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【小説】エスカレーターの擦過傷

 荷物を1つも持たずに、両親のもういない故郷まで帰ってきた。行く当てのない私は、駅から少し歩いて、懐かしいスーパーまで歩いた。思い出の場所だ。友達なんていやしなかったし、両親は共働きだった私にとって、土曜日に訪れるこの場所が、生きる意味だったのだ。生きるとは楽しむ事だと、そう私に教えたのは、資本主義の作ったこのアミューズメントパークだった。そう、確かにここは、この町唯一のアミューズメントパークだった。おやつがたくさん売っていて、遊ぶ場所も広くて。無論、今見れば、それ程たくさんにも広くも見えないのだろうけれど。
 夜だから、スーパーの中に入って、懐かしむ事は出来ない。それが残念だった。せっかく帰ってきたのだから、ちょっとくらい覗いてやりたい。そう思うのが、人というものだろう。実は、私はその方法を知っている。昔と今で何も変わっていなければ、ここの非常階段は施錠されていないはずなのだ。裏手に回って、敷地に入り、非常階段のドアノブを回して、ドアを押す。セキュリティが強化されていなければいいが。鉄製のドアはキシキシと音を立てながら開いた。1人でずっと探検させられていたあの時の経験が、活きる日が来るとは。
 昔は、1階と、3階、そして屋上のドアが開けられた。3階で働く誰かが、こっそりとこの階段を使っていたのだろう。私は4階まで上り、そこから更に1つ上がって、屋上へのドアを開けた。わざわざ遠くまで来て、室内に籠るのは嫌だったから。

 そこにあったのは、故郷の、夜だった。
 建物の形を捉える事は出来ず、代わりに光が、私の目に押し寄せた。東京よりは随分と少ないはずのその光を、私は眩しいと思った。昔もこんなに眩しかったのだろうか。昔からこんなに、東京みたいだっただろうか。どうも、頭の中で想像していた故郷と整合性が取れない。出てきたはずの場所に戻されたような感じがして、私はげんなりしてしまった。そして何をする気も、なくなってしまった。いや。別に何か覚悟を決めて屋上に入った訳ではないのだけれど。けれども。

 文句の1つでも言いたくなるじゃないか。ここまで来るのも、苦労したのだから。いい思い出のない故郷まで、自分でも理由の分からないままふらりとやってきて。ねえ。


「そんなのいいから、遊ぼうよ!」


 声が、聞こえた。幼い少年の声だ。後ろをさっと振り向く。誰もいない。いないと、思う。確信できないのは、視線が安定しないからだ。立ちくらみかと思った。けれど、直後に違うと分かる。私が屋上に入ったドアが歪んで、遥か空に、床ごと、競り上がったからだ。思いがけない事に、呆気に取られる。しかし、そんな猶予は与えられなかった。私が立っている所は、逆に地面へと崩れ行く。私は急いで柵に掴まる。足は床から離れ、地上が近付いた。ジェットコースターの何十倍もの恐怖。しかし、私はゆっくりと、地面に下ろされた。
「捕まえたら勝ちね! 私の中に入って!」
 声が、聞こえた。私の心を理解しない、明るい声だ。目の前のドアが開いた。最初に入った、非常階段へのドアだ。見上げると、スーパーが私に覆い被さるようにひん曲がっている。私を暴力的に圧倒する、異様な光景だ。ドアに近付こうとは、思えない。身体が固まってしまっている。心は、逃げ出そうとしている。
「入らないの?」
 声は、しょんぼりと言った。可哀想に思える声だった。しかし今ばかりは、恐怖が勝る。誰? 誰なのだろう。ドアは、開いたままで、私を待っている。じっと、待っている。入ろう。そう思ったのは、私が弱い人間で、本当は他人が好きだからに違いない。
 数分使って恐怖を克服し、ドアの前まで行って、非常階段に足を踏み入れる。すると壁に穴が空いて、私はスーパーの中に入れるようになった。アミューズメントパークの中へ。入る。
 戦慄が走った。直後に頭が追いつく。目の前の全てのものが、私を捕まえようとしている! 商品が次々と飛んでくる。逃げなければ! 私は必死で、走る。訳の分からないまま、突っ込んでくるショッピングカートを、躱す。迫る壁から逃げ、盛り上がる床を踏み上がり、捕まらぬように、逃げる。
 ひたすらに、逃げる逃げる、それを繰り返すうち、気付いた。手加減されている。私が休む時間が与えられている。地下の食料品売り場で水分補給が出来るように、私は誘導されている。相手は本気じゃない。じゃあ何の為に? やばい、レジが飛んできた。逃げなければ!
「楽しい?」
 声は、楽しそうに聞く。楽しいなんて言えない。そんな能天気な事を、私は言えないのだ。けれども久々の鬼ごっこで、走って、清々しい。そんな事、口に出せるはずもないけれど。
「ばか、大人を走らせるな!」
 エスカレーターがしなるように、私の行く手を塞ごうとする。私は伏せてその下を通る。振り返ると、もう一本のエスカレーターも動いて、2本でピースサインが作られた。はあ? 何なんだこれは。そんな事をされたら、笑けてしまうじゃないか。馬鹿じゃないの。
 逃げる、逃げる、逃げる。走る、走る、走る。それだけを考えればいい、それ以外には何も存在しない時間。遊びの中の遊び。ここは、アミューズメントパーク。


   *  *  *


「捕まえられなかったあ! またね!」
「え?」

 視界があの時みたいに、ブレる。床が動いた、訳ではなかった。私はスーパーの正面玄関で、開館時間を待つ列の一番前に立っていた。直後、自動ドアが開く。店内が見える。そこに、レジやらショッピングカートやらは、1つも放り出されていない。
 私はスーパーに入る。多くの人たちに追い越されながら、ゆっくりと歩く。現実は、現実として着々と進行している事を確かめながら。つい1分前までの出来事の面影が1つもない事を確認しながら。地下へ下りるエスカレーターに辿り着く。ピースサイン。自分の左手で作ってみるが、どうにも不細工に、なってしまう。エスカレーターに乗り、地下を目指す。手すりを見る。青い手すりには、擦過傷が出来ていて、黒くザラザラとした内部が露出していた。私は、そこに左手を隠すように当てて、密着させる。
 アミューズメントパークで、おやつを買う為に、私は今、ピースサインのエスカレーターに乗っている。

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