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あの頃の記憶

(これは誰かの回顧録のようなフィクションです。多分続きものです。でも次がいつになるかはわかりません。とりあえず書き出すことが大事かなと思って書き出してみました。僕とありますが性別の設定はしていません。どこをとっても重い話で多分楽しいところはありません、すみません。
書き出しが下のとおりなのは、初めて書くから、ではないです。多分)

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 なにから書いていいのかわからない。
 ただ、8月は6日があり9日があり、15日があって、命という言葉に触れる機会が多くなる。だから、気持ちを整理しようと思うのかもしれない。
 僕が思い出として考えようとしていることは実際には7月のことだけれども。

「今な、親切な人と暮らしてるねん。結構幸せにやってるよ」
そんな電話があったのは、あの7月のその日の、さて何日前だったか、もう覚えてはいない。
「へぇ、良かったね。じゃ」多分、僕はそれくらいの短さで、若干イライラして電話を切ったような気がする。
「いつか、遊びに来て欲しいと思ってるねん」と言われたのは、その時の電話だったか、その前に数回受けた電話だったか。

 電話をかけてきたその人は、ちょうと50歳だったはずで、今と違って当時の50歳といえばもうおばあちゃん間近なイメージが結構世間的にあったと思う。だから、一緒に暮らしてくれる「親切な人」が見つかったという話は、まだ20歳そこそこの僕には結構衝撃だった。
「……人間ってどんな人生送っても結構生きていく道ができるもんなんやな」
 単純に驚いたというか。
 そういえば、その電話を受けるまで、専業主婦という立場が長くしかもその称号を得てからのほとんどの人生の時間で、主婦業を放棄せざるを得なかったその人が家を出たあと、どうやって生計をたてているかってことを考えたことが一度も無かった気がする。不思議なことに。
 ある日、突然、「お母さんと離婚した。お母さんはもう家を出ていった」と教えられたとき、「ああ、そうなんだ」と思っただけだった。ような。
 ような、というのは、正直、そのあたりの記憶もまったく曖昧だからだ。

 そう、その人とは僕の母親だった。
 そして、僕はその母親と父親と一緒に暮らしていたはずだ。
 だけど、その頃の家での記憶が全然ない。
 ちょうど就職して、交際相手もできて、その会社生活や交際相手とのやりとりなんかはなんとなく(もう30年以上まえだからなんとなくでも許されるだろう)覚えているのに。
 会社で仕事をして交際相手とイチャイチャしたり喧嘩したりして、毎日家には帰っていたはずで、そこにはまだ現役の教師だった父親と専業主婦という肩書の母親がいたはずなのに。
 ただ、実際のところ、母は僕がものごころついて実家のある町に引っ越してきたときにはかなり精神的におかしくなっていたらしい。これは姉の証言。
 僕が母の精神状態に気づいたのは多分小3のあの夜で、そのときまではきっと全然わかっていなかった。
 
 夜中に目が覚めた。
 首が苦しくて。
 当時、僕は母と父と同じ部屋に寝ていた。
 で、気がついたらとにかく首が苦しい。
 変な記憶だけど、ぎゅっと瞑った目の中で、ぶくぶくぶくぶく泡が次から次へと沸騰して体の下の方から頭に向かって湧き上がっているイメージがあって、それが苦しくなればなるほど泡に色んな色がついてきて…と書けば冷静に観察してるような感じだけど、それは多分一瞬で。同時に、「きっと強盗だ。お父さんとお母さんが危ない!やられちゃったかもしれない!」と思って、「とにかく抵抗しなくては」と力の限り足をバタバタさせて強盗のお腹(と勝手に思っていた)を蹴っていた。たぶんそれも短い時間だったはずだけど。

急に「なにしてるねん」という怒号(「あ、お父さんだ」と思った)と共に苦しさから解放された僕が見たのはタオルをつかんで突っ伏して泣いている母の姿だった。
 いつもなら、押し入れのふすまが目の前の一番端っこに寝かされるのに、そういえばその夜はなぜか父と母との間で寝かされていた。それは母がわざとそうしたのだろうけど、それが多分僕の命を救ったことになる。僕が強盗だと思ってぼんぼん蹴ったのは父のお腹で、それで父が目を覚ましたらしいから。

 その後の記憶はもうない。そのままもう一度、姉の部屋で寝かせてもらったのかもしれない。姉の部屋が唯一、我が家ではドアのある洋室で、僕はその部屋にはいるたび、秘密基地に入るような気持ちでわくわくしたものだったから、それはそれで喜んだんじゃないかなって気がする。
 母が自分にした仕打ちについて自分がそのときどう思ったのかもまったく記憶にない。だけど、さすがになにをされたかは分かったし、そのとき初めて、自分の母が普通の状態じゃないということは分かった気がする。

 数行前にその後の記憶はもうない、と書いたけど、実を言えば次の日の夜の気持ちは覚えている。つまり、昨日、自分を殺そうとした母親と同じ部屋でもう一度寝るかどうかという選択の難しさについて。
 次の日の夜はたしか姉の部屋で姉と一緒に寝たんだったと思う。そしてそのさらに次の日からはまた母親と父親と一緒に寝たんだったと思う。
 
 今日一日は、お母さんのこと断ってちょっと反省してもらって、次の日は一緒に寝てあげよう。と書くと、なんだか優しげに聞こえるかもしれないけど(そうでもないかな)、全然そんなことはなくて、多分自分を可哀想にみせて点数を稼ごうとした、計算だったと思う。
 自分が(妻が)手に掛けようとした子が、それでも自分を(妻を)信じてくれる、なんて優しい子なんだ……という親や周囲の評価を得ようという、すでにそういうあざとさを武器にして生きていたところのある子どもだったから。

 ところで、このときの姉の気持ちはどうだったのだろうと僕は今でも考える。母は一応後追いするつもりだったらしいから、いわば、僕は「選ばれた子」で姉は「選ばれなかった子」なのだ。姉は僕より10近く年が離れていて、当時の僕からすると十分大人だった。ただ、実際は一番多感な年頃だったはずで。だから、すっと納得できたのかどうか、母に対して、僕に対して屈託がなかったとは思わないけど実際はどう思っていたのか、姉に聞いたことはない。

 なぜかというと、同じような事件を母はこの後も数年ごと2回起こしているからだ。
 2回目は僕が小6のとき、3回目は僕が中2のときだと思う。(ちょっとこのあたりも誰かよく知っている人に聞かないと確実ではないが、なかなか聞けることでもないので、文中「思う」が多いのは許して欲しい。)
 つまり、その時それぞれの年齢できっと受け止め方が違い、回数分、思いは蓄積されるわけで。姉にこの「選ばれなかった自分」という立場についてどう思っているのかを聞くのはとても怖くていまだに勇気が出ない。

 8月は命について考えることが多い月と最初に書いた。
 6日があり、9日があり、15日がある。
 それらはすべて原爆と太平洋戦争(この書き方が正しいのだろうか?それすら僕にはわからない)に関する日だ。日本のすべて(でもないだろうが)に近い人が、なんらかの形で戦争と命という言葉に接して、黙祷を捧げることが多い日だ。
 もちろん、僕も戦争をどこかしらで意識する。だけど命という言葉には、どうしても自分の身の周りの「選ばれたけれども」失われなかった命、「選ばれなかったから」失われなかった命、そして最後に失った命、その後を生きた命、そんな身近の命のことが先に回り始めて、テレビでやってる戦争の犠牲になった命の問題に向き合おうとしても目の前に薄いカーテンがかかっている感じがあって、自分は自分のことしか考えない冷たい人間なのだろうかと思ってしまって、戦争特集や戦争映画などもちゃんと見たことがない。それはいけない。多分いけない気がする。

 だから、こうやって断片的に書き出していくうちに、思い出すことも出てきて、自分の中で整理がついて、カーテンを取っ払ってすっきりと8月の命題に真正面から向き合うこともできるようになるのだろうか。わからないけど、人生も折り返し地点を過ぎた今、時々、思いつくままにあの頃の記憶を手繰ってみたいと思っている。

 なんて、自分の心を覗いてるようでいて、キーボード叩くより早いスピードで目の前のピーナッツかりん糖が袋から無くなっている8月15日の夜。
 

 

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