見出し画像

僕にとっての自然体とは


僕は昔からカメレオン気質が強く、長いこと他人軸で生きてきたので、本音が分かりませんでした。

誰かと話しているとき、頭の中では(言葉にはならないものの)無数の選択肢が巡っています。
そのうちのどれを言うのがその場に適切かで選んでいました。
そこに自分の心は介在しません。

そんな僕にとっては、素が何かというのは難しい問題でした。


―――

素が何かに悩んでいた頃、こんな図をどこかで見かけました。

人によってキャラが変わるの図

「Aさんに対してはaの自分」
「Bさんに対してはbの自分」
「Cさんに対してはcの自分」
「Dさんに対してはdの自分」
「一人の時はeの自分」
そして、「a, b, c, d, eを全て合わせたものが自分」だと言うのです。

これはたしかにその通りだと思います。
人間はその場に合わせて多少なりとも仮面を付け替えながら生きています。
良い悪いではなくそういうもんです。

昔の僕はここから着想を得て、
全部自分なんだから、結果的にした行動が素なんだ、と思っていました。
愛想笑いをしたのなら愛想笑いをしようと思ったことが素なのだ、と。

でもこれは今では違う気がしています。
だって現に、感覚として「素を出せないなあ、、、」と感じることがあるのですから。
その「『素を出せないなあ、、、』と思うことも自分であり素だ」と言われたら、まあその通りなのかもしれませんが、でも少し納得がいきません
“机上の空論感”が否めませんよね。


それでずっと考えてきました。
「何を以って素を出したと言えるのか。」
「そして、どうやったら素の状態を出せるのか。」

長年考えた末、ひとつの結論に行き着きました。




結論をまず述べましょう。


僕が思う自然体とは、

大丈夫だと信じられた時に出せるもの」です。

より正確に言うと、
自分がし得る行動のうち、どれを選んでも大丈夫だと信じられた時に出せるもの」だと思っています。

(実際に「何をするか」は重要でないと思っています。)


少し例を出しましょう。

僕は、気持ちに波があります。そしてやりたいことや価値観も日々変わっていきます。
時に籠りたくなったり、時に甘えたくなったり、時に毒舌になったり、時にストレートに物言いたくなったり、時には不満を言いたくなったり、時に暗くなったり、時には短所を指摘してしまったり、時にヤンデレみたくなったり、時に優しかったり、時にサポートしたくなったり、時に無視したり、時に共感したり、時にふざけたくなったり、時に怒りをぶつけたくなったりします。

だけど大抵の場合は自制します。嫌われたくないからです。
相手がしてほしくないこと、人としてしちゃいけないことがある場合、そちらを優先してしまって、自分の気持ちがいつも後回しになります。
そのせいで自分の本音が沈んでいって、見えなくなるのです。


だけど、もしですよ。
もしも上に挙げた多種多様な行動のうち、どれを選んだとしても嫌われることがないと信じられる相手がいたなら、その人には自然体でいられると思いませんか?


僕には古くからの友人がいます。
その人にはだんだんと色んな側面をさらけ出せるようになって、ちょっとやそっとではもう関係が壊れることはないな、と信じることが最近はできるようになってきました。
それまでは多少なりとも相手に合わせながら接していたんですが、「自分勝手」を少しずつ出してみても、案外大丈夫だったんです。
もちろん紆余曲折ありましたよ笑。お互い若かったですから。
でも、お互いが弱い部分をさらけ出していくうちに、だんだんと見せられる顔が増えていったんです。
そして、今ではまあ何をしても大丈夫だろうと思えるようになりました。
これが自然体なんだと思います。

まあ時間がかかることではありますよね。人間関係ですから。
純粋な相性だけじゃなく時間や覚悟も必要だと思います。

でも僕がこんなにも自然体になるまで時間がかかったのは、色んな自分を見せるのが怖かっただけで、案外周りは気にしていないことが多いようです。
だから必ずしも時間がかかることでもないと思います。


***

素とは、大丈夫だと思えた時に出せるもの。

逆に言うと、相手に自然体でいてもらうには、大丈夫だと思ってもらうことが大切になってきそうですね。

僕も変に気張らず、遠回りしながらやっていくつもりです。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?