題でもある。しかし、胎児には意思表示する能力はない故に、自分の意思とは関係なく将来を決められてしまう。
しかし、仮に「個人の選択」を重要視するのであれば、たとえ子供が良からぬ環境に置かれていたとしても、「その家庭の選択だから」と他者が介入しないことが適切であると言えてしまうのではないだろうか。現在世間で議論されているように、「宗教2世」の問題について、例えば国が各家庭に介入することを容易にしたり、カルトにはまった親に対して外部の者や同じ家族の者が「子供のためだから」と異議を唱えたりすることは個人主義の観点からすると芳しくないのではないか。仮に、特定の子育てサークルやカウンセラーや占い師や霊媒師やセミナーなどにはまっていて、自分は問題ないと思っているのに他人から「それカルトだから止めたら?」と言われたら冷静でいられるだろうか。反面、自分がもし危ない橋を渡ろうとしていたら誰かに助け舟を出して欲しいと期待してやいないか。他にも、親戚やご近所さんなどから「子育てを助けて欲しい」と思いつつ、時に彼らから耳の痛いことを言われることに耐えられないのは虫が良すぎるのではないか。

何もかも自分にとって都合よく進む世界は存在しないだろう。政治でも家族の在り方についても同じだけど、自分の選択がどんな結果をもたらすことになるのか、それが自分だけでなく他人に対してどのような結果をもたらすのか、自分はその責任をどこまで負って結果を受け入れることができるのか…こうしたことを考えながら選択していくことができるようになるのが大人になるということなのだと思う。