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日中戦争への緊張感持続に「興亜奉公日」制定、太平洋戦争後は「大詔奉戴日」にー頼りは臣民の従順さ

 1937(昭和12)年7月の日中戦争開戦間もなく、政府は「国民精神総動員運動」を呼びかけて、前線にいる兵士だけではなく、臣民全員が戦争への後方からの支援を精神的に行わせ、市町村では廃品回収などの行事も行っていました。
 しかし、日中戦争も1939(昭和14)年に入ると、前年までに南京や徐州、武漢三鎮など、押さえるべきところは押さえたものの、蒋介石政権は重慶で徹底抗戦の構えを崩さず、さりとて日本軍にも、そこまで兵を進める力はないという、膠着状態となっていました。また、ここまでの長期の戦闘で国内のストックも減り、物不足も目に見えてきていました。
 平沼喜一郎内閣は同年8月8日、日中戦争が終わるまで毎月1日を「興亜奉公日」とすることを、閣議で決定します。前線にあらためて思いを寄せ、生活の自粛などを積極的に行うなど国民精神総動員運動を一歩進め、戦争への協力意識を確認させる狙いがありました。

長野県永明村(現・茅野市)役場の通知
永明村の通知に掲載された趣旨

 長野県永明村が出した通知では、政府が「公私生活を刷新し戦時体制化する」ために興亜奉公日の設定が決まったとし、後半では興亜奉公日に取り組む内容を掲げています。

神社参拝、特に緊張して働く、禁酒などを掲げています。

 平沼内閣はこの年の3月に国民精神総動員委員会を発足させていて、国民精神総動員運動を官民一体のものとして再構築し、新展開を図ろうとしたのでした。
 一方、運動を進めようとした平沼内閣は1939年8月28日、独ソ不可侵条約締結の衝撃で総辞職したため、平沼首相は首相として興亜奉公日を迎えることなく、次の阿部信行首相が「一汁一菜の食事」の様子を報道されるなどしています。

大政翼賛会も興亜奉公日を利用

 上写真のポスターは1940(昭和15)年に発足した大政翼賛会が、各地に末端組織の隣組が整備された頃合いを見計らって1941(昭和16)年6月に作ったポスターです。興亜奉公日に合わせて日本中で隣組の常会を行い、無駄を省いて強く明るくと呼びかけています。
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 1941(昭和16)年12月8日(日本時間)、大日本帝国は日中戦争を継続したまま太平洋戦争に突入します。日中戦争は実態が戦争なので現代では使っていますが、当時は「戦争」と宣言すると軍需物資の禁輸をされるからと、あくまで宣戦布告なしの「日支事変」としていました。
 しかし、今度は天皇から宣戦布告の「大詔」が出ましたので「大東亜戦争」と命名。ちなみに、海軍は太平洋戦争を主張しましたが、陸軍が仮想敵であるソ連の参戦可能性も考慮して大東亜戦争を推して決まり、その名称を地理的な意味ではないプロパガンダにも役立てました。
 (中の人は、大東亜戦争は地理的にあいまいでありプロパガンダにも使われること、あくまで太平洋戦域におけるアメリカとの戦闘であったことから、太平洋戦争の呼称を使用しています)
 そこで東条内閣は、従来の「興亜奉公日」をより格上の「大詔奉戴日」に切り替え、実施日も1日から開戦の日の8日に変更します。

1942年1月2日の閣議で大詔奉戴日を決めたと伝える翌日の読売新聞

 各新聞社では、大詔奉戴日の一面に宣戦の大詔を掲載し、臣民にしっかり読むことを求めます。

大詔奉戴日を迎えた1942年1月8日朝日新聞
フリガナも丁寧に
掲載理由なども説明。

 毎月8日の新聞紙面がこれだけ埋められることは、新聞として伝える情報が減ることを意味しますが、全国の新聞が足並みをそろえ、戦争が終わるまでは政府の広報機関としての役割も存分に果たさねばとなっていたのでしょう。例えば、中京地方を中心に大損害があった東南海地震は、内務省の報道の極点な差し止めにもあいましたが、翌日が大詔奉戴日と重なっていたので1面には大詔と開戦4周年の写真や記事が主に。

1944年12月8日の毎日新聞。大詔と天皇の写真が上位で、レイテの戦況報道も脇に。
東南海地震の報道はこれだけ。

 大詔奉戴日は、太平洋戦争が敗戦で終わり、自然消滅しました。そして、既に大詔奉戴日が人々に質素な生活を訴えたころは、もはや贅沢なことができるのは一部特権階級だけになっていて、わざわざ言われても形式的な行事に流れざるを得ないのが実態でした。

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