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そろそろ自分を信じていい頃だ

この世で最も赦し難く、受け入れ難く、愛し難いのが「自分自身」という存在だ。僕らは大な小なり、困難な自己受容という問題を抱えながら生きている。とりわけ、日本という国に限定してみるとその問題は深刻であると言える。内閣府の調査(特集 今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~)でも、その傾向は明らかだ。

「自分自身を愛している、I love myself.」を自信を持って、嘘偽りなく言える人がどれ程いるであろうか。

思えば、僕も自分自身を憎みながら生きてきた。

何度、自分の弱さに打ちのめされ、罪過を悔い、愚かさに絶望してきたことだろう。他者との比較の中で劣等感を感じ、惨めさと敗北感に心が支配される状態を幾度となく経験してきた。

その自己認識・心のあり方が不健全なことは誰の目にも明らかである。

聖書には『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という道徳律が示されている(マタイ22:39他)。自分自身を愛する、というプロセスを飛ばして、他者を愛することは欺瞞以外の何物でもない。乾いたぞうきんを無理やり絞るようなもので、そこには何の生産性もない。自分を愛せていない人の「愛している」という言葉には信憑性がない。

最近、自分のことを本腰を入れて内観してみる機会があったのだけれども、そこで気付いたのは、僕が自分を過小評価し過ぎていたということだ。自分自身の価値をあり得ないくらい低く見積もっていた。

一つ例え話をしようと思う。

僕は、人生という山を、現在進行形で、悩み、苦しみながら登っている。途中で何度も傷つき、倒れ、挫折し、どう考えても遠まわりとしか思えない道を回りながら、時に滑落し、それでもひたすら上へ、前へ、歩みを進めてきた。僕の視線は常に高いところに向けられていたと思う。

高いところに来て、上ばかりを見ているのは苦しいものだ。

山登りをする人には分かるのだと思うけれども、ふと後ろを振り向いてみると、見える景色に驚きと感動を覚えることがある。「随分高いところに来たのだなあ」という実感とともに、確かな達成感を感じる。その達成感は山登りの醍醐味だ。それくらいのことは、そんなに頻繁に山に登るわけではない僕にも何となくわかる。

黙想する中で、去年、一人で青森の岩木山を登った時のことを思い出した。そんなに辛い登山ではなかったのだけれど、あの時、ちょっとキツイ傾斜の中で後ろを振り向いて見た景色は天気が良かったこともあって、もの凄く美しかった。

これまでの歩み・経験を、冷静で、且つ優しい眼差しで見つめてみること。

それは、山登りにおいても、人生においても、大切な営みだ。自分がどのような道を歩んできたのか、そのことを俯瞰・確認することに、価値や意味はあると思う。

僕は決して平坦な道を歩んできたわけではなかった。そして、それは大分苦しい道だった。

その道を諦めずに歩んできたこと。つまり今ここに生きているということ、生きることを投げ捨てなかったこと。そして、様々なチャレンジをし、一定程度の努力をした結果、今それなりに高いところまで来たということ。そのことには計り知れな価値がある。ここから見える景色は美しいし、その高みに来ている人達は、皆魅力的だ。そして僕だって、そんな魅力的な人達と対等にやり合うことができる。

こういう風に書くのは、少しというか、大分恥ずかしいけど、そのことをちゃんと認めてあげないと、自分自身があまりにも可哀相だ。もう自分自身を痛めつけるのはやめよう。無駄にもがくこともやめよう。自分のこれまでの頑張りを、冷静に評価した上で、また上へ、前へ視線を向け、歩みを進めることが今の自分には必要だったのだと思う。

これからも失敗はする。
その時は、少し歩みを止めて、良いことも悪いことも、あるがままを受け止めて、次の一歩の糧にすればいいだけのことだ。

「そろそろ自分を信じていい頃だ。」
スラムダンクの名シーンの一つが頭をよぎる。山王戦で安西監督は、今の自分を過小評価し、過去を美化する傾向がある三井をこう評価した。僕も、このステージに来ているのだと思う。他の人の評価は関係ない。色々言う奴はどこにでもいる。外野には好きなように言わせておけばいい。

僕が、僕自身を評価すること、過去の僕を赦し、受け入れ、愛すること、それ以上に大切なことは何もないし、その自覚なしに他の誰かを、この世の中を本当の意味で愛することなどできやしない。

お気付きだと思うが、こう宣言するのにはとても勇気がいる。
僕らは、「自分自身に価値がない」という誤った教え・価値観を、時代遅れの教育システムや利益至上主義の企業活動といった社会システムの中で、後天的に、それも極めて書き換え困難な形でインストールされてしまっているからだ。

僕は、困難な自己受容という問題から逃げずに、真実な態度で向き合ってきた。その中で本当に多くの苦しみを経験した。しかし、そのことは決して無駄ではなかった。

その上で、僕には、今、これを読んでいるあなたに伝えたいことがある。

あなたのこれまでの人生には価値があったし、もし神様がいるとして、神様はあなたの頑張りをちゃんと知っていて、それに報いてくれるということだ。あなたには、今ここに生きているだけで価値がある。あなたのことを現在進行形で赦し、受け入れ、愛してくれる何かが、存在している。もし、そう思えないのであれば、それはそういう風に思わせる社会の側が狂っている。気にすることはない、あなたは、あなたを赦し、受け入れ、愛してあげればいい。

「あなたは私の目に高価で尊い。私はあなたを愛している。」という言葉は、僕にだけ特別に宛てられたものではない。この世でただ一人の存在である、特別なあなたにも、その眼差しは同じように向けられている。そのことをどうか覚えていて欲しい。

一方で、世の中には、そう思わせない、おかしな仕組みや空気感がある。僕は、そういうおかしい世の中を1mmでもいいから変えてやりたいと思う。

おかしいことに慣れっこになってはいけない。

少し、はにかみながらではあるけれども、「I love myself.」と言えるようになった僕には、自分自身に価値がないということで苦悩する人、絶望する人が溢れるこの世の中を変える責任があると思っている。そして、それこそが僕がこの世に生まれた意味だと思う。僕はこの世に爪痕を、生きた証を残したい。

上を見れば、先を見れば、キリがない。山はまだ高い。仮に僕らが100年の人生を生きるとするのであれば、本番はこれからだ。勝ち負けはそんなに早い段階で決まらないし、そもそも勝ち負けなんてものは、ともすれば存在しない。

不思議な気持ちだ。
熱くはあるけれども、とても静かで、澄んでいる。

謙虚さと自信は同居し得る。
ここから見える景色は、とても美しい。
あなたの今日が、明日が、美しく、優しくありますように。

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