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日中戦争から太平洋戦争にかけての週刊誌「サンデー毎日」の変貌ぶりー物資の統制と国の指導でここまで変わる

 表題写真は1940(昭和15)年8月18日発行の「サンデー毎日」(右)と、1945(昭和20)年7月22日発行の「週刊毎日」で、まったく別物に見えますが、両者は同じ週刊誌として発行され続けたものです。1922(大正11)年に発刊されて発行が続いていた週刊誌「サンデー毎日」が、日中戦争下と太平洋戦争下のわずか5年で、ここまで変貌したか、収蔵品で変遷を見ていきます。

1940年8月18日号と新聞との比較

 こちらは1940(昭和15)年8月18日号。大きさは新聞の半分サイズのタブロイド判で、現在の週刊誌より大きいものでした。表紙は女優の桑野通子さんで、当時の表紙はだいたい、女性の絵で男性購読者の眼を引いていました。40ページ15銭です。ところが当時、国の情報局の国民精神引き締めの指示があったのか、女性の絵が週刊誌の表紙で急に扱われなくなります。

 1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から2か月後、日中戦争が本格化すると、政府は輸出入を軍需優先にする「輸出入品等臨時措置法」を制定し、1年後にはパルプの輸入制限で新聞12%、雑誌20%の用紙削減となります。割り当ては当初、製紙業者が担っていましたが、1940(昭和15)年9月に日本出版文化協会が設立され、協会で割り当てることに。用紙の供給制限がさらに厳しくなり、出版側に対応を求める形にしたのでしょうが、当然、政府が指導しています。手始めに、タブロイド版の週刊誌は「新体制規格版」と呼ばれるB5判に変更されます。その第一号が同年10月6日号です。

タブロイド判からB5判に変更された初回のサンデー毎日(左)

 B5判は、現在の週刊誌も受け継いでいます。10月6日号のページ数は80ページでしたが、カラー刷りは面積が半分になったことで、まずはカラー印刷のインクや印刷用の判材を削減できています。しかし、順次、ページ数の削減が進んでいきます。
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 次の大きな変化は、雑誌の改題でした。下写真の右は1943(昭和18)年1月3日・10日合併号の「サンデー毎日」。左は同年3月21日の「週刊毎日」。題名が違っているだけで、同じ週刊誌です。サンデー毎日は同年1月31日を最後とし、2月7日から週刊毎日に改題しました。

1943年2月から改題。ちなみに3月21日号は40ページに半減しています

 ほかの英米語を使った雑誌もこの時期、軒並み改題します。きっかけは、1943(昭和18)年1月13日に内務省、情報局が行った英米楽曲演奏禁止リストの公表でした。ジャズなど、約1000曲が敵性音楽として対象となりました。1940年の外国語かぶれの看板追放などはあっても雑誌は題名を変えていませんでしたが、この時は足並みをそろえて改題に走ります。政府に用紙割り当てと検閲で縛られていて、1943(昭和18)年2月18日には国家総動員法に基づく出版事業令が制定されて雑誌の統合整理が推し進められる情勢になっていました。出版界は政府の意思を忖度し、保身に走ったのでしょう。

 週刊毎日はなんとか生き残りますが、戦況悪化はさらにこの雑誌の様相を変えていきます。下写真、右は1943(昭和18)年11月7日号、左は1944(昭和19)年8月20日号です。

色彩が消えていきます

 見ての通り、表紙の色が1944年には2色刷りになってます。ページ数も、1943年11月7日号の32ページから、1944年は8月20日号は24ページと減少しています。そして、1945(昭和20)年には黒一色の表紙(下写真参照)になっています。ページ数も20ページに減り、値段は上がって20銭に。

黒一色刷りまで来た1945年4月15日号(左)

 下写真、右の1945(昭和20)年5月13日号は、表紙絵が題字下の1段だけに。横長の絵柄に縛られて、どんな表紙が続いたのか、興味惹かれます。

ページ数減も限界に来て表紙絵スペースが減少

 そしてこの5月13日号、とうとう16ページに減っています。雑誌としては限界で、表紙絵の変更も16ページになったが所以でしょう。規制に縛られつつ、生き残りにきゅうきゅうとしてきた成れの果てです。
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 一方、この5月13日号表紙のコラム「真相とは何か」は、石川達三の手による厳しい内容で「吾々は(略)沖縄の陸軍部隊の数字を知りたいのでもなく、沈められた軍艦の名前を知りたいのでもない。(略)将来を知りたいのだ。希望を持ちたいのだ」―とし、政府や大本営の発表を突いています。

コラム「真相とは何か」

 石川はルポ風の日中戦争の小説「生きている兵隊」を発表し、発禁処分、有罪となった人です。検閲やさまざまに縛られた中での精一杯の反抗を、薄くなった本のこのコラムに感じます。戦時下、そして戦争に突入する前段階は、冷静な論議もそれを出す場も潰されることに、現代のきな臭さの源流を感じます。本の変貌が残した伝言とともに、しっかり受け止めます。

1940年8月18日号(右)と1945年7月22日号。同じ週刊誌です。


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