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日本では国債購入より貯蓄に熱心、という特性を戦費調達にも活用ー金融機関が国債を買い入れて有利な貯金で資金回収

 戦費を調達するために発行される国債ですが、元金の償還が10年以上先になるという性格上、日々のやりくりを常に気にしなければならない庶民にとっては、貯蓄のほうが手軽であったというのは、間違いないところです。
 そこで、各金融機関が国債を買い入れ、その分、できるだけ長期の貯蓄商品を発案して貯蓄受入額を伸ばす形で、間接的に国債を消化することも盛んに行われました。政府も貯蓄目標額を掲げて後押しをします。
 長野県も日中戦争が始まった翌年の1938(昭和13)年には、80億円という国の貯蓄目標額を掲げ、戦費確保のため「貯蓄報国」「実行は貯蓄組合で」「貯蓄は身のため国のため」などとしたチラシを作って貯蓄を呼びかけています。

貯蓄報国を呼びかける長野県のチラシ

 下写真は、1939(昭和14)年度の新たな貯蓄目標額を「一億一心百億貯蓄」のスローガンで掲げた長野県の八十二銀行の営業案内と、個人では続けにくい貯蓄を周囲の同調圧力も計算に入れた「貯蓄組合」の結成で続けることを呼びかける大蔵省と日本勧業銀行のステッカーです。八十二銀行も営業案内で、貯蓄組合結成支援策などを提示していました。

八十二銀行の1939年度の営業案内(右)と貯蓄組合結成を促すステッカー

 郵便局でも、1940(昭和15)年の郵便貯金法改正で預入限度額が3000円となったのを機に「集団貯金」を実施し、満期になった貯蓄組合からの乗り換えを勧めるなどしています(実績を伸ばすためか)。また、長く預けるほど有利な「定額郵便貯金」を1941(昭和16)年10月から商品化し、これなどは戦後から現在までも存続しています。

隣組の替え歌も作って「集団貯金」の売り込み
定額郵便貯金のチラシ

 各金融機関でも、新商品を次々と発売しています。日中戦争当時、長野県にあった信州銀行は、内容を示さず「最も有利な」とした「愛国貯金」を始めました。1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まると貯蓄目標もぐんと上がります。現在の長野県伊那市にあったとみられる伊那郵便局では1943(昭和18)年4月「米英撃滅簡易保険一億新加入運動」に取り組んでいるので足を運んで説明させてもらうと連絡、協力を求めています。

長野県伊那郵便局が担当地区の常会などに宛てたチラシ

 1943(昭和18)年度の貯蓄目標は270億円に引き上げられていて、長野県東内村(現・上田市)産業組合は同年4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、5月29日にアッツ島守備の山崎部隊が太平洋戦争で初めて玉砕(全滅)したことを引き合いに(山本五十六戦死は5月22日、アッツ島玉砕は5月31日に新聞報道)、満期受取金が56円の倍数になる「五十六定額貯金」を新商品とし「私共は今こそ『貯蓄は国民の義務である』という考えに徴し、一人残らず各自の負担力に応じて力一杯の貯蓄を致そうではないか、これこそ山本精神を生かし山崎部隊に続く所以であり大東亜戦必勝の鍵である」と呼びかけます。

「いよいよ決戦貯蓄!」と煽る東内村産業組合のチラシ

 八十二銀行も1944(昭和19)年9月には、飛行機増産の国策にちなんで新設した「荒鷲貯金」を「八十二銀行貯蓄推進隊」によって売り込みます。チラシには「攻勢転換を一刻も早く!!」と、切迫感がにじみ出ています。
 また、金融機関は預入満期の定期預金を引き続き預けるよう促す手紙を出したり、大政翼賛会長野県支部や松本市は1945(昭和20)年3月に「年度末手持現金貯蓄運動」を行って隣組単位で出すよう、指導しています。

八十二銀行の「荒鷲貯金」チラシ。紙質も低下。
預入継続を求める安田銀行岡谷支店(長野県岡谷市)のDM
長野県松本市の手持現金貯蓄運動チラシ。「特攻隊の意気持って」と説得に利用

 いくら現金を貯蓄させたところで、人手も原料も不足する中、思ったような生産が進んだわけではなかったでしょう。
 一方で、貯蓄目標はおおむね達成されていて、ハイパーインフレを避けるための、市場に流れだす現金の総量を抑えることにはある程度成功しています。ただ、それ以上に物不足は深刻で、公定価格と乖離した闇値が横行したり、現金より信用できるとして物々交換が行われたり、経済は実質的に破綻寸前の状態でした。
 そして戦後、預金封鎖や新円切り替えなどで膨張した現金を抑え込む経済再生策で、戦時中の債券や預金は価値を失っていくのです。

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