命在るカタチ 第七話「鍵」(過去作品)

Life Exist Form-命在るカタチ
Wrote by / XERE & Kurauru

第七話
「鍵」

「……しまった」
 日曜日の朝。柄咲は一言呟いた。
「日曜日だっていうのに……」
(早起きしてしまった……)
 仕方無し……といった感じで、柄咲は階下へと降りた。
 一階のキッチンでは、母さんが朝食を作っていた。
「あら、おはよう。柄咲ちゃん」
 にこっ、と笑うのは、柄咲の母親、美咲だ。
「おはよ、母さん」
 『ラジオ体操第4~~』などという音が、庭から響いてくる。
(……何をやってんだ親父は……)
 体操マニアの父親、柄也(からや)の姿を脳裏に描いて、柄咲は重い重い溜息を落とした。
(しかし……)
 やる事が無い。
 ……そもそも、常日頃ならまだベッドの中で寝息を立てているような時刻だ。
 こんな時間に起きてしまってもやる事なんて無い。
 ……つまりは、暇人だったのだ。
 おまけに、最悪な事に目はすっきり冴えてしまっている。
「朝御飯、すぐ作るからちょっと待っててね♪」
 にこーっ、と笑う。
「ああ……」
 とりあえず、その辺のソファーに放り出してあったマンガ雑誌に目を通して行く。
 何度と無く読み返した雑誌ではあるが、時間つぶしにはなる。
 三十分が過ぎても、リビングから続くベランダの外では、父親がまだラジオ体操を続けていた。
「……」
 何時間やってるんだ……? あの親父は……。
「あなたぁ、もうそろそろ朝御飯にしましょう」
「ん? ああ、分かったよ。ママ」
 美咲が呼び掛けると、柄也はにこやかに笑った。
「このラジオ体操アルティメットが終わったら行くよ」
 レトロなCDラジカセからは、とてもラジオ体操の音楽とは思えないデスメタル系の音楽が流れている。
「……なあ、親父。何時間も何をやってたんだよ……」
「ん? ああ。昨日買ってきた雑誌に入っていたディスクにな、『ラジオ体操大全』っていうのがあってな」
「ほぉ……」
「色々と入ってるんだぞ。まずはラジオ体操第一、次にラジオ体操第二、以下、第三、第四、第五、ラジオ体操改、新ラジオ体操、新々ラジオ体操、ラジオ体操α、真ラジオ体操……」
「……」
 柄咲が見守る前で、数十個に及ぶラジオ体操の名前を列挙していく柄也。
「……で、ラジオ体操マニアックス、ネオラジオ体操アルティメットEX……と続くんだ。……その次の神アルティメットラジオ体操改Z-436で最後なんだ」
「……確か、ラジオ体操って第二までじゃなかったっけ……?」
 ……我が親ながら……何やってんだよ、あんたは。
「ん~? ああ、まあいいじゃないか。健康には良さそうだし」
 からからと笑い声を立てる柄也。
「……ああ、そう」
 早朝からえんえんとラジオ体操を続ける方がよっぽど健康に悪いと思うんだが。
 ……っていうか近所迷惑なんじゃないか?
「ママ、今日の朝御飯は何かな?」
 と、唐突に美咲に話しかける柄也。
「えっと……トーストにベーコンエッグにサラダよ。嫌いだったかしら?」
「いやいや、君の作るものなら何だって天国の美味だよ」
「まぁ……あなたったらぁっ♪」
 ……ふと気づいた頃には、完全に二人の世界に入り切っている。
「……」
 こぉの万年新婚夫婦……。
 柄咲は、大きな溜息を落とした。
「さあ、あなたん。体操の続きはご飯食べてからにしようね……」
 柄咲は二人っきりの世界を展開させている両親を横目に、テレビを見ながらさっさと飯を胃袋に入れていた。
「あらあら、柄咲ちゃん。 ゆっくり食べないとおなか壊すわよ?」
 それを無視して、五分ほどで朝食を食べ終わると、早々に二階へ戻る。
 ……何だか良く分からないが、開け放しの窓から先刻のデスメタル系の音楽が響いてくる。
『右脚を上げて右手をつけて伸身体操!!IYHAAaaaaaAAaAAAaaAAaaaaa!!!!』
 ……ラジオ体操の音楽じゃねぇ。
 そもそも、8ビートのリズムでラジオ体操などというのが滅茶苦茶だ。

 それが終わると、今度は演歌系の音楽。続けて、いかにも熱血ロボット系のアニメソングが響いてくる。
『正義の心が俺を燃やすううう~~!! 腕を腰に当ててぇ~、上体を逸らしてぇ~、今こそ必殺の……』
 ………………
 いいかげん目眩と頭痛を感じて、柄咲は開け放しておいた窓をぴしゃりと閉じ、テレビゲームに没頭することにしたのだった。


 ……ピンホーンっ……
 昼食を食べ終わった頃、不意にインターフォンの音。
「あら、誰かしら……」
「いいよ母さん、俺が行ってくる」
 まだ食事中の美咲を制して、柄咲が立ち上がった。
 玄関へと向かい、扉を開くと、
「こんにちは、柄咲」
「……」
 そこに立っていたのは、彼のクラスメート。
 未羅だった。
「……どうしたんだ? いきなり……」
「え? ……うん、えっと……」
 口篭る未羅。
 表情の変化は少ないが、明らかにうろたえている。
「ちょっと……」
 ちょっと?
「散歩してたの」
「散歩?それで?」
「……どこにいるか解らなくなって……そしたら、『涼野』って表札見えたから」
 迷ったのか……? ……いや。
「……それで、ここに来たと?」
「おじゃましていい?」
「……どうぞ」
 ふーっ、と息を吐いて、柄咲は少々ためらいつつも言った。
「ありがと、柄咲」
「……どういたしまして」
「あら……?」
 後ろで響いたのは美咲の声。
「彼女? 柄咲ちゃん。やるわねぇ~……今夜はお赤飯ね」
 ……………………………………………………!?
「まてっ 何でそうなるんだ!!!」
「え? ……友達っていうか……クラスメートです」
 と、未羅。
「ね、柄咲」
「……ああ」
「じゃあ、”今は”柄咲ちゃんのお客さんね。どうぞ上がってくださいな。何も無いような所ですけど」
 ”今は”って何なんだよ母さん。
 どうやら母さんはどうしても未羅を彼女って事にしたいらしい……
 もう17年も一緒に生活してきているはずなのに、母さんは何を考えているんだか未だによく解らない。
「はい」
 靴を脱いで、上がる未羅。
「あと……」
 何だ?一体何を言うつもりだ?お前。
「ここ、靴箱と扉と階段と床と壁と天井と他にも沢山ありますね」
 ………………
「あはははははっ♪ 面白いお友達ね、柄咲ちゃん」
「『ちゃん』はよしてくれよ……母さん……」
 ふと見遣ると、未羅がじーっ、と柄咲の方を見ている。
「……何だよ」
 おもむろに柄咲を指差して、一言。
「柄咲ちゃん?」
「あはっ。 あはははははははっ~」
「母さんっ!! 何を笑ってんだあああああっ!!!」
 未羅にまで『ちゃん』付けされる覚えはないぞっ……ったくッ!!
 これでその後学校で『柄咲ちゃん』なんて呼ばれるようになったら最悪だ……
 だがまあ、未羅に限ってそんなことはなさそうにも思える。
「んじゃ、とりあえず二階に来いよ。ここじゃうるさいし……」


 ……その頃レトロなCDプレイヤーからはアフリカ原住民の民族音楽としか言い様のないような曲が流れていた。
 親父が体操をしているのは居間に行けば一発でばれる。
 落ちつきもへったくれもあったものではない。
「じゃあ、柄咲ちゃんの部屋に、後でお菓子と飲み物持って行くわね」
 と、美咲。
「ああ……」
 生返事を返して、階段を登って行く柄咲。
「変なことしちゃ駄目よ~~」
「するかっ!!!」
「あははは……、大丈夫だよママ。 ぼくらの子供がそんな不埒(ふらち)な事するわけないじゃないかぁ」
 情けない姿で体操を続けながら、遠くから必死に会話に参加しようとする父。
 体操をしながら喋るとは、相当体力のいる仕事だろう。
「あら……それもそうねぇ」
 一生やってろ……
「柄咲、今の……おとうさん?」
「気にするな……」
 もういい加減嫌になる。
 教会のミサ風の曲が流れる中、柄咲は早足で階段を登っていった。


「ここが柄咲の部屋……」
 さながら、特別天然記念物でも見ているような口ぶりの未羅。
「別にそんな大したもんじゃないだろ。その辺にでも座れよ」
「あ、うん」
 クッションを床に敷いて、その上に座る。
「後で母さんが飲み物持ってくると思……って何やってんだ? お前……」
 未羅は、壁の一点をじーっ、と凝視していた。
 その視線の先にある物は、カレンダー付きのポスターだった。
「……ポスターがそんなにめずらしいか?」
「あ、これがポスター……」
 納得するように、こくこくと頷く。
「じゃあ、あれは?」
 と、未羅が指差したのは、別のポスター。
「……あれもポスターだよ」
「ふーん……」
 不意に、ぽん、と手を打つ未羅。
「あ、そっか。『ポスター』っていうのは固有名詞じゃないんだね」
「……」
 何も言えない。
「じゃあ、あれは?」
「マンガだよ」
「じゃあ、あれは?」
「観葉植物……アロエだな」
「これは?」
「画板」
「じゃあ、あれ」
「……ラジコンだよ」
 昔、凝ってたんだ。
 って、そうじゃなくて……
「……あのなぁ、未羅……」
「何?」
 無表情の中にも、未羅は何処かきょとん、とした風を漂わせていた。
「マジで訊いてるのか?」
「うん」
「……」
 ホントに……どういう生活してきたんだこいつは……。
「まあ……いいけどさ、別に」
「何が?」
「いや、別に何でもない」
「ふーん……?」
 釈然としないような……
(……何時から……)
 少し……表情豊かになったかな、こいつ。
 それとも、俺の方が変わったんだろうか……。
「……」
 妙な気分になる。
 悪い気分じゃ……無いかも。
 考えてみれば女性と部屋で二人っきりなんてちょっと贅沢な話しだ。


「どうしたの?柄咲」
 ふと気がつけば、じぃっ、と柄咲の表情を除きこんでいる未羅。
「え? ……いや、何でも無い」
「でも、顔が赤いよ。肝機能の障害かもしれない……。ちゃんと調べなきゃ――」
「ンなわけあるかっ!」
 思わず声を荒げる。
「そうなの。ならいい」
「……」
 なんだかなぁ。

トントン
「未羅ちゃん、柄咲ちゃん、お菓子と飲み物持ってきたんだけど……」
 丁度良いタイミングで、美咲が部屋をノックした。


 空港特有の騒がしさが、その場を支配していた。
 窓ガラス越しに外を見遣れば、そこには雨。
 新東京総合空港。
 そこに、一人の男が訪れていた。
「日本は久しぶりだな……」
 一人呟く。
 その言葉を理解出来る者は、この場にはあまり多くなかっただろう。
 何せ、彼は英語で喋っていたからだ。
「社長」
「? ……やあ、キョースケじゃないか」
 冴木 京介 ウィングストン。
 プロジェクト フェミニニティの視察の為に送り出した、本社からの派遣社員だ。
「お待ちしておりました」
 慇懃、とも取れる一礼をする。
「ああ、ありがとう」
 今回はプライベートなんだがなぁ……。
 日本人の悪癖は、21世紀半ばを過ぎても未だに変わっていないらしい。
(いや……違うな)
 この男には野心がある。
 何時、自分を見限るかもしれない、そんな研ぎ澄まされた刃のような緊張感は結構気にいっている。
 こうした視線が自分を高めてくれるのだ。
「ところで、シンジは元気にしているか?」
 月沢神持。
 『フェミニ』プロジェクトの担当者。
 彼とは大学時代からの親友だ。
「ええ、そのようで」
 冴木の声は淡々としていた。
 ふっ、と笑って男……クリストファー・新條という名の彼、『テクニカル ライフ ルーツ』コーポレーションの社長である彼は、悠然と歩き出した。
「行くぞキョースケ。是非とも実物が見てみたい」
 『フェミニ』を、な。


「雨か……」
「雨だね」
 三秒ほどの感覚を経て返ってくる、のんびりした、抑揚の無い声。
「未羅、お前……傘なんて持ってないよな?」
「うん、持ってないよ」
 予想通り。
「どうやって帰る気だ?」
「……走って帰るよ」
 ……をいをい。
「雨の中を女をずぶ濡れで返すわけには行かないだろ。まあ傘くらいはあるかもしれないけどさ」
 しかし、外は傘なんて役にたたなそうな暴風雨だ。

 ……トントン……
 ドアをノックする音。
「柄咲ちゃん、さっき、これ持ってくるの忘れちゃった」
 手に持っていた物は、アイスクリームだった。
「……何でアイスなんだ?」
「え? アイス嫌いだったかしら?」
「ううん、アイスは好きです」
 と、未羅。
「あらぁ、よかったぁ~」
 安堵したように笑う美咲。
「いや、そうじゃなくてさ……」
 何でこんな木枯らしが吹くような秋口、しかもこんな冷たい雨の降る日にアイスなんだという事なんだけど……俺の訊きたい事は……。
「いいんだけどさ、別に……」
 ベッドの縁に背を預けて、柄咲は苦笑気味に笑った。
 けどやっぱ、何でアイスなんだ……?
 おそらく、『だって、アイス余っちゃってて勿体無いじゃない?』といったところだろう。
 若作りとはいえ 母も主婦だということか……。


 夕焼けが過ぎて、夜空の藍色がたゆたう時間ような時間となっても、雨は全く止む気配を見せなかった。
 それどころか強い風がびゅうびゅうと吹いている。
「……どうする?」
 未羅に訊ねる柄咲。
「うん……どうしよう?」
 あんまり困ったようには見えない未羅。
 いつもの天然ボケっぷりの所為であまり目立たないが、こうやって黙っていると、本当に未羅は無表情だ。
 見るヤツ次第では、クール・ビューティー(すました美しさ)という見方もできるかもしれない。
 柄咲は一旦階下へと降りて、リビングでテレビを見ていた父親に訊ねる。
「なあ、エレカって使えたか?」
 エレカ、とはいわゆる電気自動車の事だ。
 化石資源枯渇問題がいよいよ深刻となりはじめた2020年代半ばから採用された型の車で、これの登場により、現在ではガソリンで走る車は高嶺の花、一部のパワーを必要とする車種だけに採用される傾向にある。
「いや……今は使えんな。この前事故って修理に出してるし」
「そう……って、事故?」
「大丈夫だ。保険が下りたから。」
 そういう問題じゃないだろ……
 しかし都合の悪い時に壊れる車だ。
 そう思わずにはいられなかった。
「じゃあ、いいや」
 言って、再び階上へ。
 自室に入って、未羅に言う。
「未羅ぁ、ウチの車使えねーみたいだけど……どうする?」
「うん……どうしようか」
「傘、貸そうか?……って言っても……お前の家ってここから遠いのか?」
「うん、駅行って、158分くらい歩いたあたり。駅からのバスなら10分くらいかな?」
「……そう」
 やっぱり遠いんじゃないか、家。
(じゃあこいつ……何しに俺の家に来たんだろ……)
「ねぇ、柄咲」
「何だ?」
「電話、使わせてくれるかな?」
「ああ、いいけど。電話くらい……。でも、どうするんだ?」
「家に電話する。お父さんに迎えに来てもらえるかもしれないから」
「え?……でもさ、親父サン、仕事は?」
「大丈夫。お父さん帰るの大抵早いし、それにお仕事してる場所、ボクの家から近いから」
「……ふぅん」
 影のように、脳裏を掠める疑問。
「母親の方は、やっぱり仕事か?」
「……ううん」
 ふるふる、と首を横に振る。
「死んじゃった。昔……」
「あ……そう、か……」
 悪い事訊いた……


「電話、どこ?」
 すっ、と立ち上がる未羅。
「電話……一階にしかないからな」
「うん、分かった」
 なんとなく決まりの悪い気分で、柄咲はベッドに寝転がった。
 数分して、とん、とん、と階段を叩く音。
 柄咲が起き上がると、ちょうど未羅が部屋に戻った所だった。
「なんだって?」
「電話通じなかった」
「そっか、それじゃあもう暫くウチでゆっくりしてけよ」
「うん、ありがと」
 再び、未羅はクッションの上に腰を下ろす。
 宙をさ迷うようにしていた視線が、ふと、マンガの単行本が入った本棚に留まった。
「……マンガ、っていったよね、これ」
「マンガを見た事ないのか、お前は」
「無い」
 未羅は、じーっ、と、連なるマンガの背表紙を眺めている。
「柄咲」
「何だ」
「これ、見ていい?」
「……どうぞ」
「ありがと」
 手頃な場所にあったらしい一冊を取り出して、マンガを読み始める未羅。
 暫し、無言になる。
 窓の向こうの空は、薄暗い灰色。
 雨は……まだ、止みそうにない。
「……」
 今……何時なんだろうな……。
 時計が示す時間は、5時40分。
 まだそんなもんなんだな。
 とはいえ、未羅は昼飯の後にウチに来たわけだから、それでも四時間。
(よく間が持ったもんだ。我ながら)
「柄咲」
 不意に、思索の泡の中から引っ張り出される。
「……何だ?」
「おもしろい、これ」
 無表情なのは変わらないが、いつもの能面のような無表情に比べると、いくらか柔らかい感じがする。
「絵本よりは面白いだろ」
「絵本もおもしろいよ」
 未羅の即答が返ってくる。といっても2秒くらいの間をおいて。
「マンガも面白いけど」
「……そうか」
 それきり、未羅は再び喋らなくなる。
 マンガを読む事に集中しているのだろう。
「ねぇ、柄咲」
「……?」
「これ、面白いよ」
「……そう」
「柄咲は面白くない?」
「まあ、それなりには面白いだろうけど……」
 俺は……何時から……
「改めて面白いっていうようなモンでもないしな」
「そうなんだ」
 納得したのか納得してないのか、
「すごく面白いのに」
「そりゃ、今までマンガ読んだ事無いヤツだったら……そうなんだろうけどさ」
「ふぅん……」
 三度、マンガに視線を落とす。
「柄咲、なんか可哀想」
「はぁ?」
 思わず声を上げる柄咲。
「何でそうなるんだ?」
「なんとなく」
 なんとなく……。
「柄咲は……どんなのが面白いの?」
「どんな……って」
 何を訊くんだよ、こいつ……
「わかんねぇよ、そんなの」
「……そう」


 雨の中、一台のタクシーがその場所の前で止まった。
 真っ先に降りたのは、クリストファー・新條。続いて冴木が降りる。
「必要でしたら迎えをやりましたが」
「いやいや、今日はプライベートだからな」
 折りたたみ式の傘をさして、その場所の敷地内へ歩いて行く。


    『テクニカル ライフ ルーツ日本支社 HA中央総合研究開発所』

「クリス!」
 真っ先に声を上げて駆け寄ってきたのは、30代半ばほどの日本人男性だった。
「やぁ、シンジ」
 気さくに手を振る新條。
「久しぶりじゃないかクリス……2年振りだぞ」
「ははは……もうそんなになるのか」
 不意に真面目な表情に戻って、クリスは訊ねた。
「で……『フェミニ』の方はどうなってるんだ?」
「………………」
 一転、月沢は苦い表情で沈黙する。
「まだ……なのか?」
「……ああ」
「大口の株主会議では五月蝿(うるさ)くてな。重役からも苦情が多いんだ……なにぶん極秘扱いだからな」
「研究成果は……ある程度還元しているはずだが……」
「それは判ってるが……早いところ、モノにならないのか?『フェミニ』は……」
「いや……」
 言葉を濁す月沢。
「……」
 新條は大きな溜息を落とした。
「君の気持ちは分かるけどな……プロジェクト『フェミニティ』は死者復活の儀式じゃないんだぜ」
 月沢の表情を見据えて、続ける。
「一作目を早いところモノにしてくれ。そうしたら株主連中も納得するし、利益が出せれば研究資金だって増やせるんだ」
「分かってはいる」
「嘘を吐け。そう言って、既に二千万ドル近くも使いこんでいるじゃないか」
「……」
「君とは親友のつもりだけどね、シンジ……。こいつは社長命令だ。早急に『フェミニ』を完成させてくれ」


 ふと気がつけば、未羅の視線はマンガを外れてある一点を見つめていた。
「? ……どうした」
「あれ、ボクの」
 未羅の視線の先にあったのは、柄咲の机。その卓上……。
「? ……」
 ああ、そうか……。
「お前が喫茶店に忘れてった十字架か?」
「うん」
 すっ、と立ち上がって、柄咲の机に近づく。
 十字架のネックレスを手にとって、首から下げる。
「もっと早くに返せば良かったな」
「ううん」
 ふるふる、と首を振って、
「ありがと、無くさないでおいてくれて」
「いや……」
 礼を言われるような事じゃ……無いぞ。別に。
 ……コンコン……
 ノックする音に遅れて、美咲が部屋の扉を開いて中を覗き込むようにして言う。
「ねぇ、未羅ちゃん、これから晩御飯食べるんだけど……ついでだから食べていかない?」
「えっと……」
 逡巡するような間。
「もう一回電話して、訊いてみます」
 言って、再び階下へ降りる未羅。
 理由は無いが、未羅に続く形でなんとなく階下に下りる柄咲。
「……あ、お父さん?うん、未羅だよ」
 コードレスの受話器を耳に当てて、話している。
 相手は、以前何度かゲーセンで会った、あの風変わりな親父だろう。
「うん、夕御飯ごちそうしてくれるって言うんだけど……うん、うん……分かった。
じゃあ、8時に迎えに来てくれるんだね。うん、分かった。ばいばい、お父さん」
 受話器を置くと、丁度二階から降りてきた美咲に恐る恐る、といった風で尋ねる。
「夕御飯……ごちそうになっていいですか?」
「大歓迎よ」
 たおやかに笑って、美咲は言った。


 夕飯はカレーだった。
「柄咲」
「何だよ」
 スプーンを運ぶ手を止めて、訊ねる柄咲。
「このカレー、おいしいね」
 ……………………
「そうか、口にあってよかったじゃん」
「お父さんも、料理が上手なんだよ」
「……お前の親父が?」
「うん、すっごく」
 外見からはとてもそうは見えなかったが……。
「ボク、お父さんの作るカレーが一番好き」
 こういう時の未羅は、ある意味で愚かなくらいに素直だ。
 きっと、仲のいい親子なんだろう。
「でも、おばさんの作ったカレーもすごくおいしいです」
「あら、ありがとう」
 いつものように、美咲はやんわりと笑う。
「いやあ、僕は君の作る御飯が一番だと思うがねぇ」
「あら、あなたってばぁ♪」
「ははははは」
「……また始まったよ……」
「何が?」
 げんなりした表情の柄咲に、未羅が尋ねる。
「万年新婚夫婦の夫婦劇が、だ。さっさと飯食っちまおうぜ。ああなると最低30分は周囲が目に入らないからな」
「そうなの?」
「そうなんだ」
「わかった」
 スプーンを口に運ぶスピードを、素直に早める未羅。
 ほどなくして……
「ごちそうさま」
「……食うの早いな。お前……」
 少し遅れて、柄咲もカレーを平らげた。
 時計は、丁度七時を示していた。


       ……ピンポーン……
 八時丁度に、インターフォンが鳴った。
「お前の親父かな」
「多分」
 そんな会話をよそに、美咲が応対のために玄関に向かう。
「……未羅ちゃん、お父さんよ」
 美咲の声を聞くやいなや、すっ、と立ち上がる未羅。
「じゃあ、気をつけてな」
「何に?」
「何に……って」
 改めて問われると、とっさに答えられない。
「いろいろと」
「……柄咲」
「何だ?」
「ありがと」
 自然過ぎるくらいに自然に流れる、言葉。
「本当にありがと」
「? ……」
「楽しかった。今日……。柄咲の家に来れてよかった」
「こんな場所でよかったんだったら、また来いよ」
「ありがと」
 不意に、笑う。ちょっと不自然な気もする笑顔。
 ただ、たったそれだけの事が、彼女を随分と彩って見せた。
 とりあえず、玄関先まで送って行って、
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
 そう言って、その日は別れた。

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