【書評】『これからの働き方を哲学する』 小川仁志(著)

哲学は、常識や思い込みを疑うことを得意とする。

改革や脱構造は既存の枠組みを取り払うことから始まるから、「働き方改革」や「脱社畜」といったムーブメントと、哲学という学問は非常に相性がいい。

似たようなタイトルで『働くことの哲学』『働き方の哲学』という本も出ていて、そちらも是非おススメしたいところであるが、今日は、先月出版されたばかりの『これからの働き方を哲学する』 小川仁志(著)にフォーカスを当ててみたい。

分かりやすい話・文章に定評のある小川氏であるが、本書も例に漏れず、誰が読んでも分かる内容に仕上がっている。読みやすさ故に物足りない感があるのは否めないが、幅広い読者を想定した書籍に過度の刺激を求めるのは無粋である。

総じて良書で手軽に読めるので、今の働き方に疑問を持っている人は読んでみて損はないだろう。

特別視しない、という労働観

京大 ⇒ 伊藤忠 ⇒ フリーター(ほぼひきニート) ⇒ 市役所職員 ⇒ 哲学者という異色のキャリアが目を引く小川氏が、マルクス、ヘーゲル、アーレント、ホッファー、二宮尊徳らの労働観と比して、自らの労働観として提示するのが「労働を特別視しない」という考え方だ。

働くことは、ご飯を食べる、人と話す、ぼけっとする、スポーツをする、寝る…といった人間の営みの一つに過ぎないと言う。

「何故、労働だけが特別扱いされなくてはいけないのか?」というのが筆者の根本的な問いである。

言われてみればそうだ。

確かに、僕らは労働を特別視し過ぎる。食べることや寝ることは、生命活動を維持するうえでは働くこと以上に大切なはずなのに、それらの営みは労働ほど重要視されることはない。

仕事という枠組みの中では何故か大抵の理不尽は許容されてしまうし、定職に就かずにブラブラしていれば落伍者と見做される。自己紹介をする時はまず所属組織(大抵の場合は会社)を名乗る。就職活動に失敗すれば、アイデンティティは崩壊の危機に陥る。

労働には契約と報酬と責任が生じるからとか、社会の維持に密接に結びついているからとか、労働が特別視される理由は色々挙げられるだろうけど、誰もがこの労働の異常な特別扱いに違和感を覚えている。

仕事は本当に人生の王様なのだろうか、と。

プラスチックワード化する「働き方改革」

社会学には、プラスチックワードと言う用語がある。

ドイツ人学者が提唱した「人工的でプラスチックのようにさまざまに形と色を変えて現れ、意味ありげで内容は空疎だが時代に流通している言葉」のことを指す。

「働き方改革」はその典型だろう。誰も異論は挟むまい。定義できない空虚な言葉のくせに、やたらあちこちに流通している。

働き方改革が、空虚な言葉になってしまう理由の一つについて、小川氏は非常にわかりやすいフレームを提示してくれている。

働き方改革には少なくとも、国家、会社、個人の3つの視点があるという。僕らは往々にして、これらを混同してしまう。視点が変われば見え方が変わるのが、働き方という概念なのだ。

つまるところ、「時短」について語る場合でも、「在宅勤務・リモートワーク」について語る場合でも、「裁量労働」について語る場合でも、「副業解禁」について語る場合でも、「休み方」について語る場合でも、それを国家の政策の視点で語っているのか、企業の経営戦略の文脈で語っているのか、個人の生き方・働き方(ライフ・キャリアデザイン)の観点から話をしているのか、はたまた複合的に話をしているのか、それを明確にしなくてはいけないというわけだ。

政策としての「働き方改革」は人口減少に伴う労働力不足に対応するというお題目があって、そのために①長時間労働を是正する ②非正規社員と正規社員の格差是正 ③高齢者の就業促進という三本柱を掲げているに過ぎない。

そこには、企業の経営戦略や人員政策をどうするかといった視点はどうしても不足してしまうし、僕がいつも唱えている「安易な時短やリモートワークの推進に走る前に、解像度の高い明るい地域未来社会とライフデザインを!」といった主張はまったく考慮されていない。

だが、それは仕方のないことなのだ。

「働き方改革」という言葉を使う前に、自分がどういう立場でそれを発しているのかを一度立ち止まって考えてみるだけで、混迷を極める働き方に関する議論も少しはマシになるかもしれない。

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