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私は戦争遺族ですが、靖国には行きませんー故郷の空の下でゆっくりしてほしい

 信州戦争資料センターの中の人は、叔父2人を戦争で亡くしています。いずれも父の兄で、それぞれ26歳、23歳という若さでの戦死です。
 しかし、一人は大陸で、一人は南方で亡くなったという以外に何もわからなかったので、軍歴照明を手間をかけて集め、ようやく経過が分かりました。少しだけ、叔父たちの供養の意味を込めて、ここに記録させていただきます。
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 上の叔父は1918(大正7)年の生まれで、1944年4月20日、26歳で応召され、京都で編成した第53師団輜重兵第53連隊補充隊に入ります。第53師団は当時、南方軍予備としてサイゴンやシンガポールにいたことから、その方面に出る予定だったと思います。が、8月26日、関東軍を上部組織とする第17方面軍の独立自動車第82連隊へ転属。その後、拠点だった朝鮮の全州(チョンジュ)で終戦を迎えたとみられます。
 ところが、復員とはならず、1946年8月21日、奉天で戦死となっています。二階級特進となっていました。国共内戦に巻き込まれたか、戦病死か、そこまでは分かりません。
 ちなみに陸軍関係の軍歴照明は所在地の都道府県が管理していますが、敗戦直後の書類焼却命令もあり、中の人の調べた県では6割程度しか確認できないと言われました。ですので、ここまで分かっただけでも幸運でした。それにしても、どんな状況で亡くなったか、やはり知りたい思いは残っています。
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 下の叔父は、1923(大正12)年生まれ。国民学校初等科卒業で工場で働き始め、仕上げ工までなっていましたが、1944(昭和19)年2月15日、20歳で呉海兵団に入隊し衛生兵に。岩国の海軍病院などを経て、同年12月15日、南方のスラバヤに駐留していた第21特別根拠地隊に配属されます。そして1945(昭和20)年5月25日、掃海特務艇第105号に乗り組んでいたところ、ジャワ島中部北岸でイギリスの潜水艦トレンチャントの雷撃を受けます。 

掃海特務艇105号は水線長35mほどの小船で、護送任務にあたっていたのでしょうか。たまらず沈没します。叔父は「行方不明により戦死認定」とされました。自宅に帰ってきたのは、紙一枚でした。

 中の人の叔父二人は、こうして異国で亡くなりました。中の人の父、つまり叔父らの弟も国内で軍需工場や市街地の空襲で命を落としかけたことは、以前、伝えさえせていただいた通りです。

日本軍が展開していた付近。もっと東にも展開する広大な戦場でした。

 その父は戦後、苦労して家庭を持ち、叔父の墓も作りました。当時は何も遺族に知らされておらず、詳細不明のため「レイテ沖で戦死」と墓碑には刻まれていました。家の墓とは別に特別に作ったもので、それをお盆のお墓参りにはいつも水をかけ、線香を立て、冥福をお祈りしていました。戦争を肌で感じていたのは、このころからかもしれません。
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 少なくとも下の叔父は靖国神社に合祀されていますが、父は一度も行ったことがありませんでした。自分も一度も行っていないし、お墓で供養しているので、これからも行くことはないでしょう。

 靖国神社で神となったという思いを頼りにするご遺族が参拝されるのは、もちろん当然のことでしょう。そのお気持ちも、よく理解できますし、そのことを批判するようなことは絶対できませんし、することもありません。

 ただ、靖国神社が西南戦争などで官軍兵士の戦死者を祀るためにつくられ、戦争を動かすシステムの一つに組み込まれていった過去…。人間、そう簡単に死ぬことを受け入れられるものではない、それを和らげるシステムであった場所には、行きたくないのです。
 中の人は、遺族ではあるけれども、靖国神社で心を和らげることはできないのです。叔父たちも、故郷の空の下にいるほうが、ずっと心地よいのではないかと信じています。

 日本の戦争がすべて外征戦争であったこと、政府や軍の都合で戦争を敗戦まで国家の拡大に利用し続けたこと、その犠牲を正当化するためにあった靖国神社を肯定することは、自分にはできないのです。
 以上は、あくまで、中の人の個人的な思いです。しかし、政府が靖国神社を特別扱いするような事態には、明確に反対の立場を取っていくつもりです。

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