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正信偈11 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」

正信偈 11
 
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
 
あみだの仏さまの光は私たちを照らしたり照らさなかったりする光ではありません。いつ照らすかというと、まさに今、そしてこれからもずっとです。オンオフせずに常に照らし続ける光です。この光が届いたからこそ、私たちはお助けされます。他のどの仏にも助けられなかった、永遠の闇に安住していたあなたに差し込んだ光があみだの仏さまの光です。その光によって、永遠の闇は破られました。
 
しかし、この光が届いてはいても、それにハッキリ気づけないのが私たちです。私たちの心には雲や霧がかかっています。あれが欲しいこれも欲しいの貪り(むさぼり)、すぐに腹を立てる怒り、これらが雲や霧のように、私たちを光から覆い隠しています。永遠の闇が破れて真実の光が届いても、まだその全てを一身に感じ取ることができません。心揺さぶられる話を聞いた帰り道に、渋滞に腹を立てるのが極悪人の姿です。清らかな心を一度持ったと思っても持続はしません。この身にべったりと煩悩がしがみついています。というか、この煩悩を剥がしたところには何も残りません。極悪人は煩悩そのものです。煩悩生まれ煩悩育ち、煩悩一筋〇〇年!
 
このように、煩悩によって、届いている光に気づけない身ではありますが、永遠の闇にいた頃よりは、うすぼんやりと明るくはなっているでしょう。「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」とは実に巧みな例えです。「たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るく、永遠の闇の無いようだ」と。どれだけ大雨で分厚い雲がかかった日でも、太陽が昇ってさえいれば、夜よりは明るいものであります。光のすべてを感じられなくとも、そこに光があることが分かります。同じように、この身にどれだけ煩悩がかかっていようと、それが仏の光を遮ろうとしていようと、真っ暗闇ではありません。うすぼんやりと、わずかに明るい中に、あみだの仏さまの光が届いていることを知らされていくのです。

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