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信州戦争資料センターの原点は、2度の空襲にさらされた父の体験

 わたしの父親は1929(昭和4)年、昭和恐慌の年の生まれです。まさに戦争の時代の中で成長していったのですが、生前、戦争体験は断片的にしか聞いておらず、亡くなるしばらく前になって、やっと自分も興味を持って尋ね、その時代の話を聞くことができました。せっかくの記憶が消えるのは惜しいので、できる限り思い出して書きます。写真は三重県宇治山田市(現・伊勢市)の戦災地図(部分)です。のちに話が出てきますので、しばらくお付き合いを。
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 もともと大阪にいた父は、母親を室戸台風1934(昭和9)年9月の影響で亡くし、父親、きょうだいとともに、ジャムパンを抱えて電車に乗って、三重県の志摩に引っ越します。重湯が主食という貧困の中で成長し、本格的な戦争の時代を迎えます。
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 日中戦争で、新聞に「〇〇占領」という見出しが載ります。ところが、何回も同じ地名が登場する。「これはおかしい」と子供心に感じたといいます。そして1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まった日。11歳の父は世界地図を広げ「これは負ける」と口走ったところ、父親から「何を言うか」と殴られました。
 戦局が父の直感した通り悪化していた1944(昭和19)年春、国民学校高等科を卒業した父は、翌日に三重県津市の「津海軍工廠」(高茶屋海軍工廠)へ働きに出ます。「1日でもゆっくりしていけ」という父親の声を振り切って。海軍工廠に行ったのは、父なりの考えがありました。「海軍の工場で働いていれば、戦争に取られるのは最後の方になるだろう」と。工廠では、部品の洗浄など、下働きに従事していました。
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 そんな折、東京の中島飛行機武蔵製作所の工員募集がありました。一時金として200円がもらえると聞き、希望。「お金がほしかった」のが理由でした。しかし、現地についてみると、200円という約束が、支度金や手配料などさまざまな名目で差し引かれ、わずかな金額しか残らなかったとのこと。「ああ、世の中、こんなふうにできているんだな」と、だまされた悔しさがこみ上げます。それでも、なんとか20円を工面して父親に送金します。兄たちがろくに送金しない中、大変喜ばれたといいます。
 そして1944年11月24日。B29による最初の東京空襲に遭遇します。3-4階になっている巨大な工場を貫いて爆弾が降ってきます。手近の作業台の下に潜り込んだところ、すぐそばに、コンクリートの大きな塊が落ちてきました。激しい爆裂音の響く工場の中を見渡すと、海軍の兵士が伝令に走っていくのが見えました。「ああ、勇敢だ」と印象付けられたようです。
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 空襲ののち、津海軍工廠に戻りますが、一時大阪にも行ったようです。雷電など海軍機の操縦席に乗り、操縦桿を「動かしたこともある」とか。また、車輪が出ないまま胴体着陸する様子も目撃しています。
 終戦間近。病に臥せっていた父親のいる実家へ行きます。父親は「お前の言った通りやったな」と、開戦の日のことをわびました。外では、グラマンとゼロ戦の空中戦の銃撃音が響いていたといいます。
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 間もなく父親が亡くなり、志摩の家の整理をして、宇治山田市(現・伊勢市)のアパートに移ります。それが1945(昭和20)年7月28日です。その夜、津市がB29約40機に空襲されます。「(宇治)山田も明日くらいか」と人々は心配していました。
 日付が変わった29日午前0時半ごろ。94機のB29が宇治山田市に侵入、焼夷弾の雨を降らせます。宇治山田市には横浜ゴムの工場があり、この工場が主目標で、合わせて市街地が激しくやられます。約1時間の空襲により、焼失家屋4859戸、死者75人。宇治山田市の60%が被害に遭います。父は、1冊のアルバムだけを手に必死に逃げます。幸い命は無事でしたが、運んだばかりの家財は全焼してしまいました。そして、終戦を迎えます。
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 戦後の父は、どんな道を歩いたのでしょうか。残念ながら、わたしが聞いた話は身内からの伝聞を含め、この程度です。一時、兄の養子先で居候をしていたこともあるようですが、2人の兄はいずれも戦死。その後独立した父は結婚して子を育て、兄の墓を作り、2006年4月、この世を去りました。
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 わたしの実家には、古い「丸」や「画報戦記」、「連合艦隊の最期」などの戦争関連の本がたくさんあり、わたしも黴臭くなったそれらの本を読みふけりました。父は戦争映画も好きで、「トラトラトラ」「空軍大戦略」「大脱走」「ミッドウェー」など、たくさんの映画をわたしたち家族も連れて見に行きました。今にして思うと、当時の戦争映画でもドキュメンタリー風で脚色の少ないものを選んで見に行っていたようです。
 大量の本も含め、父は、あの戦争とはなんだったのか、自分なりに知りたかったのではないかと思うのです。決して声高に叫ぶことはなかったが、ずっといろんな思いを秘めていたと、今ならわかる気がします。もっと知っておきたかった。そんな後悔が、今の活動の力になっています。

※参考文献「記録が語る 伊勢市の災害」(荒木駿)

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