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【小説】草も枯れたのに

幸せが満ち溢れていた蜜柑畑を抜けると、自然は途端に寂れてしまった。木々は薬害でも受けたかのようにひょろりとしており、地面には虫喰い穴のない枯れ葉が散在している。生の気配は何一つない。死んでしまった場所のようだ。道をずんずんと進む。舗装なんかされていない、白けた道だ。道は曲がっており、山の斜面のせいで蜜柑畑は直ぐに見えなくなった。森の中にも関わらず視界の前方は開けているのに、どんなに遠くにも特別なものは見えなかった。

 まさかこんな所まで離婚届が追ってきやしないだろうなと、私は苦笑した。伝書鳩が届けにくるだろうか。いやそんな事はあるまい。鳩だって、こんなに何もない所は嫌うだろう。餌だってないのだ。ここに来られるのは、私ただ一人だ。

 旅館から散歩に出て、随分と歩いてしまった。ここまで来るのに、もう何時間要したのだろう。分からない。カバンは持っていない。コートには何も入っていない。この白いコートは、誰から貰ったものだったっけ。

 恐らくもう、戻れない。日の傾きが私にそう教える。ああ、こんな所でゲームオーバーか。しょうもないミスで。そんな事もあるものかなあ。人間の生は案外しょぼくれたものなのかもしれない。

 悲しものあまりとか、絶望してとか、そんなのは全部嘘で、本当はみんな、ちょっとばかし間違えてしまっただけなんじゃないか。それでこんな風に、どうしようもなくなって、仕方ないから死んじゃうだけなんじゃないか。そんな風に思った。死に道具さえ、1つとして持っていない私は、どうしたらいいだろう。


 ふと、遠くの方に、植物が見えた。茶色い植物だ。茂っていて、そこで道は止まっている。そちらへ、とにかく進む。すると、白い大きなものが置いてあるのも分かった。いや、あれは鳥のようだ。鳩? 鳩ではない。白くて大きいのだから。

 それは、白鳥だった。白鳥は燻んでいた。そして生きていなかった。白鳥の、ボートだったのだ。そこは沼だった。道の終着地は沼で、白鳥のボートがあって、枯あしがたくさん生えていた。私はボートをしげしげと見詰める。どうやら、壊れている所は無さそうだ。乗ってみる。簡単に乗れた。2人乗りだが、ここには1人しかいない。ここは、この世のだいぶ離れにあるのだ。

 私はボートを漕ぐ。あしは、ボートを漕げるだけの道を作ってくれていた。最近まで誰かがこれで遊んでいたのだろうか。私は、その水上の道を漕ぐ。その道が、くるくるとしている事は直ぐに分かった。行っても行っても戻ってくる。もう旅館には戻る事が出来ない。私は沼地で円周を描き続ける。もう脱出できない、位置エネルギー曲面の谷間をくるくると回り続ける。

 沼の下では、枯れた蘆根よしねが未だにどうしようもないほど絡み合っているだろう。

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